陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

タリスマン

2009-05-27 22:36:29 | weblog
もしかしたら、以前にも書いたかもしれないのだが、ホラー短篇の「猿の手」に出てくる“猿の手”は「タリスマン」である。

talismanで辞書を引いてみると、「お守りや魔除け、まじない札」などという日本語が当てはめてあるけれど、かならずしもぴったりくるばかりではない。特に「猿の手」はどう考えてもお守りでもなければ、まじない札でもなく、逆にまがまがしい何ものかを呼び出す大変なものだから、絶対に該当しない。だから「猿の手」を訳したときは、「願い事をかなえるもの」のような日本語を当てた。

けれども、外国人に神社などでもらってきたお守りをプレゼントするときには、これは日本のタリスマンだ、と言えば大丈夫だ。信仰の、宗教の、というと、話はややこしくなるし、わたしたちの多くは信仰を持ってお守りをかばんにぶら下げているわけでもない。言ってみれば、海外旅行に行く前の“飛行機が落ちませんように”、受験前の“試験に合格できますように”といった、本人でさえどこまで信じているかは定かではないが、何となく持っていると気休めぐらいにはなるようなものだから、まさに“タリスマン”という言葉はふさわしいはずだ。

逆に言ってみれば世界のあらゆる国や地域で、大昔から人びとは何らかの“タリスマン”を持っていたのだ。猿の手ならぬウサギの脚をキーホルダーにして腰にぶらさげている外国人はめずらしくないし、小さな木ぎれをポケットに入れている人を見たこともある。

その人がポケットの何かを探すために、テーブルに中身を全部ぶちまけたのだ。小銭やら鍵やらに混ざって、なぜか一緒に木ぎれが出てきたのである。ありきたりの木の切れっ端である。ずいぶん持ち歩いているのが長いのか、手垢というのか、端が擦れ、変色し、てらてらと光っていた。
「これは?」と聞くと、「タリスマンだ」という。道で動物が轢かれていたりするような、何か見たくないようなものを見たときに、それにそっとふれて、災いが自分の身に及ぶのを避けようとするんだ、と教えてくれたのだが、その気持ちはとてもよくわかるように思った。

一日の終わり、服を着替えるときに、ポケットの中身をあける。そうして、つぎにまた外出するとき、鍵などと一緒に、その木ぎれはその人のポケットのなかに収まるのだろう。見たくないものを見たり、何かふと不安をかき立てられるような出来事があったりすれば、そっとそれにふれる。それでどうとなるわけでもないと頭ではわかっていても、ふれることで安心する習慣がその人の内にできていれば、精神状態はその習慣によって落ち着きを取りもどす。わたしたちの内に兆す不安感の多くは、実際、はっきりとした根拠や原因があるわけではないものがほとんどだから、何であってもかまわない。その人が自分とのあいだに何らかの引っかかりを感じ、それを繰りかえす内に結びつきは深まっていく。その人と共に不安な日々を乗り越えるたび、ありふれた木ぎれは「特別な力」を持っていくのだろう。

引っ越しというのは、「いつかは使うだろう」と取って置いた不要品の整理の機会でもある。だから荷造りの傍ら、そういう不要品をせっせと捨てていくことになる。そうなると、家のなかにふだん開けることもない引き出しや押入れがどれだけたくさんあるか、改めて思い知らされることになる。そうやって出てきた箱のなかから、古びたコインが出てきた。大学に行くために家を離れることになったとき、それまで英語を習いに行っていた先生が「タリスマン」として、わたしの守護聖人のコインをくれたのである。

しばらくのあいだ、ポケットに入れていたはずだ。まったく記憶にはないけれど、いつかの段階で、わたしはポケットから出したのだろう。そうやって箱のなかに細々としたものと一緒にしまい込まれ、わたしと共にあちこちを移動してきたのだ。

引っ越しをした記念に、わたしはそれをまた外に出してやった。いったいどこに入れておくか、その場所はまだ決めていないのだけれど、「タリスマン」として、また日々を共にしていこうと思っている。


プロバイダを変更したこともあって、なかなかインターネットに接続できなかったのですが、今日からまた再開します。
またよろしくお願いします。