陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

気がつけばフサフサ

2009-05-20 22:45:06 | weblog
以前、男性用カツラのコマーシャルで、ちょっとずつ髪の毛の量を増やしていき、気がつかないうちにフサフサになっている……というのがあったような気がする。それを見て、ウソだね、と思ったことを覚えているから。

たいていの人は、他人の頭の毛など、気をつけて見ているわけではない。おそらく「ちょっとずつ」の期間はまったく気がつきもせず、ある日突然、どーんと増えたことに気がついて、隣の同僚に「ねえねえ、課長、カツラだよね」と耳打ちして、こっそりふたりで笑うのである。

これは日が暮れるのと一緒だ。正午を回れば、日は少しずつ翳っていくのだが、そのことに気がつくまで、四~五時間かかる。やがて急に「こんなに暗くなってる!」と驚くのだ。

星にしてもそうだ。星はずっと天空にある。だが、太陽の出ている間は、日の光に邪魔されて見えない。だが、太陽が沈んでしまうと「宵の明星」が急に現れたような気がする。

わたしたちの目は、どうやら徐々に移り変わっていくものをとらえるのは、得意ではないらしい。移り変わって、移り変わって、ずっと気がつかずにいて、ある一点を過ぎて初めて「あっ」と驚くのだろう。

卒業したり、引っ越したり、生活がある時点を境に急に変わるような出来事を経験すると、わたしたちは悲しみや淋しさを感じてしまう。つまり、そういう出来事は、わたしたちが「当たり前」として、気がつかなくなっていた「日常性」がこわれるということなのだろう。それまでは日常茶飯の出来事として、なれっこになってしまい、それを経験しても眠り込んでしまっていた感覚は何も感じずにいた。ところが別離を経験することで、感覚は揺すぶられて目が覚めるのだろう。

目前にせまる別離は、入学とか、そこに入ってきたときのこととかを、否応なく呼び起こす。そのときの新鮮な気持ちや喜びが思い出され、いま現在の、何の感動もなくなった気持ちがつきあわされて、その濃淡の差に、わたしたちはとまどったり、驚いたり、寂しくなったりする。

毎日の決まり決まった動作に「慣れる」ということは、とても大切なことだ。車を運転していて、目の前に子供が走り出してきたときに、考えたり判断したりする前に身体が条件反射で動かなくては、大変なことになってしまう。条件反射を可能にするのも、その「慣れ」だろう。「慣れ」ていると、いちいち考えなくても、見なくても、聞かなくても、わたしたちはその行動を取ることができる。慣れることがなかったとしたら、わたしたちはおびただしい物事を見なければならず、聞き取らなければならず、判断しなければならない。それでは毎日が疲れて、つらくて大変だろう。

一方で、この「慣れ」は、いろんなものを見えなくし、聞こえなくしてしまう働きもある。わたしたちが実際に、見えているはずなのに見ていなかったり、聞こえているはずなのに聞いていなかったりすることがどれほどあることか。まるで、昼間の星を見ることができないように、そこにあるのにわたしたちの目は、それを決して拾い上げてはくれない。

だからこそ、わたしたちは、日常のなかにいくつもの刻み目をつけていき、去年と今年でその刻み目を比べたり、転換点を作って、住む場所を変えてみたりするのだろう。そうすることによって、日常に「めり」と「はり」を作るのだ。

ものごとにはすべて両面がある。この両面のどちらかを「えこひいき」することなく眺め、受け入れることができるようになるとき、人は大人になったと言えるのかもしれない。