陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

カッコいいせりふ

2009-05-19 23:16:23 | weblog
(※引っ越し準備はここまで来ました。本文とは全然関係ありません)


映画でも小説でも、わたしが一番カッコいいと思うのは「当たり前のことをやっただけだ」というせりふである。

主人公が濡れ衣を着せられる。それまで親しかった人びともみんなそっぽを向き、あの人なら……と頼った先でも背を向けられる。まさに四面楚歌、村八分、後ろから石を投げつけるような人まで出てくるそんなとき、ふと立ち寄った店で、店主はふだんどおりの対応をしてくれる。ふだんどおりに物を買い、お金を払い、当然そのニュースは耳に入っているだろうに、ごくごく当たり前の対応を彼、もしくは彼女だけは取ってくれる。

そこで主人公は感激して、礼を言う。すると、店主はちょっとだけ面映ゆいような表情になって、わざとそっけなく「自分は当たり前のことをやっただけ」と言う。ああ、カッコイイなあ。わたしはいつもこういう場面にしびれてしまうのだ。

そういう人はたいてい脇役で、映画や小説のなかでもその場面以降は出てくることはない。だが、主人公を助けたことによって、店主が窮地に陥る可能性は低くはない。なんでそんなことをしたのかと周囲から責められたり、時には警察沙汰になることだってあるかもしれない。もちろん店主はそれもわかっていて、けれど、店に買い物客が来たら、誰であろうと「当たり前」に商売をする。自分の「当たり前」を貫くのである。

ときに、「当たり前」のことをすることが、ひどく困難になってしまうことがある。ある条件の下では、わたしたちは喜んで「当たり前」を振り捨てる。たとえば相手が「悪い人間」だったりした場合。

だが、相手が「悪い人間」なら、わたしたちは「非当たり前」、つまり、非常時的対応を取ってかまわないのだろうか。相手がひどいことをしてきた。そんな相手に、いつもと同じ対応なんて、取れるはずがない……。

だが、ほんとうに相手が「悪い人間」かどうか、わたしたちにどうしたらわかるのだろうか。

フォークナーの「乾いた九月」では、床屋に集まっていた人びとが、ウィル・メイズを許しておけない、と言い合って、はなはだたよりないうわさ話を元に、黒人青年を捕まえに行く、という話である。町の人びとはひたすら「正義感」に燃えて行動しているのである。自分たちの女(たとえそれが少々おかしくても)を守らなくては、私利私欲とは無縁の、秩序を維持しなければ、という崇高な使命感を抱いて、話の真偽を確かめることもなく、黒人に暴力をふるうのだ。

同じ彼らが、ウィル・メイズ、いや、黒人でさえなければ、諍いが起これば双方の言い分をつきあわせて、互いの人となりを見定め、証拠を確認した上で判断することを「当たり前」と認めるだろう。だが、その「当たり前」のことをしようと言った床屋のホークは、みんなから「黒ん坊贔屓め」とののしられ、最後には身に危険さえ及ぶのである。

この小説を読むわたしたちは、もうひとつ、当時の南部の白人男性の、白人女性を黒人に奪われるのではないか、という疑心暗鬼をリアルに感じ取ることはむずかしい。だから、つい、彼らを断罪し、おろかな行為をする人たちだ、と思うのだが、実際の出来事で、当事者となってしまえば、実のところ何もわからない。

何が正しいか、何が間違っているか、ということは、当事者であるわたしたちは、そのときには決してわからない。事態がすべて終わってしまって初めて、ああ、あのときにはこうした方が良かったんだ、ああすべきだったんだ、と振り返って見るだけだ。
だとしたら、「こうすべき」「こうするのが正しい」なんて、その渦中にいるときには言えないのではないか。

それでも何かの行動をしなければならないのだとしたら、「当たり前のこと」をやるしかないのだと思う。自分がふだんやっているとおりのこと。「当たり前のこと」というのは、自分がこれまでずっとやってきたことだし、これからもずっと続けていくことでもある。世の中というのは、おそらくずっと続けていくことでしか答えが出せないものだと思うのだ。だから、過度な犠牲は払えないし、批判という火の粉がふりかかってきたら、それは振り払わなければならないだろう。けれど、「当たり前」を曲げないというのは、なんというか、ものすごく大切な、主人公の英雄的な行為より、ずっと大切なことなんじゃないかと思うのだ。