陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

自分に正直な人(※かなり大幅な補筆)

2009-05-22 23:20:38 | weblog
本棚の奥からマーガレット・ミラーの本が出てきた。他のはだいたいどんな話だったか記憶にあるのだが、『見知らぬ者の墓』だけはちっとも思い出せない。引っ越しの準備の合間合間に読み直してみたのだが、これがまたえらくおもしろい。

読んでいて、こんな一節に行き当たった。ここで言われている「ファニータ」というのは、ストーリーの鍵をにぎる女性なのだが、まあそんなことはどうでもいい。もめごとを行く先々で起こすような人だと思ってもらえればまちがいはないだろう。

「クリニックとしては最善を尽くした。それにもかかわらず功を奏さなかったのは、当の本人が、自分が問題児であることを頑として認めようとしないせいなのだ。手に負えない連中のご多分に漏れず、ファニータも、女なんてみんな大同小異で、自分が特異な存在に見えるのは、正直すぎて何事によらず率直に行動に移してしまうせいだと思い込もうとしていた(むろんわれわれにもそう思い込ませようとした)。正直で率直というのは、自己欺瞞を犯す連中が好んで使う科白だ。いいかい、よく憶えておきたまえよ、スティーヴ。自分は正直だ、正直だといやに声を大にして強調する相手に出会った場合には、現金箱を改めてみるにかぎる。誰かにいじられた形跡があっても驚くには当たらない」
マーガレット・ミラー『見知らぬ者の墓』
ここを読んだとき、ああ、この本だったか、と思い出した。
ちょうど、前にこの箇所を読んだとき(といっても十年以上前の話なのだが)、これはあの人にそっくりそのまま当てはまるなあ、と思ったのである。

当時、わたしは数人の友人たちと一緒に読書会を開いていた。地味なイギリスの小説を辞書を引き引き苦労しながら読んでいくので、次第に人数は減っていくし、そうなれば分担はすぐに回ってきて、負担も増える。自分の割り当てを、きちんと訳して来る人ばかりではなく、そうなるとその回はグダグダになってしまい、その人を責める人もでてくれば、能力の差を無視するわけにはいかない、と、責める人を責める人も出てくる。早い話が、志高く始まったその会も、ほどなく停滞の憂き目をみていたのである。

そんなとき、あるメンバーが「友だち」を連れてきた。積極的な人で、活発に発言するし、他の人が発言すると、打てば響くように意見を返す。その人のおかげで、一気に読書会は活気づいた。その人も、前に参加していたグループよりこちらの方がずっといい、と楽しそうだった。以前はもうちょっと規模の大きな、別の読書会に参加していたという。前のグループはそれはそれはひどかった、と、毎回のように手厳しい批判を浴びせ、へえ、そんなにひどいのか、端から見るとちゃんとやっているように見えてもわからないものだなあ、などと、わたしたちはそれを聞くたびいい気にもなっていたのではあるまいか。

だが、なにしろ読んでいるのは、ヴィクトリア朝の小説で、その屋敷の描写が延々と数ページに渡って続くような本なのである。何も起こらないまま、複雑な構文で、やたらまわりくどい描写が際限もなく続いていく。その人も、おそらく入会当初の熱が冷め、飽きたということもあったのだろう。やがてそこにいた男性メンバーにちょっかいを出し始めたのである。その男性にはガールフレンドがいたために、話は非常にややこしくなった。すったもんだがあったのだが、まあそれを書くことが眼目ではないので、ざっくりと割愛する。

「わたしは自分の気持ちには嘘はつきたくない」というのが彼女の口癖で、わたしとしてはよそでやってくれ、と言いたかった、というか、実際にそう言ったかもしれない。ともかく、常に自分の気持ちに正直な彼女のおかげで、ヴィクトリア朝の小説も全体の四分の一ほどで頓挫してしまい、読書会事態も非常に後味の悪い幕切れになってしまったのだった。

それからだいぶ経ったあと、彼女が前に参加していたグループの人に会う機会があって、たまたま彼女の話になった。なんと、そこでも同じような騒ぎを起こして、そちらでは出入り禁止になったらしかった。
「はあ~、そういう人だったんだ~」
「そうよ~、そういう人だったのよ~」
と、相手はため息混じりに苦笑をしていたのだった。
以来、わたしは「自分に正直」と声を大にする人を見ると、逃げ出す準備をしたくなるのである。

ところが、わたしたち自身が、ときに「自分は正直である」と言わなければならなくなる場面がある。誰かに自分のことをどうしても信じてほしい、と思うようなときである。
事実、マーガレット・ミラーのこの小説でも、この言葉を聞いた主人公の探偵は、
「ぼくは一般論は信じません。…ぼくもよく自分は正直だって強調します。事実いまだってそうだし」

と言う。実際、探偵という職業は、依頼人に対して「正直である」と言って、信頼してもらわなければどうしようもないだろう。

「自分に正直」という人は、周りの迷惑をかえりみない……という一般論が成り立つとしたら、「自分は正直である」という言明は、一般論には当てはまらないことをわたしたちは証明できるのだろうか。
もし証明できないとしたら、「自分は正直だ」と誰かに対して訴えることは、まったく無意味になってしまうのだろうか。

わたしたちの周囲には、自己言明に関するこうした一般論があふれかえるほどにある。

「自分を信じてくれ、という人間ほど、当てにならないものはない」
「神経質だと言う人間に限って、無神経なものだ」
「わたしにはコンプレックスなどないと言う人間ほど、実は根深いコンプレックスを抱えている」
「下心などないと言う人間は、決まって下心を隠しているものだ」

いくつかはわたしがいまデッチ上げたのだが(笑)、こういう言い方をすると、ああ、と当てはまる例をいくらでも思いつくことができるでしょう?

けれども、自分を信じてほしい、下心もなにもなく、いまの自分は誠心誠意そう思っているのだ、という局面が、現実にはかならず起こってくる。自分のいまの言葉も、そうした一般論に解消されてしまうかもしれない、と、半ば絶望的な気持ちになりながら、何とか「自分だけはほんとうにほんとうなのだ」と訴えたい場面である。

だが、結局のところ、言葉だけで言葉を否定することはできないのだ。
どれほどの言葉を費やしても、「自分を信じてくれ、という人間ほど、当てにならないものはない」と思っている相手に、自分の言葉を信頼させることは不可能だ。

けれど、わたしたちは、いま、その瞬間だけしかないわけではない。その人にはこれまでの過去がある。わたしたちは、過去のその人の行為を見て、その人のことを知っている。事実、ミラーの小説で、先の言葉を言った人物も、主人公の言葉を聞いて意見を変えるのである。
「…こういう仕事に携わっていると、どうもシニカルになりがちだ。それこそ枚挙にいとまがないほど約束がなされては破られ、期待を抱いては挫かれる――その結果、人間には逆のことを言う心理が働きがちだとする説をとかく信じるようになるのだ。つまり誰かがやってきて、自分は温和な正直者で単純にできていると言えば、さては底の知れない刺々しいぺてん師だと判定する嫌いがわたしにはあるのだよ、こういう判断は時と場合によっては実に危険で、回避しなければならない。いや、感謝するよ、スティーヴ、指摘してもらって」
その人の、それ以外の話しぶりや仕草、これまでにやってきたこと、そういう言葉は一般論よりもはるかに強力な例証となる。

そうしてもうひとつ。たとえその人が、仮にこれまではその言葉に反するような行動をしていたとしても、やはりその言葉を、いまは無理でも、信じてもらうことは可能であるように思う。

それは「これからを見てくれ」ということだ。現時点では証明できないが、「自分は正直である」という言葉が事実であるよう、自分はこれからその言葉に背かないように生きるつもりである、それを信じてくれ、と。

その人というのはいまだけでなく、過去を含めて「その人」としてみなされる。というか、いまの「その人」をかたちづくっているのは、その人の過去の一切だ。
けれども、同時にそれだけではない。時の流れのなかにいる人間には、「これから」がある。

いままで自分は何度も嘘をついてきた。これからだってつくかもしれない。けれども、あなたに対しては嘘をつきたくない。自分は「嘘をつかない」という自分の言葉に責任を負って、これからは生きていく。

そんな思いをこめた「自分は嘘はつかない」という言葉は、単に言葉ではなく、その人の「行為」であると言えるだろう。


(※明日からしばらく引っ越しのためお休みします。うまくいけば月曜日、再開します。ということで、それまでみなさまお元気で)