陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

幸せって何だっけ

2009-05-01 23:09:36 | weblog
学生の頃、キャンパスを歩いていたら、ときどきバインダーを持ったまじめそうなおねえさんに、「あなたはいま幸せですか」と問いかけられた。合格発表を見に行った高校生のときを除けば、返事をするどころか目も向けず、黙殺したものだった。幸せであるにせよないにせよ、なんであんたに言わなきゃならない? と胸の内で思いながら。

小学生のときも、確かそんなアンケートがあったような気がする。あなたはお父さんから/お母さんからかわいがられていると思いますか、お父さんやお母さんはあなたのことをちゃんと理解してくれていると思いますか、何でも話し合えますか、などの質問がいくつも並んでいて、最後にあなたは幸せですか、とあったような気がする。

それに何と答えたのか記憶にはないのだが、すごく幸せ、とまでは言わなくても、まあそこそこ幸せなんだろう、と思ったものだった。

自分が幸せかどうかなど、普段改めて考えるようなものではあるまい。どうかした拍子に、不意に、いま自分は幸せだな、という思いが胸の底の方から湧き上がってきて、身体全体が暖かく満たされるような思いが兆すことはあっても、日常生活のなかで、自分がいちいち幸せかどうか、チェックなどしてはいられないし、仮にもしそんなことをしている人がいたとしたら、その人はずいぶん不幸であるにちがいない。

つまり、自分が幸せかどうか、気にしないでいられる状態というのは、まずまず幸せであるといってよいだろう。

それでもこれから先のことを考えると、いろんな不安になる要因は浮かんでくるし、健康のことや、両親のことも気になってくる。そんなとき、自分の身に悪いことが起こらなければいいと思うし、それだけでなく自分の近しい人びとが、幸せであってほしい、と思う。

そんなときの「幸福」というのは、いったいどういうものなのだろうか。

バートランド・ラッセルの『幸福論』というのはおもしろい本で、どうやったら幸福になれるかを説く変わりに、不幸を分析し、その原因となるものを排除することを提言する。

ラッセルは、幸福になるためにはある種の条件が必要であるという。
たいていの人の幸福にはいくつかのものが不可欠であるが、それは単純なものだ。すなわち、食と住、健康、愛情、仕事上の成功、そして仲間から尊敬されることである。これらのものが欠けている場合には、例外的な人しか幸福になれない。
(バートランド・ラッセル『ラッセル幸福論』安藤貞雄訳 岩波文庫)

確かにこう言われてしまえばその通りで、わたしたちが現実にがんばって仕事をし、勉強をし、さまざまな社会的責任を果たしているのも、ラッセルのいう「幸福」の条件を満たそうとしているともいえる。

だが、現実にこのような条件をある程度は満たしていても、不幸な人はいくらでもいる。それはどうしてか。ラッセルは、こうした人は、自分に対して過剰な関心を抱き、自分自身に没頭し過ぎている、というのだ。
私たちを自己の殻に閉じ込めるいろいろな情念は、最悪の牢獄の一つを形作る。そういった感情のなかで、最もありふれたものをいくつか挙げると、恐怖、ねたみ、罪の意識、自己へのあわれみ、および自画自賛である。これらすべてにおいて、私たちの欲望は自分自身に集中している。

だからこそ幸福を得るためには、関心を外の世界に向けることが必要だというのだ。

これは結局どういうことかというと、自分が幸福になりたい、なんとかして幸せになろう、なろうとしている状態は、欲望が「自分自身に集中している」ということだ。
これでいくと、自分の幸福を望んでいる限り、わたしたちはほんとうには幸福にはなれないということなのだろうか。

そこで思い出すのは、業田良家のマンガ『自虐の詩(上・下)』である。
永井均の『マンガは哲学する』のなかに、「このマンガは絶対に読む価値がある」とあったので読んではみたのだが、最初のうちは固い線に慣れなくて困った。

これは4コママンガの連作で、幸江というやつれた感じの女性が、何かというとちゃぶ台をひっくりかえす、横暴な男の言うがままになっている、という話がこれでもかと続いていく。この女性はなんでこんなに酷い目に遭うんだろう、なんでこんな男のいうままになっているのだろう、ドメスティック・ヴァイオレンスの被害者の話なんだろうか、と思いながら読み進んでいくうちに、やがて物語は異なった相を浮かび上がらせる。

幸江は幼い頃、母親に捨てられたのだ。父親との貧しい生活を、自分も内職で支えながら、つらい中学生活を送る。やがて父親が犯罪者になりたったひとりの友人(彼女もまた悲惨な人生を歩んでいる)をのぞけば、つらい関係しか築けなかった故郷を捨て、幸江は東京に出るが、当てもなく上京した女の子に幸せな生活が待っているはずがない。やがて幸江は覚醒剤中毒の売春婦に身を落とす。

まさにどん底のなかにいた彼女を引き上げてくれたのが、イサオというちゃぶ台をひっくりかえす男なのである。たとえイサオがちゃぶ台をひっくりかえすような横暴な男であっても、幸江にとって、彼との生活はかけがえのないものなのだ。

やがて、彼女のおなかに子供ができたとき、彼女はそれまで許せなかった母親と、夢の中で和解を果たす。そうして、会ったこともない母親に向けて、「おかあちゃんへ」とだけ、表書きをした手紙をポストに投函する。
「前略 おかあちゃん。

この世には幸も不幸もないのかもしれません。何かを得ると、必ず何か失う物がある。何かを捨てると、必ず何か得るものがある。たったひとつのかけがいのないもの、大切なものを失った時はどうでしょう? 私たちは泣き叫んだり立ちすくんだり……でもそれが幸や不幸ではかれるものでしょうか?

かけがいのない物を失うことは、かけがいのない物を真に、そして永遠に手に入れること! 私は幼い頃、あなたの愛を失いました。私は死にものぐるいで求めました、求め続けました。私は愛されたかった。

でもそれがこんなところで、自分の心の中で見つけるなんて。ずっと握りしめていた手のひらを開くとそこにあった。そんな感じで。

おかあちゃん、これからは何が起きても怖くありません。勇気がわいています。この人生を二度と幸や不幸ではかりません。なんということでしょう、人生には意味があるだけです。ただ、人生の厳粛な意味を噛みしめていけばいい。勇気がわいてきます。
(業田良家『自虐の詩(上・下)』(竹書房文庫ギャグ・ザ・ベスト )

いや、勇気がわいてくるのは、読者であるわたしなのだが。

確かにこの手紙を書いた幸江は、ほんとうに幸福なのだろうと思う。そうして、それは「この世には幸も不幸もないのかもしれません」と思い、「人生には意味があるだけです。ただ人生の厳粛な意味を噛みしめていけばいい。」と言い切れる幸江だからこそ、幸福になれたのだろう、と思う。幸せになれたのは、幸せだからなのだろう。

試験に合格したり、好きな相手に好きだと言ってもらったり、良い仕事が見つかったり昇進したり、住み心地の良い家を手に入れたり……、といったことは、もちろんその瞬間は幸福感が生まれても、持続するものではない。いつまでもその幸福感を味わおうと、「わたしのこと、好き?」と繰りかえしてみたり、試験と名の付くものを端から受験してみたところで、その「幸福感」は一時限りのものだ。あるいは、同期の誰よりも早く昇進することで、他人と比較して、優越感を味わい、それを幸福感と置き換える人もいるだろうが、こうした幸福感は決して安定したものではない、もっと早い昇進の人や、ベンチャー企業で桁違いの年収を得ている人を見れば、打ちのめされる体のものだろう。こうした幸福は、幸江の言葉にこめられた、確かさも、静かな覚悟のようなものも無縁だ。

幸江は「人生には意味があるだけです。ただ人生の厳粛な意味を噛みしめていけばいい。」という彼女自身の「真実」を見つけていった。見つけることができるまで、時間をかけて成熟していった、ともいえる。そうしてそれは、おそらくは幸福と同義であり、しかも、ひとりでは決して見つけることのできないものだったはずだ。幸江が最初のうち、どれだけちゃぶ台をひっくり返されても、ひたすらイサオに従ったのは、幸江はひたすらイサオの「幸福」を願ったからなのだろう。「わたしの幸福」は、「わたしと接している人びとの幸福」なのだから。

最後に明日は個人的な体験を。