陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

フランク・オコナー「天才」その4

2009-05-12 22:54:11 | 翻訳
その4.

こんなこともあった。足の不自由な先生のことを知って、ぼくはひどく感銘を受け、自分も片脚を使わないことにしようと決心したのである。ところがその数日間、家は大変なことになってしまった。母はすぐ、ぼくの脚の具合が悪いことに気がついてくれたのだが、父親ときたらぼくの格好を見て、軽蔑したように鼻先で笑うのだ。父に対して腹を立てるぼくと一緒になって、母は、お父さんはひとでなしもいいところだよ、とまくしたてた。そこからまた何日も口げんかは続いたが、やがてぼくにとっても困ったことになった。実のところ、脚を伸ばしたまま引きずって歩くのには、とっくにうんざりしていたのだが、だんだんよくなってきた、と言って、母をがっかりさせるわけにはいかなくなってしまったのである。ぼくが身体を傾けて広場を横切っていくのを、父は門のところに経ったまま、何もかも知ってるぞ、と言わんばかりの意地の悪い笑みを浮かべて見送った。ぼくがとうとう脚を引きずるのを止めたとき、母の言葉をそっくりまねた父には、腹が立ってならなかった。

 2.

 このように、父と母はぼくに何を教えるべきかをめぐって、しじゅう言い争っていた。父は何も教えてやる必要などないと言う。

「でもね、ミック」母は力を込めて言った。「子供っていうのは、いろんなことを学ばなきゃならないの」

「学校へ行くようになりゃ、じきにしっかり教わってくるさ」と父は渋い顔をした。「なんでいつもおまえはあいつの頭ん中へ入れ知恵をしたがる? もう十分悪賢いじゃねえか。子供ってものは、もうちょっと自然に育つ方がいい」

 だが、どうやら母は子供が自然に育つことを好まなかったか、いまのままで十分自然に育っていると考えたらしい。もちろん、男というものが天才に反感を抱きがちなのに対して、女はその半分も反感を抱くことがないという理由もあったろう。女性は、天才に希望を見いだすのではあるまいか。

 ぼくが何をおいても知りたかったのは、赤ん坊はどこから来るのかという疑問だったのだが、このことは誰も説明してくれなかった。母にたずねてみても、何だかうろたえたようすで鳥だの花だのの話をするばかり、昔は知っていたのかもしれないが、どうやら忘れてしまったらしかった。忘れたことを白状するのが恥ずかしいのだ、としか、考えようがない。ミス・クーニーにも聞いてみたが、静かに笑ってこう言うだけだった。「坊やにもそのうち、はっきりわかる日がくるよ」

「でもね、ミス・クーニー」ぼくはありったけの威厳を見せて言った。「ぼくはいま知らなきゃならないんだ。それがぼくの任務だからね」

「無邪気でいられるあいだは、そのままでいりゃいいんだよ」同じ調子で彼女は続けた。「じき、世の中の方が、坊やの無邪気なところをふんだくっちまう。ひとたび無邪気じゃなくなったら、もう二度とそこには戻れやしないんだよ」

 だが、世の中がいったい何をふんだくろうと狙っているにせよ、事実を探求できるなら、ぼくにはそちらの方がいいような気がした。父にも聞いてみたが、教えてくれたのは、飛行機から赤ん坊を落っことすのさ、それをうまいこと受けとめることができたら、自分のものにしていいことになってるんだ、と言った。「パラシュートで?」とぼくが聞くと、父は驚いたふりをしてこう言った。「ちがうさ、ものごとの始まりがそんなふぬけたもんだったら、おまえもいやだろう?」

あとでまた、ぼくは母に呼ばれて、お父さんは冗談を言ったんだからね、と教えてもらった。ぼくはむかっ腹が立ってたまらず、そのうち冗談の言い過ぎで、父さんはひどい目にあうからな、と言ったのだった。




(この項つづく)



フランク・オコナー「天才」その3

2009-05-11 22:35:58 | 翻訳
その3.

 むろんいまのぼくには、父はぼくのことが正直言って好きではなかったことも理解できる。それは気の毒な父の落ち度ではない。天才の父親になりたいなどと夢にも願ったことはなかったのに、ぼくときたらそうなりそうな気配が濃厚だったのだ。まわりの同年代の男たちはみな、平凡で乱暴で無学な子供たちを抱えているのに。息子が大人物になれそうもないからではなく、天才になりそうだと考えて、怖気をふるったのである。公平な目で見れば、父は自分の身を案じていたのではなく、未だ経験したことのないようなことが、家族のなかから現れてくるのを恐れ、自分が恐れを抱いていることにも腹を立てていたのだろう。

よく、帽子を目深にかぶった父がズボンのポケットに両手を突っこんだまま、表玄関を開けて入ってくると、ぶすっとした顔つきでぼくをじっと眺めていた。ぼくはといえば、台所の椅子に腰かけて、紙に囲まれて、自分の旅行記のための新しい地図や挿絵をせっせと描くか、『吟遊詩人の少年』の楽譜を写すかしていたのである。

「どうしておまえは外でホーガンとこの息子と遊んだりしないんだ」
父はそんなふうに聞いてきたものだが、その声には、おもねるような、無理にでも愛想よくしようとするような響きがあった。

「パパ、ぼく、ホーガン家の子たちは好きじゃないんだよ」礼儀正しくぼくが答える。

「だが遊んだって悪いことはないだろう?」と、父はいらだたしげに言う。「あの子たちは男らしい、いい子だ」

「だっていつもケンカをふっかけて来るんだよ、パパ」

「ケンカのどこがいけない?」

「ケンカは好きじゃないよ、パパ。でもそう言ってくれてありがとう」ぼくはまた、文句のつけようがないほど礼儀正しく答えるのだった。

「この子が言うことの方が正しいかもしれないじゃないの」母が弁護にやってくる。「あんな子供たちが、実際どんなだか」

「やれやれ、おまえはあいつを自分そっくりのいやなやつに育てたいらしいな」父は鼻先で笑うと、足音高く表のドアから出ていく。もし自分が結婚相手を間違えさえしなければ、息子も性格のいい、みどころのあるやつになったにちがいないのに、と、腹を立てながら。そういや、おふくろはいつも、あの女はあんたには似つかわしくないよ、と言ってたっけが、たしかにその通りだったな、と。

 気の毒な父が、ぼくの頭がおかしくなるのではないかと目が離せなかったことを思えば、お祖母ちゃんの予言は正しかったのかもしれない。父の気にくわないもののひとつに、ぼくのオペラ・ハウスがあった。オペラ・ハウスというのは、ぼくが暗い廊下にふたつ椅子を並べて、そこに載せた段ボール箱のことだった。ぼくは内部に切れ込みを入れて張り出し舞台を作り、背景に幕を垂らして、そこに山や海、両翼には木々や岩の絵を描いた。役者は絵を切り抜いて台紙に張って色をつけ、何本かの木ぎれを使って動くようにした。自分で作ったカラースクリーンごしにロウソクを照らす。舞台にかけるオペラも、物語の本やいくつかの歌をもとに自分で作った。

ふたりの登場人物による情熱的なデュエットをひとりで歌い、背景幕をくるくる回して月の光の効果をあげているとき、一枚の幕に火がついて、何もかもが炎に包まれてしまった。悲鳴を上げたところへ父が飛んできて、炎を踏み消すと、ぼくを罵り始めた。まもなく、今度は母がその罵倒に対して腹を立て、六人の子供がわめいてるより始末に負えないわね、と言ったので、その後父は、一週間というもの、母にだんまりをきめこんだのだった。


(この項つづく)



フランク・オコナー「天才」その2

2009-05-09 22:51:57 | 翻訳
その2.

ぼくが心引かれたのはおとなの女のひとで、なかでも親しかったのはミス・クーニーという洗濯のおばあさんだ。なんでも昔、精神病院に入っていたらしいが、たいそう信心深い人だった。ぼくはこのひとに犬のことを教わった。誰かが動物をいじめでもしたなら、相手かまわず一キロ先まで追いかけていき、警察に駆け込むことだってした。警察の方では、ミス・クーニーがちょっとおかしいことを知っていたから、たいてい相手にはしなかったのだけれど。

 ミス・クーニーは、白髪混じりの頭と、高い頬骨、歯のない歯茎がのぞく、悲しげな顔つきのひとだった。ミス・クーニーがアイロンをかけているあいだ、ぼくはいつも蒸気のたちこめる暑くて湿った台所に坐って、彼女の宗教書を何時間も眺めた。ミス・クーニーもぼくのことが気に入っていたのだろう、坊やは絶対に神父様になれるよ、と言ってくれた。ぼくが、そうだね、もしかしたら司教様にだってなれるかもね、と答えると、司教様だなんて、と、どうやら司教の地位をさほど高くは買ってないらしい。ぼくが、ほかにもなりたいものがたくさんあるからなかなか決められないんだ、と言うと、それにはただにっこりするだけだった。ミス・クーニーは、天才が果たすべき務めはただひとつ、それは神父となることであると考えていたのだろう。

 ただ、ぼくの方はだいたいのとき、自分は探検家になるものと思っていた。ぼくの家のある一画は、二本の道路にはさまれていて、一方が他方より一段高くなっている。家を出てから上の道に出て、宿舎を過ぎて二キロほど歩くと、どの四つ辻や小道を左に折れても、舗道を外れることなく家に戻ってこれるのだった。こうした探検旅行のおかげで、ぼくはどれほど貴重な情報の数々を手に入れたことだろう。家に帰るとすぐに、『ジョンソン・マーティン旅行記:豊富な地図や挿絵つき アイリッシュタウン大学出版会発行 定価3シリング6ペンス』の執筆に取りかかった。それと一緒に『アイリッシュタウン大学ソングブック 学校・専門学校向け ジョンソン・マーティン編集』の編纂にも携わっていて、そっちにはぼくの好きな歌の歌詞と曲を載せていた。ぼくは楽譜が読めなかったけれども、手近にある楽譜は片っ端から写していた。音符を載せるとページの見栄えが良くなるし、写すのは楽しかったのだ。

それでもぼくは自分が何になるのか、確信が持てなかった。わかっていたのはただ、有名になったぼくの銅像が、パトリック通りのマシュー神父像の隣りに立つにちがいないということだけだ。マシュー神父は「禁酒主義の使徒」と呼ばれていて、ぼくには「禁酒」に関する主張は特になかったのだが。わが故郷にはしかるべき天才がいなかったので、自分こそがその穴を埋めるつもりだった。

 だが、この執筆作業のおかげで、ぼくは自分の知識に大きな穴があることを痛感していた。母は困っているぼくに理解を示し、四苦八苦しながらも質問に答えてくれた。だが母にせよ、ミス・クーニーにせよ、知識の宝庫とは言いがたかったし、父は助けどころか邪魔にしかならなかった。父は自分に興味のあることならいくらでも話してくれるのだが、生憎、そうした話題はぼくにはちっとも興味が湧かないのだった。

「バリーベッグ(※日本でいうと「桜ヶ丘」や「青葉台」のように、アイルランドでよくあげられる実在しない町の名)」と陽気に話し始める。「市(いち)が開かれる町。人口648人。もよりの駅はラスケイル」
父はほかにもいろんなことを教えてくれたが、あとから母がぼくをそばに呼んで、お父さんはまた冗談を言ってるんだよ、と教えてくれた。これには腹が立った。ぼくには父の何が冗談で、何が冗談ではないのかまるでわからなかったのである。


(この項つづく)


フランク・オコナー「天才」その1

2009-05-08 23:19:24 | 翻訳
今日から一週間ほどをめどに、フランク・オコナーの短篇「天才」の翻訳をやっていきます。この短篇は、amazon の中身検索で読むことができるので(笑)、興味のある方は、"Frank O'Connor, The Geinus"で検索してみてください。

* * *

The Genius(天才)

by Frank O'Connor(フランク・オコナー)


 男の子のなかには生まれついての意気地なしもいるが、ぼくが男らしさと手を切ったのは、信念があったからだ。母から天才と呼ばれる人びとのことを聞いて、自分もその一翼に連なるつもりだったし、ケンカは罪深いばかりか、わが身を危険にさらす行為であることを、この目で確かめていた。ぼくたちが暮らす軍の家族住宅のあたりの子供たちは、ケンカに明け暮れている。母は、あの子たちは乱暴者だし、あんたにはもっとふさわしい友だちが必要ね、大きくなって学校にあがったら、きっとそんな友だちが見つかるわ、と言うのだった。

 ケンカをふっかけられて逃げられなくなったときのぼくの手は、すぐ近くの塀によじのぼって、天にまします我らが神のことや、礼儀のあれこれを大声でまくしたてるというものだった。大人の注意を引くためにそんなことをしたのだが、たいていはそれだけでうまくいった。敵どもは、こいつはいったい何を言ってるんだ? と、しばらく穴の空くほどぼくを見上げ、人が集まってくる前に引きずりおろして頭をぶん殴ってやる暇があるだろうか、と考えたあげく、「弱虫やあい」とわめきながら、腹立たしげにどこかへ行ってしまう。ぼくからすれば、ケンカすることを思えば、弱虫と呼ばれることなど何でもなかった。近所には貧しい混血の子供たちも住んでいたのだが、その子たちは、はばかるようにあたりをそっと行き来し、人の姿を見かけるといつも一目散に逃げ出した。でもぼくは、なんとかその子たちと親しくなれないかとずっと思っていたのだった。

 ぼくだって遊んだし、ボールを穏やかに蹴りながら歩道を走るのは楽しかったが、それもほかの子が現れるまでのこと。誰かが来ると、たちまち遊びは荒っぽくなり、肩をぐいぐい押しつけられて、道に押し出されそうになる。女の子たちの方がまだましだったが、それも女の子がやたらとケンカをしない、その一点につきた。それ以外の面では、ただただ退屈で、ごく基本的な知識すら、まるで持ち合わせていないのだった。



(この項つづく)

日付のある歌詞カード ~ベン・フォールズ・ファイヴ “スモーク”

2009-05-05 23:13:18 | 翻訳
BF and WASO Smoke


スモーク(Smoke)

by Ben Folds Five


Leaf by Leaf page by page
Throw this book away
All the sadness all the rage
Throw this book away

 一枚一枚、一ページ一ページ
 この本を破っていこう
 ありとあらゆる悲しみごと、ありったけの憎しみごと
 この本を捨ててしまえ

Rip out the binding, tear the glue
All of the grief we never ever knew
We had it all along
Now its smoke

 本の背をちぎり、接着剤をひっぺがせ
 ぼくたちが味わった悲痛な思いをひとつ残らず
 ぼくたちがこれまでずっと積み重ねてきたそれが
 いま、煙になっている

The things we've written in it
Never really happened
All the things we've written in it
never really happened

 ぼくたちが書き込んだいろんなことは
 ほんとうは起こらなかったんだ
 ぼくたちが書いたことは何一つ
 ほんとうには起こらなかった

All of the people come and gone
Never really lived
All of the people have come have gone
No one to forgive smoke

 やってくる人も、行ってしまった人も
 ほんとうには生きちゃいなかった
 来てくれた人も、行ってしまった人も
 誰も煙にすることを許してはくれないだろう

We will never write a new one
There will not be a new one
Another one, another one

 ぼくたちが新しく本を書くことはない
 もう新しいページはふえないんだ
 新しいページは、つぎのページは

Here's an evening dark with shame
Throw it on the fire
Here's the time I took the blame
Throw it on the fire

 ここに恥ずかしさで気分の暗くなったあの夜のことがある
 火にくべてしまえ
 ここにはぼくが責任をかぶったときのこと
 火のなかに放り込んでしまえ

Here's the time we didn't speak
it seemed for years and years
Here's a secret
No one will ever know the
reasons for the tears
They are smoke

 ここにはぼくたちがひとことも口をきかなかったときのこと
 何年も何年も続いたように思えるけれど
 ここにはあの秘密が
 誰ひとり、その涙の秘密のことは
 知るよしもない
 みんな煙になるんだ

We will never write a new one
There will not be a new one
Another one, another one

 ぼくたちが新しく本を書くことはない
 もう新しいページはふえないんだ
 新しいページは、つぎのページは

Where do all the secrets live
They travel in the air
You can smell them when they burn
They travel

 秘められたことが書いてあるページはみんな
 宙に飛んで行ってしまった
 燃えるにおいがかげるだろう
 みんなどこかに行ってしまった

Those who say the past is not dead
Stop and smell the smoke
You keep on saying the past is not dead
Come on and smell the smoke

 過去は死なないなんて人がいるけど
 そんなことはよして、煙のにおいをかげばいい
 君は過去は死んだわけじゃない、なんて言い続けてるけど
 よせよ、煙のにおいをかぐんだよ

You keep saying the past is not even past
You keep saying
We are, smoke

 君はまだ過去はまだ過去にすらなってない、って言い続けてるけど
 君はまだ言ってるけど
 ぼくらは、煙さ

* * *



引っ越しの準備をしながらかけていたのは、もっぱらオアシスの『ヒーザン・ケミストリー』で、リアムと一緒に「ヒンドゥー・タイムス」を気持ちよく歌いながら、いらない本を結わえていたのだが、本を捨てるところからこの歌を思い出してしまった。

『しぐさの日本文化』のなかで、多田道太郎は『流行歌というものは、どこでも、どうして恋の歌が多いのか。それも、大半はやるせない失恋の歌である』と疑問を投げかけている。なぜ失恋の歌は、人の心を揺さぶるのか。

多田道太郎は人類学者マーガレット・ミードのニューギニアのアラベシ族の考察を援用する。アラベシ族の人びとは、猟で傷を負ったようなとき、簡単な手当をしたのちに、の人の同情をえようと、村中を練り歩くのだそうだ。村中の人が「かわいそうに」と集まってくる。人びとの同情の気持ちをかきたてるために、そういうことをするのだそうだ。
「傷を負ったり、頭痛が生じたときの状況がどのようなものであっても、各人はみずからの個人的な状態を集団全員が情緒的にかかわりあう事柄へと転化するのである。この反応は十分に習慣化されているので、ちょっとしたけがの話、どこか別の土地でずっと昔に自己でつぶした指の話でさえ、聴衆の同情に満ちた声々の合唱を起こさせるほどだ。伝え手は一つの感情の状態を集団に表示し、集団も一つの感情の状態でもってそれにこたえる。」(「コミュニケイション問題へのアプローチ」井上摩耶子訳)

 流行歌手と聴衆のあいだにまきおこる感情の状態も、おそらくこれにひじょうに近いものなのである。歌手は自分の心の傷口をひらいてみせる。すると「聴衆の同情に満ちた声々の合唱を起こさせるほどだ」――というふうに考えられないだろうか。(多田道太郎『しぐさの日本文化』)

わたしがまだ小学校にあがるかあがらないかのころ、父親に『道』を観に連れて行ってもらったことがある。最後の場面で、ジェルソミーナを失ったことを知って、浜辺につっぷして泣くザンパノーがかわいそうで、孤独に胸が引き裂かれそうだった。それからその映画のことを繰りかえし思い出しては、ひとりしくしく泣いていた。

六歳かそこらで、「孤独」ということも、「愛」ということも、はっきりと理解できたはずがない。だが、逆に、そういうものがひどくつらい、自分の根幹を揺るがすほどのつらいことだということを、映画を観て感じ、そのことは当時のわたしにも十分に理解できたのだろう。

ミードが「伝え手は一つの感情の状態を集団に表示し、集団も一つの感情の状態でもってそれにこたえる。」というのはよく理解できる。

だが、それなら「傷」である必要はないのではないか。「獲物」を見せて喜びの感情を表示したり、うまくいった恋の歌を歌って、浮き立つような喜びを表示してもよさそうだ。だが、アラベシ族が苦悶の浮かべて傷を見せる方を選ぶのは、ポジティヴな感情より、ネガティヴな感情の方が、より人びとの共感を得やすいということなのだろうか。

ベン・フォールズのこの曲も、三拍子のシンプルなメロディである。誰もがすっと入っていけるような、静かな調子で入っていき、激しい憎しみも諍いも、その傷口がまだふさがっていないことを感じさせるが、はっきりと傷そのものは見せない。

それでもこの曲を聴いたら、誰でも、話すことさえなくなって押し黙ったまま過ぎていく夜を思う。たとえそんな経験のない小学生であっても、おそらくそれが無限に続くように思われる時間であることは想像できるだろう。過去にすらなってないじゃない、となんとか仲を修復しようとする彼女の気持ちも、そんなことはムリだ、煙のにおいをかいでごらん、という彼の気持ちも。

そうして、このつらい経験が、自分のものでないからこそ、人はよけいに気持ちよく、悲しみに浸れるのだ。実際の経験なら、歌のメロディのようにきれいにはいかない。ドロドロしたことや、現実的なこと、さらにひどいことにお金の問題まで絡んできて、本を捨てることなどより何百倍も骨の折れるプロセスを経なければならない。

だが、歌だから。
うまくいった恋なら、聴くよりも、経験した方がいいに決まっているけれど、現実にはどうしようもない終わりであっても、ベン・フォールズの透明なピアノの音が、すべてを浄化してくれる。気持ちよく悲しみに浸ることができる。

だから、わたしたちは失恋の歌が好きなのだろう。


本を捨てる

2009-05-04 23:06:37 | weblog
最近はゴミの分別が厳しくなって、紙類は「古紙」に分類されるようになってしまった。ビデオテープを「普通ゴミ」として出してかまわなくて、反古紙が「リサイクル可能だから」という理由で、「普通ゴミ不可」となるのは納得がいかないのだが、まあこういう規則というのはどこかに線を引かなければならないのだから、完全に納得ができる分類というのもあり得ないとも。

それでも、普通ゴミであれば、扉のある集塵庫に捨てることができるのに対し、古紙類は、道路に面した粗大ゴミ置き場に、紐で結束して捨てることになる。新聞や古雑誌ならともかく、プリントアウトや答案類などをそういう形で捨てるのは、大変抵抗がある。そこで、シュレッダーを買うことにした。シュレッダーと言ってもたいしたものではない。ハンドルがついていて、鉛筆削りのようにそれをキコキコと回していくのである。

ところが、日常少しずつでもそうやって処分していればよかったのだが、引っ越しともなると、押入や机の引き出しの奥から、出てくるわ出てくるわ、大学一年のときに書いたレポートやレジュメまで出てきたのである。何でこんなものを取っていたのやら。一応目を通してみたのだが、書いた記憶はまったくないにもかかわらず、まぎれもなく自分の書いたものであることは、はっきりとわかった。文章の癖といい、書き癖といい、ついでにそこから浮かび上がる自意識みたいなものまで、まぎれもなく自分にほかならず、頭を抱えたくなったものだ。

そんな段ボール箱一杯のレポートやレジュメの束を、しばらくきこきこやっていたのだが、すぐにうんざりしてしまった。どうせ「普通ゴミ」は燃やしてしまうのである。紙を燃やして何が悪い? ここは市当局に大目に見てもらうことにした。

さて、市が発行する「ゴミの分別表」には、新聞・雑誌はあっても、「本」という項目はない。リサイクルではなく、古本屋に持っていけ、ということなのか。だが、少々の本ではないのである。ミステリやSFや時代小説の文庫本は古本もかなりある。山のようにある英語の雑誌は、引き取ってくれないだろう。古紙類の回収の日に出すことにした。

ちょうどその前日、せっせと結束しているとき、テレビで「誰かの『こころ』が捨てられている」というブックオフのコマーシャルをやっていた。雨に打たれている「こころ」を始めとする本たち。胸が痛んだ。やっぱりブックオフに持っていこうかな、と思ったのだが、いまさら古本屋で買った本と、通常の本屋で買った本を分類するのも面倒なのだった。

つぎの日の朝、台車に乗せてゴミ置き場に出した。なにしろ量が多い。二度に分けることにした。よいしょよいしょと台車に載せて、ゴロゴロと運んでいき、よいしょよいしょと下ろしていく。

ところが二度目に持って降りたときに、なんと、文庫本のすべてが消えているではないか。おまけにハードカバーを結束していた紐がはずされ(あんなに苦労して縛ったのに)、三分の一ほどになった本が散乱している。それをもういちど結わえ直し、台車から本を降ろしているときだった。

軽トラックがやってきたかと思うと、わたしがたったいまおろした文庫本類をごっそりと持っていくのである。しばらく見ていたところ、ハードカバー類もどんどん軽トラックに積んでいく。結局ペーパーバックと洋雑誌だけが残されたのだった。

やがて、出かけるときにそこを見てみると、きれいに何もなくなっていた。そこに残っていたのは、よその人が出した段ボールだけだった。少なくとも、本が雨に濡れているのを見なくてすんだのだった。

何にしてもものを捨てるというのはむずかしいものだ。


ヤドカリの家移り

2009-05-03 21:50:34 | weblog
今月末に引っ越しをすることになった。
ごく近所に引っ越すのだが、それでも家移りにはちがいなく、あらゆるものをパッキングしなければならないことに変わりはない。

パッキングする前に、まず捨てる物を選り分けなければならない。いまの自分に必要ないもの、かつ、今後もおそらく必要とはしないものを、思い切りよく処分していくのだ。

本を除けば服にしても、食器にしても、もともと持っている絶対量が少ないから、それほど大変ではないだろうと軽く考えていた節がある。ところが、蓋を開けてみると、なんだかんだとあるのだ。もらい物の毛布だとか、コーヒーカップや皿、バスタオルやタオルの類もずいぶんあった。毛布なんて、のし紙さえ箱についたまま、押入にしまいこんであった。わたしは基本的に毛布は使わないのだが、なかなか手触りの良さそうな、ブランド物の毛布である。もしかしたらそのうち使うときが来るかもしれない……と考えると、捨てられなくなってしまうのだ。

服はむずかしい。シャツにせよ何にせよ、使い勝手のいい衣類というものがある。たとえば季節の変わり目にあると便利なカーデガンやパーカーの類、ガーゼの裏地つきの厚手のシャツ。夏にパジャマがわりにしている、伸びてしまっててろてろなのだが、うっとりするような肌触りのシャツ。そんなものは、少々古くなろうが捨てられない。袖口がほころびたのを、自分で繕った、おっそろしくへたくそな跡があっても、大切な部屋着だ。

ところがそれよりはずっと値の張ったものであっても、しかも、着る機会もそれほどなくて、ほとんど型くずれのあとがなくても、年齢的に多少ふさわしくなくなってしまったようなワンピースとか、スカートだとかは処分しなければならない。

そういうことを考えると、つくづく物を取っておくか、捨てるかの判断は、その物の価値とはあまり関係がないことに気がつく。特に、いまの自分、および想像しうる範囲での未来の自分が必要とするであろうものと、それを買ったときの値段には、何の関係もない。

手紙の類、写真の類は、もう考え出すときりがないので、全部そのまま持っていく。いつかそのままごっそり捨てるときが来るのかもしれないが、なんとなく、いまはまだそのときではないような気がする。ただ、私信の類は95年を境いに、ばったりと増えなくなってしまった。わたしの生活から「手紙」は劇的に消えていき、メールの取って代わられたらしい。写真も手紙も増えないのをいいことに、箱に入っているのを開けることもなく、そのまま持っていこうと思っている。

問題は、本だ。
二千冊ほどだろうと思っていたのだが、全然そんなものではなかった。気分が悪くなるほどある。まるでテトリスでブロックを隙間なく積んでゆくように、本棚ばかりでなく、本棚周囲の隙間という隙間に、実に空間のムダなく、見事に本を収納していた。いまのところ、段ボール5箱が部屋の一方に積んであり、および、いま書いている文章に必要な参考書をまとめた段ボールが一箱、机の脇に置いてある。雑誌類と、昔読んで、もう取っておこうと思わない本も、台車に山積みにして、古紙回収の日に出した。だが、本棚の五分の四は、手つかずのまま残っている。これはどうなるのだろうか。どうしたらよいのだろうか。

もう本は買わないぞ。全部、図書館ですませるぞ。固く心に誓うのである。
こう誓ったのは、実は二度目。前は阪神大震災のあとだった。あれから本は二倍ほどに増えた。

人生というのはなかなか思い通りにならないものだ。
自分の持ち物さえそうなのだから、いわんや、ほかの出来事においてをや。


幸せって何だっけ

2009-05-01 23:09:36 | weblog
学生の頃、キャンパスを歩いていたら、ときどきバインダーを持ったまじめそうなおねえさんに、「あなたはいま幸せですか」と問いかけられた。合格発表を見に行った高校生のときを除けば、返事をするどころか目も向けず、黙殺したものだった。幸せであるにせよないにせよ、なんであんたに言わなきゃならない? と胸の内で思いながら。

小学生のときも、確かそんなアンケートがあったような気がする。あなたはお父さんから/お母さんからかわいがられていると思いますか、お父さんやお母さんはあなたのことをちゃんと理解してくれていると思いますか、何でも話し合えますか、などの質問がいくつも並んでいて、最後にあなたは幸せですか、とあったような気がする。

それに何と答えたのか記憶にはないのだが、すごく幸せ、とまでは言わなくても、まあそこそこ幸せなんだろう、と思ったものだった。

自分が幸せかどうかなど、普段改めて考えるようなものではあるまい。どうかした拍子に、不意に、いま自分は幸せだな、という思いが胸の底の方から湧き上がってきて、身体全体が暖かく満たされるような思いが兆すことはあっても、日常生活のなかで、自分がいちいち幸せかどうか、チェックなどしてはいられないし、仮にもしそんなことをしている人がいたとしたら、その人はずいぶん不幸であるにちがいない。

つまり、自分が幸せかどうか、気にしないでいられる状態というのは、まずまず幸せであるといってよいだろう。

それでもこれから先のことを考えると、いろんな不安になる要因は浮かんでくるし、健康のことや、両親のことも気になってくる。そんなとき、自分の身に悪いことが起こらなければいいと思うし、それだけでなく自分の近しい人びとが、幸せであってほしい、と思う。

そんなときの「幸福」というのは、いったいどういうものなのだろうか。

バートランド・ラッセルの『幸福論』というのはおもしろい本で、どうやったら幸福になれるかを説く変わりに、不幸を分析し、その原因となるものを排除することを提言する。

ラッセルは、幸福になるためにはある種の条件が必要であるという。
たいていの人の幸福にはいくつかのものが不可欠であるが、それは単純なものだ。すなわち、食と住、健康、愛情、仕事上の成功、そして仲間から尊敬されることである。これらのものが欠けている場合には、例外的な人しか幸福になれない。
(バートランド・ラッセル『ラッセル幸福論』安藤貞雄訳 岩波文庫)

確かにこう言われてしまえばその通りで、わたしたちが現実にがんばって仕事をし、勉強をし、さまざまな社会的責任を果たしているのも、ラッセルのいう「幸福」の条件を満たそうとしているともいえる。

だが、現実にこのような条件をある程度は満たしていても、不幸な人はいくらでもいる。それはどうしてか。ラッセルは、こうした人は、自分に対して過剰な関心を抱き、自分自身に没頭し過ぎている、というのだ。
私たちを自己の殻に閉じ込めるいろいろな情念は、最悪の牢獄の一つを形作る。そういった感情のなかで、最もありふれたものをいくつか挙げると、恐怖、ねたみ、罪の意識、自己へのあわれみ、および自画自賛である。これらすべてにおいて、私たちの欲望は自分自身に集中している。

だからこそ幸福を得るためには、関心を外の世界に向けることが必要だというのだ。

これは結局どういうことかというと、自分が幸福になりたい、なんとかして幸せになろう、なろうとしている状態は、欲望が「自分自身に集中している」ということだ。
これでいくと、自分の幸福を望んでいる限り、わたしたちはほんとうには幸福にはなれないということなのだろうか。

そこで思い出すのは、業田良家のマンガ『自虐の詩(上・下)』である。
永井均の『マンガは哲学する』のなかに、「このマンガは絶対に読む価値がある」とあったので読んではみたのだが、最初のうちは固い線に慣れなくて困った。

これは4コママンガの連作で、幸江というやつれた感じの女性が、何かというとちゃぶ台をひっくりかえす、横暴な男の言うがままになっている、という話がこれでもかと続いていく。この女性はなんでこんなに酷い目に遭うんだろう、なんでこんな男のいうままになっているのだろう、ドメスティック・ヴァイオレンスの被害者の話なんだろうか、と思いながら読み進んでいくうちに、やがて物語は異なった相を浮かび上がらせる。

幸江は幼い頃、母親に捨てられたのだ。父親との貧しい生活を、自分も内職で支えながら、つらい中学生活を送る。やがて父親が犯罪者になりたったひとりの友人(彼女もまた悲惨な人生を歩んでいる)をのぞけば、つらい関係しか築けなかった故郷を捨て、幸江は東京に出るが、当てもなく上京した女の子に幸せな生活が待っているはずがない。やがて幸江は覚醒剤中毒の売春婦に身を落とす。

まさにどん底のなかにいた彼女を引き上げてくれたのが、イサオというちゃぶ台をひっくりかえす男なのである。たとえイサオがちゃぶ台をひっくりかえすような横暴な男であっても、幸江にとって、彼との生活はかけがえのないものなのだ。

やがて、彼女のおなかに子供ができたとき、彼女はそれまで許せなかった母親と、夢の中で和解を果たす。そうして、会ったこともない母親に向けて、「おかあちゃんへ」とだけ、表書きをした手紙をポストに投函する。
「前略 おかあちゃん。

この世には幸も不幸もないのかもしれません。何かを得ると、必ず何か失う物がある。何かを捨てると、必ず何か得るものがある。たったひとつのかけがいのないもの、大切なものを失った時はどうでしょう? 私たちは泣き叫んだり立ちすくんだり……でもそれが幸や不幸ではかれるものでしょうか?

かけがいのない物を失うことは、かけがいのない物を真に、そして永遠に手に入れること! 私は幼い頃、あなたの愛を失いました。私は死にものぐるいで求めました、求め続けました。私は愛されたかった。

でもそれがこんなところで、自分の心の中で見つけるなんて。ずっと握りしめていた手のひらを開くとそこにあった。そんな感じで。

おかあちゃん、これからは何が起きても怖くありません。勇気がわいています。この人生を二度と幸や不幸ではかりません。なんということでしょう、人生には意味があるだけです。ただ、人生の厳粛な意味を噛みしめていけばいい。勇気がわいてきます。
(業田良家『自虐の詩(上・下)』(竹書房文庫ギャグ・ザ・ベスト )

いや、勇気がわいてくるのは、読者であるわたしなのだが。

確かにこの手紙を書いた幸江は、ほんとうに幸福なのだろうと思う。そうして、それは「この世には幸も不幸もないのかもしれません」と思い、「人生には意味があるだけです。ただ人生の厳粛な意味を噛みしめていけばいい。」と言い切れる幸江だからこそ、幸福になれたのだろう、と思う。幸せになれたのは、幸せだからなのだろう。

試験に合格したり、好きな相手に好きだと言ってもらったり、良い仕事が見つかったり昇進したり、住み心地の良い家を手に入れたり……、といったことは、もちろんその瞬間は幸福感が生まれても、持続するものではない。いつまでもその幸福感を味わおうと、「わたしのこと、好き?」と繰りかえしてみたり、試験と名の付くものを端から受験してみたところで、その「幸福感」は一時限りのものだ。あるいは、同期の誰よりも早く昇進することで、他人と比較して、優越感を味わい、それを幸福感と置き換える人もいるだろうが、こうした幸福感は決して安定したものではない、もっと早い昇進の人や、ベンチャー企業で桁違いの年収を得ている人を見れば、打ちのめされる体のものだろう。こうした幸福は、幸江の言葉にこめられた、確かさも、静かな覚悟のようなものも無縁だ。

幸江は「人生には意味があるだけです。ただ人生の厳粛な意味を噛みしめていけばいい。」という彼女自身の「真実」を見つけていった。見つけることができるまで、時間をかけて成熟していった、ともいえる。そうしてそれは、おそらくは幸福と同義であり、しかも、ひとりでは決して見つけることのできないものだったはずだ。幸江が最初のうち、どれだけちゃぶ台をひっくり返されても、ひたすらイサオに従ったのは、幸江はひたすらイサオの「幸福」を願ったからなのだろう。「わたしの幸福」は、「わたしと接している人びとの幸福」なのだから。

最後に明日は個人的な体験を。