陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

日付のある歌詞カード ~ベン・フォールズ・ファイヴ “スモーク”

2009-05-05 23:13:18 | 翻訳
BF and WASO Smoke


スモーク(Smoke)

by Ben Folds Five


Leaf by Leaf page by page
Throw this book away
All the sadness all the rage
Throw this book away

 一枚一枚、一ページ一ページ
 この本を破っていこう
 ありとあらゆる悲しみごと、ありったけの憎しみごと
 この本を捨ててしまえ

Rip out the binding, tear the glue
All of the grief we never ever knew
We had it all along
Now its smoke

 本の背をちぎり、接着剤をひっぺがせ
 ぼくたちが味わった悲痛な思いをひとつ残らず
 ぼくたちがこれまでずっと積み重ねてきたそれが
 いま、煙になっている

The things we've written in it
Never really happened
All the things we've written in it
never really happened

 ぼくたちが書き込んだいろんなことは
 ほんとうは起こらなかったんだ
 ぼくたちが書いたことは何一つ
 ほんとうには起こらなかった

All of the people come and gone
Never really lived
All of the people have come have gone
No one to forgive smoke

 やってくる人も、行ってしまった人も
 ほんとうには生きちゃいなかった
 来てくれた人も、行ってしまった人も
 誰も煙にすることを許してはくれないだろう

We will never write a new one
There will not be a new one
Another one, another one

 ぼくたちが新しく本を書くことはない
 もう新しいページはふえないんだ
 新しいページは、つぎのページは

Here's an evening dark with shame
Throw it on the fire
Here's the time I took the blame
Throw it on the fire

 ここに恥ずかしさで気分の暗くなったあの夜のことがある
 火にくべてしまえ
 ここにはぼくが責任をかぶったときのこと
 火のなかに放り込んでしまえ

Here's the time we didn't speak
it seemed for years and years
Here's a secret
No one will ever know the
reasons for the tears
They are smoke

 ここにはぼくたちがひとことも口をきかなかったときのこと
 何年も何年も続いたように思えるけれど
 ここにはあの秘密が
 誰ひとり、その涙の秘密のことは
 知るよしもない
 みんな煙になるんだ

We will never write a new one
There will not be a new one
Another one, another one

 ぼくたちが新しく本を書くことはない
 もう新しいページはふえないんだ
 新しいページは、つぎのページは

Where do all the secrets live
They travel in the air
You can smell them when they burn
They travel

 秘められたことが書いてあるページはみんな
 宙に飛んで行ってしまった
 燃えるにおいがかげるだろう
 みんなどこかに行ってしまった

Those who say the past is not dead
Stop and smell the smoke
You keep on saying the past is not dead
Come on and smell the smoke

 過去は死なないなんて人がいるけど
 そんなことはよして、煙のにおいをかげばいい
 君は過去は死んだわけじゃない、なんて言い続けてるけど
 よせよ、煙のにおいをかぐんだよ

You keep saying the past is not even past
You keep saying
We are, smoke

 君はまだ過去はまだ過去にすらなってない、って言い続けてるけど
 君はまだ言ってるけど
 ぼくらは、煙さ

* * *



引っ越しの準備をしながらかけていたのは、もっぱらオアシスの『ヒーザン・ケミストリー』で、リアムと一緒に「ヒンドゥー・タイムス」を気持ちよく歌いながら、いらない本を結わえていたのだが、本を捨てるところからこの歌を思い出してしまった。

『しぐさの日本文化』のなかで、多田道太郎は『流行歌というものは、どこでも、どうして恋の歌が多いのか。それも、大半はやるせない失恋の歌である』と疑問を投げかけている。なぜ失恋の歌は、人の心を揺さぶるのか。

多田道太郎は人類学者マーガレット・ミードのニューギニアのアラベシ族の考察を援用する。アラベシ族の人びとは、猟で傷を負ったようなとき、簡単な手当をしたのちに、の人の同情をえようと、村中を練り歩くのだそうだ。村中の人が「かわいそうに」と集まってくる。人びとの同情の気持ちをかきたてるために、そういうことをするのだそうだ。
「傷を負ったり、頭痛が生じたときの状況がどのようなものであっても、各人はみずからの個人的な状態を集団全員が情緒的にかかわりあう事柄へと転化するのである。この反応は十分に習慣化されているので、ちょっとしたけがの話、どこか別の土地でずっと昔に自己でつぶした指の話でさえ、聴衆の同情に満ちた声々の合唱を起こさせるほどだ。伝え手は一つの感情の状態を集団に表示し、集団も一つの感情の状態でもってそれにこたえる。」(「コミュニケイション問題へのアプローチ」井上摩耶子訳)

 流行歌手と聴衆のあいだにまきおこる感情の状態も、おそらくこれにひじょうに近いものなのである。歌手は自分の心の傷口をひらいてみせる。すると「聴衆の同情に満ちた声々の合唱を起こさせるほどだ」――というふうに考えられないだろうか。(多田道太郎『しぐさの日本文化』)

わたしがまだ小学校にあがるかあがらないかのころ、父親に『道』を観に連れて行ってもらったことがある。最後の場面で、ジェルソミーナを失ったことを知って、浜辺につっぷして泣くザンパノーがかわいそうで、孤独に胸が引き裂かれそうだった。それからその映画のことを繰りかえし思い出しては、ひとりしくしく泣いていた。

六歳かそこらで、「孤独」ということも、「愛」ということも、はっきりと理解できたはずがない。だが、逆に、そういうものがひどくつらい、自分の根幹を揺るがすほどのつらいことだということを、映画を観て感じ、そのことは当時のわたしにも十分に理解できたのだろう。

ミードが「伝え手は一つの感情の状態を集団に表示し、集団も一つの感情の状態でもってそれにこたえる。」というのはよく理解できる。

だが、それなら「傷」である必要はないのではないか。「獲物」を見せて喜びの感情を表示したり、うまくいった恋の歌を歌って、浮き立つような喜びを表示してもよさそうだ。だが、アラベシ族が苦悶の浮かべて傷を見せる方を選ぶのは、ポジティヴな感情より、ネガティヴな感情の方が、より人びとの共感を得やすいということなのだろうか。

ベン・フォールズのこの曲も、三拍子のシンプルなメロディである。誰もがすっと入っていけるような、静かな調子で入っていき、激しい憎しみも諍いも、その傷口がまだふさがっていないことを感じさせるが、はっきりと傷そのものは見せない。

それでもこの曲を聴いたら、誰でも、話すことさえなくなって押し黙ったまま過ぎていく夜を思う。たとえそんな経験のない小学生であっても、おそらくそれが無限に続くように思われる時間であることは想像できるだろう。過去にすらなってないじゃない、となんとか仲を修復しようとする彼女の気持ちも、そんなことはムリだ、煙のにおいをかいでごらん、という彼の気持ちも。

そうして、このつらい経験が、自分のものでないからこそ、人はよけいに気持ちよく、悲しみに浸れるのだ。実際の経験なら、歌のメロディのようにきれいにはいかない。ドロドロしたことや、現実的なこと、さらにひどいことにお金の問題まで絡んできて、本を捨てることなどより何百倍も骨の折れるプロセスを経なければならない。

だが、歌だから。
うまくいった恋なら、聴くよりも、経験した方がいいに決まっているけれど、現実にはどうしようもない終わりであっても、ベン・フォールズの透明なピアノの音が、すべてを浄化してくれる。気持ちよく悲しみに浸ることができる。

だから、わたしたちは失恋の歌が好きなのだろう。