陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

本を捨てる

2009-05-04 23:06:37 | weblog
最近はゴミの分別が厳しくなって、紙類は「古紙」に分類されるようになってしまった。ビデオテープを「普通ゴミ」として出してかまわなくて、反古紙が「リサイクル可能だから」という理由で、「普通ゴミ不可」となるのは納得がいかないのだが、まあこういう規則というのはどこかに線を引かなければならないのだから、完全に納得ができる分類というのもあり得ないとも。

それでも、普通ゴミであれば、扉のある集塵庫に捨てることができるのに対し、古紙類は、道路に面した粗大ゴミ置き場に、紐で結束して捨てることになる。新聞や古雑誌ならともかく、プリントアウトや答案類などをそういう形で捨てるのは、大変抵抗がある。そこで、シュレッダーを買うことにした。シュレッダーと言ってもたいしたものではない。ハンドルがついていて、鉛筆削りのようにそれをキコキコと回していくのである。

ところが、日常少しずつでもそうやって処分していればよかったのだが、引っ越しともなると、押入や机の引き出しの奥から、出てくるわ出てくるわ、大学一年のときに書いたレポートやレジュメまで出てきたのである。何でこんなものを取っていたのやら。一応目を通してみたのだが、書いた記憶はまったくないにもかかわらず、まぎれもなく自分の書いたものであることは、はっきりとわかった。文章の癖といい、書き癖といい、ついでにそこから浮かび上がる自意識みたいなものまで、まぎれもなく自分にほかならず、頭を抱えたくなったものだ。

そんな段ボール箱一杯のレポートやレジュメの束を、しばらくきこきこやっていたのだが、すぐにうんざりしてしまった。どうせ「普通ゴミ」は燃やしてしまうのである。紙を燃やして何が悪い? ここは市当局に大目に見てもらうことにした。

さて、市が発行する「ゴミの分別表」には、新聞・雑誌はあっても、「本」という項目はない。リサイクルではなく、古本屋に持っていけ、ということなのか。だが、少々の本ではないのである。ミステリやSFや時代小説の文庫本は古本もかなりある。山のようにある英語の雑誌は、引き取ってくれないだろう。古紙類の回収の日に出すことにした。

ちょうどその前日、せっせと結束しているとき、テレビで「誰かの『こころ』が捨てられている」というブックオフのコマーシャルをやっていた。雨に打たれている「こころ」を始めとする本たち。胸が痛んだ。やっぱりブックオフに持っていこうかな、と思ったのだが、いまさら古本屋で買った本と、通常の本屋で買った本を分類するのも面倒なのだった。

つぎの日の朝、台車に乗せてゴミ置き場に出した。なにしろ量が多い。二度に分けることにした。よいしょよいしょと台車に載せて、ゴロゴロと運んでいき、よいしょよいしょと下ろしていく。

ところが二度目に持って降りたときに、なんと、文庫本のすべてが消えているではないか。おまけにハードカバーを結束していた紐がはずされ(あんなに苦労して縛ったのに)、三分の一ほどになった本が散乱している。それをもういちど結わえ直し、台車から本を降ろしているときだった。

軽トラックがやってきたかと思うと、わたしがたったいまおろした文庫本類をごっそりと持っていくのである。しばらく見ていたところ、ハードカバー類もどんどん軽トラックに積んでいく。結局ペーパーバックと洋雑誌だけが残されたのだった。

やがて、出かけるときにそこを見てみると、きれいに何もなくなっていた。そこに残っていたのは、よその人が出した段ボールだけだった。少なくとも、本が雨に濡れているのを見なくてすんだのだった。

何にしてもものを捨てるというのはむずかしいものだ。