陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

『或る女』 その3.

2008-01-19 23:53:45 | 
葉子はアメリカに行くことになっている。母親の遺言で、アメリカにいる木村と結婚することになっていたからである。
 これから行こうとする米国という土地の生活も葉子はひとりでにいろいろと想像しないではいられなかった。米国の人たちはどんなふうに自分を迎え入れようとはするだろう。とにかく今までの狭い悩ましい過去と縁を切って、何の関りもない社会の中に乗り込むのはおもしろい。和服よりもはるかに洋服に適した葉子は、そこの交際社会でも風俗では米国人を笑わせない事ができる。歓楽でも哀傷でもしっくりと実生活の中に織り込まれているような生活がそこにはあるに違いない。女のチャームというものが、習慣的な絆から解き放されて、その力だけに働く事のできる生活がそこにはあるに違いない。才能と力量さえあれば女でも男の手を借りずに自分をまわりの人に認めさす事のできる生活がそこにはあるに違いない。女でも胸を張って存分呼吸のできる生活がそこにはあるに違いない。少なくとも交際社会のどこかではそんな生活が女に許されているに違いない。葉子はそんな事を空想するとむずむずするほど快活になった。……

 木村を良人とするのになんの屈託があろう。木村が自分の良人であるのは、自分が木村の妻であるというほどに軽い事だ。木村という仮面……葉子は鏡を見ながらそう思ってほほえんだ。

もし葉子が実際にアメリカに行っていたら、そこでの共同体のなかに自分の居場所を見つけられたかもしれない。彼女自身変わることなく、自分の持つ力をその社会のなかで発揮することができたかもしれない。だが葉子はそうでないほうの道を選択することになる。

まず葉子が乗る絵島丸が出帆する間際、ひとりの若い男がやってきて、葉子の肩に顔を埋め、行ってくれるな、とかき口説く。ところが葉子の側ではその男の記憶がまったくないのである。最初は自尊心をくすぐられた葉子も、やがてみなの好奇の視線を浴びて、その気持ちは憤りに変わっていく。
「さ、お放しください、さ」
 ときわめて冷酷にいって、葉子は助けを求めるようにあたりを見回した。
 田川博士のそばにいて何か話をしていた一人の大兵な船員がいたが、葉子の当惑しきった様子を見ると、いきなり大股に近づいて来て、
「どれ、わたしが下までお連れしましょう」
 というや否や、葉子の返事も待たずに若者を事もなく抱きすくめた。若者はこの乱暴にかっとなって怒り狂ったが、その船員は小さな荷物でも扱うように、若者の胴のあたりを右わきにかいこんで、やすやすと舷梯を降りて行った。五十川女史はあたふたと葉子に挨拶もせずにそのあとに続いた。しばらくすると若者は桟橋の群集の間に船員の手からおろされた。
 けたたましい汽笛が突然鳴りはためいた。田川夫妻の見送り人たちはこの声で活を入れられたようになって、どよめき渡りながら、田川夫妻の万歳をもう一度繰り返した。若者を桟橋に連れて行った、かの巨大な船員は、大きな体躯を猿のように軽くもてあつかって、音も立てずに桟橋からずしずしと離れて行く船の上にただ一条の綱を伝って上がって来た。人々はまたその早業に驚いて目を見張った。
ここでも『カインの末裔』の仁右衛門や『かんかん虫』のイリイッチのような大きな男が登場する。それまでの葉子の世界にはいなかった、大きな力強い男である。

乗船後、初めての食事をとるために食堂に現れた葉子の姿を見て、ほかの船客たちが興奮しているのに、葉子を救ってくれた事務長の倉地だけは、こともなげな様子である。
それだのに事務長だけは、いっこう動かされた様子が見えぬばかりか、どうかした拍子に顔を合わせた時でも、その臆面のない、人を人とも思わぬような熟視は、かえって葉子の視線をたじろがした。人間をながめあきたような気倦るげなその目は、濃いまつ毛の間から insolent (※横柄な、無礼な)な光を放って人を射た。葉子はこうして思わずひとみをたじろがすたびごとに事務長に対して不思議な憎しみを覚えるとともに、もう一度その憎むべき目を見すえてその中に潜む不思議を存分に見窮めてやりたい心になった。葉子はそうした気分に促されて時々事務長のほうにひきつけられるように視線を送ったが、そのたびごとに葉子のひとみはもろくも手きびしく追い退けられた。

それまで自分の周囲に集まってくる男たちは、彼女の力の感覚を満たしてくれるものでしかなかった。葉子が引かれていくだけの強さを持った男はひとりもいなかったのである。だが、平然と彼女の視線を見返す倉地に葉子は引きつけられていく。倉地の側もやはり葉子に引かれていたのである。
 しかし葉子はとうとうけさの出来事にぶっ突かってしまった。葉子は恐ろしい崕のきわからめちゃくちゃに飛び込んでしまった。葉子の目の前で今まで住んでいた世界はがらっと変わってしまった。木村がどうした。米国がどうした。養って行かなければならない妹や定子がどうした。今まで葉子を襲い続けていた不安はどうした。人に犯されまいと身構えていたその自尊心はどうした。そんなものは木っ葉みじんに無くなってしまっていた。倉地を得たらばどんな事でもする。どんな屈辱でも蜜と思おう。倉地を自分ひとりに得さえすれば……。今まで知らなかった、捕虜の受くる蜜より甘い屈辱!

葉子はアメリカに着いたが、病気を口実に、船から下りることすらしない。葉子を迎えに来た木村も、どれほど彼が誠心誠意をこめて訴えても耳を貸さず、追い返す。

日本に帰って倉地と葉子は同棲を始めるが、ふたりの関係は新聞に暴露され、倉地は船会社をクビになる。葉子の方は倉地の愛を得ただけで十分なのだが、倉地はそうではない。やがて倉地はスパイ活動を始めるのである。

やがて葉子は体調を崩し始める。痛みが強くなるとともに、成長して美しくなった妹に嫉妬し、倉地と妹の中を邪推し、ヒステリーを起こす。倉地はいよいよスパイ活動にのめりこみ、葉子への興味を失い、とうとう行方しれずになっていく。最後、手術に失敗した葉子は、ひとり「痛い痛い」と呻きながら死を待つのである。


倉地に会うまでの葉子が求めていたのは、力の感覚だった。もし彼女が男に生まれていたら、その力の感覚は、仕事や社会的な地位を得ることで発揮することが可能だったろう。だが、当時にあって女でありながら力を発揮することは不可能に近かった。社会活動に尽力し、名士とされていた彼女の母親でさえ、実生活では不本意な思いをすることも多かったのである。

仮に予定通りにアメリカに行けば、その社会で彼女の野心を満たすことができるような場を見つけることができたかもしれない。だが、その前に、葉子は倉地に会ってしまった。

それが日本でもない、アメリカでもない、海の上だった、ということは重要な点だろう。葉子が恋に落ちたのは、「船上」という特殊な場であったし、時間的にも、日本を離れ、アメリカに着くまでという、どちらにも属さない時間だった。

そうして、本来なら限られた場と時間だったものを、葉子は強引に日常に持ち込もうとした。葉子にとって倉地はすべてだった。スパイ活動に没頭し始める倉地を支えるために、アメリカの木村から金を搾り上げる算段までするようになる。
『或る女』という作品の中に流れる時間は明治三十四年九月二十三日から翌年の七月二十六日までの、一年に満たない期間である。だがたったそれだけとは思えないほど、作品を流れる時間の密度は濃いし、葉子の転落ぶりもまた劇的なのである。

『或る女』 その2.

2008-01-18 23:11:55 | 
『或る女』は新橋駅の場面から始まっていく。
発車間際に駅に人力車で駆けつけた葉子は、そこで待っている青年と一緒に改札を通ろうとする。
改札はこの二人の乗客を苦々しげに見やりながら、左手を延ばして待っていた。二人がてんでんに切符を出そうとする時、
「若奥様、これをお忘れになりました」
 といいながら、羽被の紺の香いの高くするさっきの車夫が、薄い大柄なセルの膝掛けを肩にかけたままあわてたように追いかけて来て、オリーヴ色の絹ハンケチに包んだ小さな物を渡そうとした。
「早く早く、早くしないと出っちまいますよ」改札がたまらなくなって癇癪声をふり立てた。
 青年の前で「若奥様」と呼ばれたのと、改札ががみがみどなり立てたので、針のように鋭い神経はすぐ彼女をあまのじゃくにした。葉子は今まで急ぎ気味であった歩みをぴったり止めてしまって、落ち付いた顔で、車夫のほうに向きなおった。
「そう御苦労よ。家に帰ったらね、きょうは帰りがおそくなるかもしれませんから、お嬢さんたちだけで校友会にいらっしゃいってそういっておくれ。それから横浜の近江屋――西洋小間物屋の近江屋が来たら、きょうこっちから出かけたからっていうようにってね」
 車夫はきょときょとと改札と葉子とをかたみがわりに見やりながら、自分が汽車にでも乗りおくれるようにあわてていた。改札の顔はだんだん険しくなって、あわや通路をしめてしまおうとした時、葉子はするするとそのほうに近よって、
「どうもすみませんでした事」
 といって切符をさし出しながら、改札の目の先で花が咲いたようにほほえんで見せた。改札はばかになったような顔つきをしながら、それでもおめおめと切符に孔を入れた。

これだけの描写で、わたしたちは彼女がどういう女性かわかってしまう。まず、汽車の時刻に代表されるような決まり事など、無視してはばからないこと。ほほえんでみせるだけで改札がばかのようになってしまうほど美しい女性であること。そうして、自分の美しさを自分に備わった力として、十分に意識していること。命令されるのが大嫌いで、誇り高いこと。「若奥様」と青年の前で呼ばれたことに腹を立てる、つまり、「お嬢様」と呼ばれる年齢ではなくなりつつあるのだが、彼に対しては若い娘として振るまいたがっていること。下手な作家であれば、延々とそうした「性格」を説明するのだろうが、有島はあわただしい駅頭での、ほんの数分の出来事のうちに、彼女のおおまかなプロフィールを描き出して見せるのである。

「八」に非常に興味深いエピソードがある。
キリスト教の寄宿学校にいた葉子は、十四歳の頃、キリストに捧げようと、絹糸で帯を縫い始める。
出来上がりが近づくと葉子は片時も編み針を休めてはいられなかった。ある時聖書の講義の講座でそっと机の下で仕事を続けていると、運悪くも教師に見つけられた。教師はしきりにその用途を問いただしたが、恥じやすい乙女心にどうしてこの夢よりもはかない目論見を白状する事ができよう。教師はその帯の色合いから推して、それは男向きの品物に違いないと決めてしまった。そして葉子の心は早熟の恋を追うものだと断定した。そして恋というものを生来知らぬげな四十五六の醜い容貌の舎監は、葉子を監禁同様にして置いて、暇さえあればその帯の持ち主たるべき人の名を迫り問うた。
 葉子はふと心の目を開いた。そしてその心はそれ以来峰から峰を飛んだ。十五の春には葉子はもう十も年上な立派な恋人を持っていた。葉子はその青年を思うさま翻弄した。青年はまもなく自殺同様な死に方をした。一度生血の味をしめた虎の子のような渇欲が葉子の心を打ちのめすようになったのはそれからの事である。

十四歳の葉子が初めて愛したのは、キリストだった。だが、ひたむきなその愛情は、愚かな舎監によって踏みにじられる。醜く愚かな人間が、自分より権力があるというだけで、自分の純粋な気持ちも愛情も誇りも踏みにじるのである。そのときの葉子の屈辱感はどれほどのものだったろう。このときから葉子は愛情を捧げる、つまり、自分を下に置いて、愛の対象を高い位置に見上げることをやめたのである。逆に、愛は相手を支配する道具になることを知る。たとえ十五歳の少女であっても、大人の男を思うままに支配することができるのである。葉子にとって、恋愛とは力の感覚にほかならない。

こうやってみると、葉子というのは非常にいやな女なのだが、そうとばかりも言えない部分もあるのだ。

話は前後するが、冒頭に続く場面、汽車に乗った葉子は、かつて短い同棲生活を送り、子供まで作った(だが誰も子供の父親が彼だとは知らない)木部孤笻と出会う。

視線が何度か交錯する。過去がよみがえる。やがて汽車は川崎のプラットフォームに入る。

まず葉子。
そして列車が動かなくなった時、葉子はその人のかたわらにでもいるように恍惚とした顔つきで、思わず知らず左手を上げて――小指をやさしく折り曲げて――軟らかい鬢の後れ毛をかき上げていた。これは葉子が人の注意をひこうとする時にはいつでもする姿態である。

こうやって木部の注意を引く。
 しかもその最後から、涼しい色合いのインバネスを羽織った木部が続くのを感づいて、葉子の心臓は思わずはっと処女の血を盛ったようにときめいた。木部が葉子の前まで来てすれすれにそのそばを通り抜けようとした時、二人の目はもう一度しみじみと出あった。木部の目は好意を込めた微笑にひたされて、葉子の出ようによっては、すぐにも物をいい出しそうに口びるさえ震えていた。

ここで少しほほえみかければ、ふたりのあいだに流れた時間はなくなったかもしれない。
葉子も今まで続けていた回想の惰力に引かされて、思わずほほえみかけたのであったが、その瞬間燕返しに、見も知りもせぬ路傍の人に与えるような、冷刻な驕慢な光をそのひとみから射出したので、木部の微笑は哀れにも枝を離れた枯れ葉のように、二人の間をむなしくひらめいて消えてしまった。葉子は木部のあわてかたを見ると、車内で彼から受けた侮辱にかなり小気味よく酬い得たという誇りを感じて、胸の中がややすがすがしくなった。

ああ、いやな女、と誰もが思うだろう。木部はどうするのか。
木部はやせたその右肩を癖のように怒らしながら、急ぎ足に濶歩して改札口の所に近づいたが、切符を懐中から出すために立ち止まった時、深い悲しみの色を眉の間にみなぎらしながら、振り返ってじっと葉子の横顔に目を注いだ。葉子はそれを知りながらもとより侮蔑の一瞥をも与えなかった。

だが、去っていくその後ろ姿を葉子は見送るのである。
 木部が改札口を出て姿が隠れようとした時、今度は葉子の目がじっとその後ろ姿を逐いかけた。木部が見えなくなった後も、葉子の視線はそこを離れようとはしなかった。そしてその目にはさびしく涙がたまっていた。
「また会う事があるだろうか」
 葉子はそぞろに不思議な悲哀を覚えながら心の中でそういっていたのだった。

力の感覚を楽しむだけの人間は、自分の後ろ姿を人に見せつけることはあっても、人の後ろ姿を見送ったりはしない。さらに、さびしく涙を浮かべるようなこともない。彼女のなかには十四歳の少女もまた生きているのである。表面には出てこない。むしろ、意識してそういう部分を彼女は抑えようとしている。一口に「いやな女」と言うこともできない、彼女の実に複雑な性格が描かれているのである。雑に見ていけば決して好きになれない葉子だが、実に細部まで繊細に描かれた、複雑な陰影を持った女性なのである。

さて、その彼女がどのように転落していくかはまた明日。

女性転落小説である『或る女』

2008-01-17 22:18:57 | 
文学作品の中には、「女性転落小説」というジャンルがある、というのはウソで、わたしが昔から密かに名付けてそう分類している。
転落というと、椅子から転げ落ちでもしたのかという感じだが、「女性転落小説」はそうではない。

・地位も資産もある、美しく魅力的な若い女性が
・徐々に転落していき
・最終的に死ぬことで作品が終わる
というものである。

具体的に作品でいうと、フローベールの『ボヴァリー夫人』、トルストイの『アンナ・カレーニナ』、イーディス・ウォートンの『歓楽の家』、そうして有島武郎の『或る女』が該当する。ケイト・ショパンの『目覚め』は「徐々に転落していき」という部分があっけないので入れなかったが、まあこれも入れても良いかもしれない。

この「転落」の中身は、小説のなかで具体的に現れる事件としては、婚外恋愛だったり(ボヴァリー夫人、アンナ・カレーニナ)、社会的に釣り合った結婚ができなかったり(リリー・バート)、派手な恋愛沙汰だったり(早月葉子)する。

このように、中心的な出来事が恋愛がらみなので、一見したところ、破綻した恋愛小説のように見えるかもしれない。だが、夫のもとを去るアンナが「あたしだって愛さなくちゃならないし、生きなくちゃならないんだわ」と言ったことに代表されるように、夫や親、家の束縛を受けずに自立して生きようとする主人公たちの行動は、未だ彼女たちは職業に就くことができないために、恋愛として焦点化するしかないのである。

夫や家、親族、あるいは従来の道徳や社会規範が彼女たちの前に立ちふさがる。現れとしては恋愛の障害なのだが、そうしたものがうち砕こうとしているのは、彼女たちの自立心である。だがそれに抵抗し、あくまでも従おうとしない彼女たちを、今度は共同体の側が弾き出していく。

共同体から弾き出されることで、彼女たちの心身は不調に陥り、やがて病気になる。しかも経済的に困窮する。
そうして彼女たちは悲惨でボロボロになった状態で死んでいくのである。

読後、わたしたちは非常に理不尽な思いに襲われる。
確かにわがままなところがあったかもしれない。自分勝手だったかもしれない。だが、頭も良く(ボヴァリー夫人はそれほど良さそうではないが)、魅力的で、美しく誇り高かった彼女たちが、いったいどうしてそういう末路をたどらなくてはならなくなったのか。

さて、こういう概略を頭に入れて、明日はもう少し『或る女』を見てみよう。
長い小説で、さすがにこの長さの作品をWebで読むのはつらいので、青空文庫にありますが、できれば本で読んでみてください。おもしろいよ。

(この項つづく)

『カインの末裔』と共同体

2008-01-16 22:48:46 | 
さて、『一房の葡萄』と『かんかん虫』と、ずいぶん雰囲気のちがう有島の作品をふたつ見てきたのだが、ひとつ共通点がある。どちらの作品でも罪が犯されるのだが、その罪が罰せられることはない、ということだ。

『葡萄』では主人公の少年はジムの絵の具を盗む。
けれどもそれを女教師は、とがめることをせず、当初、彼をとがめようとしたクラスメートたちも、おそらくは女教師の説得によって、彼を仲間として受け入れる。その結果、孤立しがちだった主人公は「少しだけ良い子」になる。

『かんかん虫』の世界では、「かんかん虫」の娘に手を出そうとした〈人間〉に報復がなされる。だが、そのイフヒムの犯行を「かんかん虫」全員が口を閉ざすことで守ろうとする。

つまり、罪を犯す者が出たとしても、彼を罰するのではなく、共同体全体で受け入れることによって、罪を赦そうとするのである。

では、共同体の外にある人間が罪を犯した場合、どうなっていくのだろうか。
それを『カインの末裔』に見てみよう。

『カインの末裔』の主人公、広岡仁右衛門は、見たところ『かんかん虫』のヤコフ・イリイッチとよく似ている。「身体の出来が人竝外れて大きい」イリイッチと「背丈けの図抜けて高い」仁右衛門、共に物言いは乱暴である。だが、「不思議にも一種の吸引力を持って居る」イリイッチは、「かんかん虫」仲間のなかでも中心的な人物だが、仁右衛門は、妻と赤ん坊と一緒にどこからともなく松川農場に流れてきた小作人である。
彼れはその灯(※市街地のかすかな明かり)を見るともう一種のおびえを覚えた。人の気配をかぎつけると彼れは何んとか身づくろいをしないではいられなかった。自然さがその瞬間に失われた。それを意識する事が彼れをいやが上にも仏頂面にした。「敵が眼の前に来たぞ。馬鹿な面をしていやがって、尻子玉でもひっこぬかれるな」とでもいいそうな顔を妻の方に向けて置いて、歩きながら帯をしめ直した。良人の顔付きには気も着かないほど眼を落した妻は口をだらりと開けたまま一切無頓着でただ馬の跡について歩いた。

町の灯を見るだけでおびえを覚える仁右衛門は、人とうまく交渉することができない。寒さの中で泣きやまない赤ん坊のために、いきなり事務所で金を借りようとするが、断られてしまうとすぐに腹を立て、小屋の在処さえ聞かずに、そこを出ていこうとする。結局、小作の世話人である笠井に連れて行ってもらうことになるのだが、彼の話もまともに聞かず、火種を借りることさえ思いつかない。そのために飢えた夫婦は、小屋の暗闇の中で三枚の塩煎餅を争うのである。

だが、自然を相手にするときの仁右衛門は、働き者で有能な小作人である。
仁右衛門は逞しい馬に、磨ぎすましたプラオをつけて、畑におりたった。耡き起される土壌は適度の湿気をもって、裏返るにつれてむせるような土の香を送った。それが仁右衛門の血にぐんぐんと力を送ってよこした。
 凡てが順当に行った。播いた種は伸をするようにずんずん生い育った。

ほかの小作人に対しては、傍若無人に振る舞う。
仁右衛門はあたり近所の小作人に対して二言目には喧嘩面を見せたが六尺ゆたかの彼れに楯つくものは一人もなかった。佐藤なんぞは彼れの姿を見るとこそこそと姿を隠した。「それ『まだか』が来おったぞ」といって人々は彼れを恐れ憚った。もう顔がありそうなものだと見上げても、まだ顔はその上の方にあるというので、人々は彼れを「まだか」と諢名していたのだ。
 時々佐藤の妻と彼れとの関係が、人々の噂に上るようになった。

小作の世話役である笠井からは、地主に小作料の値下げ交渉の席に自分と一緒に着いてくれ、と頼まれるが、女と密会の約束をしている仁右衛門はにべもなく断る。
一方、土が痩せるからと禁止されている亜麻の連作だが、商人に高く売れるから、という理由で、帳場からの禁止を無視して作る。やりたい放題の仁右衛門に、人々は近づこうとしない。やがて仁右衛門の赤ん坊が赤痢で死ぬことになり、いよいよ仁右衛門は凶暴になる。
「まだか」、この名は村中に恐怖を播いた。彼れの顔を出す所には人々は姿を隠した。川森さえ疾の昔に仁右衛門の保証を取消して、仁右衛門に退場を迫る人となっていた。市街地でも農場内でも彼れに融通をしようというものは一人もなくなった。佐藤の夫婦は幾度も事務所に行って早く広岡を退場させてくれなければ自分たちが退場すると申出た。駐在巡査すら広岡の事件に関係する事を体よく避けた。笠井の娘を犯したものは――何らの証拠がないにもかかわらず――仁右衛門に相違ないときまってしまった。凡て村の中で起ったいかがわしい出来事は一つ残らず仁右衛門になすりつけられた。

この笠井の娘の陵辱事件というのは、果たして仁右衛門の犯行なのだろうか。確かに状況証拠はそろっている。だが、作者は「何らの証拠がないにもかかわらず――仁右衛門に相違ないときまってしまった」と、含みの多い言い方をしている。じつのところ、仁右衛門が犯人であるかどうかはわからないのである。にもかかわらず、「村の中で起ったいかがわしい出来事は一つ残らず仁右衛門になすりつけられた」。

それでも仁右衛門はまだ「三年経った後には彼れは農場一の大小作だった。五年の後には小さいながら一箇の独立した農民だった。十年目にはかなり広い農場を譲り受けていた。」という夢をあきらめられない。そのために、笠井たちの失敗した小作料の値下げ交渉を、函館に住む農場主に直接に掛け合いに行く。だが、農場主から「馬鹿」と一喝された仁右衛門は引き下がらざるを得ない。
仁右衛門はすっかり打摧かれて自分の小さな小屋に帰った。彼れには農場の空の上までも地主の頑丈そうな大きな手が広がっているように思えた。雪を含んだ雲は気息苦しいまでに彼れの頭を押えつけた。「馬鹿」その声は動ともすると彼れの耳の中で怒鳴られた。何んという暮しの違いだ。何んという人間の違いだ。親方が人間なら俺れは人間じゃない。俺れが人間なら親方は人間じゃない。彼れはそう思った。そして唯呆れて黙って考えこんでしまった。

ここで非常におもしろいことに気がつく。仁右衛門が自分が小作人の一員であることをはっきりと自覚したのは、場主と会ってからなのだ。それ以前にほかの小作人に対して傍若無人の振る舞いができたのは、彼らが自分と関係ないと感じていたからである。「親方が人間なら俺れは人間じゃない。俺れが人間なら親方は人間じゃない」というほどに自分と農場主の地位の隔たりを感じることで、初めて自分が小作であることが自覚されたのである。そのときやっと、自分が本来所属していたのは、小作人の共同体であったこと、そうして共同体の一員としては行動してこなかった彼が、もはやこれ以降ほかの小作人に混じってはやっていけなくなっていることが理解される。そこで彼は松川農場を出ていくことになるのである。

物語は、仁右衛門が松川農場のはずれの小屋に住むようになった、冬の初めからつぎの年の冬を迎えようとするまでの一年間が描かれる。一年後、仁右衛門はその農場におれなくなり、来たときにはいた赤ん坊と馬を失い、妻とそのふたりで重い荷を背負って出ていくところで終わる。

共同体の一員とならなかった者は、犯さなかった罪までかぶって、そこを離れざるを得なくなったのである。

「かんかん虫」と虫と人間(後編)

2008-01-14 22:35:35 | 
「かんかん虫」の筋をここで簡単に見ていこう。
「かんかん虫」のイリイッチには娘がいる。娘のカチヤには同じ「かんかん虫」仲間のイフヒムという恋人がいるのだ。ところが会計士ペトニコフがカチヤを囲おうと申し出てきた。イリイッチはカチヤをペトニコフのもとにやることにする。
だがイフヒムは引き下がりはしないだろう。
イリイッチがそこまで「私」に話したところで、仕事が終わったことを見届けに、ペトニコフがやってくる。ペトニコフが上甲板に足をかけようとした時、クズ鉄が飛んできてペトニコフの頭に当たりペトニコフは転落する。やがて警官たちが来るが、誰ひとり口を割らなかった、というものである。

ここでポイントになるのがタイトルにもなった〈虫〉である。
イリイッチは〈かんかん虫〉と呼ばれる自分たちが、果たして人間なのか、虫なのか、という疑いを持っている。
「旦那、お前さん手合は余り虫が宜過ぎまさあ。日頃は虫あつかいに、碌々食うものも食わせ無えで置いて、そんならって虫の様に立廻れば矢張り人間だと仰しゃる。己れっちらの境涯では、四辻に突っ立って、警部が来ると手を挙げたり、娘が通ると尻を横目で睨んだりして、一日三界お目出度い顔をしてござる様な、そんな呑気な真似は出来ません。赤眼のシムソンの様に、がむしゃに働いて食う外は無え。偶にゃ少し位荒っぽく働いたって、そりゃ仕方が無えや、そうでしょう」

〈人間〉の世界と〈虫〉の世界があるのか。それとも「かんかん虫」も同じように人間なのか。人間なのに虫扱いされているのか。その疑念と不満が渦巻いている。

ところが〈人間〉界の住人である会計士ペトニコフがイリイッチの娘カチヤを囲おうとする。イリイッチは悩む。
カチヤを餌に、人間の食うものも食わ無えで溜めた黄色い奴を、思うざま剥奪(ふんだ)くってくれようか。

イフヒムとカチヤが結婚するのであれば、そこに価値は発生しない。ところがカチヤをペトニコフに差し出すと、そこに金銭的価値が発生する。つまり、娘とお金を交換したことになるのである。それは〈虫〉の共同体と〈人間〉の共同体というふたつの共同体の間での交換ということではないのか。

イリイッチは悩みながらも答えを出す。
それよりも人間に食い込んで行け。食い込んで思うさま甘めえ御馳走にありつくんだてったんだ。そうだろう、早い話がそうじゃ無えか。
カチヤを差し出し、自分を〈虫〉と決めたのである。

だが、交換が成立しても、イフヒムは納得しない。
イフヒムの云うにゃ其の人間って獣にしみじみ愛想が尽きたと云うんだ。人間って奴は何んの事は無え、贅沢三昧をして生れて来やがって、不足の云い様は無い筈なのに、物好きにも事を欠いて、虫手合いの内懐まで手を入れやがる。何が面白くって今日今日を暮して居るんだ。虫って云われて居ながら、それでも偶にゃ気儘な夢でも見ればこそじゃ無えか……畜生。
ヤコフ・イリイッチはイフヒムの言った事を繰返して居るのか、己れの感慨を漏らすのか解らぬ程、熱烈な調子になって居た。
交換は成立したものの、自分を〈虫〉にした人間に対する恨みはいっそう募る。
そうして〈虫〉の側からの反撃が怒るのである。「人間が法律を作れりゃあ、虫だって作れる筈だ」というように、「虫の法律的制裁が今日こそ公然と行われ」たのである。

「かんかん虫」という言葉は、大きな船の船体部に虫のようにへばりついて、かんかんと叩くところから来た言葉である。
けれど、有島武郎は「虫」と呼ばれることで、「虫」のありようや、「虫」の扱われ方、「虫」という言葉が喚起させるさまざまなイメージが、彼らに重ね合わされることに気がついている。ひとつの隠喩が、形を与えられ、やがていきいきと動き出す。そうしてそれはいつのまにか〈人間〉と対置される〈虫〉たちになっていったのだ。

「かんかん虫」と虫と人間(前編)

2008-01-13 22:17:42 | 
『一房の葡萄』が英語で話している「ことになっている」作品であるとしたら、同じく有島武郎の『かんかん虫』はロシアが舞台、登場人物たちもみなロシア人という作品である。おまけにこのロシア人、
 おい、船の胴腹にたかって、かんかんと敲くからかんかんよ、それは解せる、それは解せるがかんかん虫、虫たあ何んだ……出来損なったって人間様は人間様だろう、人面白くも無えけちをつけやがって。
というように、江戸っ子の職人のような言葉で話すのだ。

「かんかん虫」という言葉を辞書で引くと、
〔虫のようにへばりついてハンマーでたたくところから〕艦船・タンク・ボイラー・煙突などのさび落としをする工員の俗称。
(大辞林)
とある。わたしは有島のこの作品を読むまでこんな言葉があるのを知らなかった。検索してみると、吉川英治が1931年に発表した作品に『かんかん虫は唄う』という作品がある。有島の作品が1910年(明治43年)発表だから、明治から戦前ぐらいまでは一般的な言葉だったのだろう。ともかく、当時の人々にとって、このタイトルが指すものは、容易に理解できたと考えて良い。

ところがこの日本語の俗称をそのままタイトルにした作品の舞台はロシアなのである。作品の冒頭「ドゥニパー湾」として、まず作品の舞台が明らかにされるのだが、それが黒海沿岸の湾であると知らない人にも、やがて中心的な登場人物ヤコフ・イリイッチの名が明らかになることで、ここに出てくるのはロシア人なのだろうと推測がつくようになっている。ロシア語に「かんかん虫」に相当する言葉があるのかどうかはわからないが、これが翻訳小説ならば、おそらくこのタイトルはつかなかったろう。ともかく、わたしたちはタイトルと、作者名と、登場人物と作品の舞台の微妙な違和感を覚えながら作品を読み進める。

イリイッチは
おい、船の胴腹にたかって、かんかんと敲くからかんかんよ、それは解せる、それは解せるがかんかん虫、虫たあ何んだ……出来損なったって人間様は人間様だろう、人面白くも無えけちをつけやがって。
と、このあだ名が気にくわない。

佐藤信夫の『レトリック感覚』によると、あだ名は「白雪姫型(隠喩)」と「赤頭巾型(換喩)」に大別されることが指摘されている。
お姫さまと白い雪のあいだには何のかかわりもない。雪だるまのように雪でできているわけでもなく、雪女のように雪のなかに住んでいるのでもない。ただ、色や清純さが似ているだけである。
 ところが、くだんの女の子のほうは、いっこうに赤くもなく、頭にかぶるシャプロンとは似てもにつかぬ。そのかわり、現実にそれをかぶっている。人間と頭巾は現実にかかわり合い、まさに接触し合っている。
(佐藤信夫『レトリック感覚』講談社学術文庫)

『坊ちゃん』に出てくる教頭は赤いシャツを着ているから「赤シャツ(換喩)」、英語の古賀先生は顔色が悪いから「うらなり(隠喩)」、いがぐり頭の堀田先生は「山嵐(隠喩)」である。

では、「かんかん虫」はどうか。
「船の胴腹にたかって、かんかんと敲くからかんかん」叩く彼らの仕事を「虫」に見立てた隠喩なのだろう。

隠喩というのは、「~のよう」がつかないたとえのことである。
「あの人の頭ははげていて、怒ったりすると、まるでゆでだこみたいになる。」というのが直喩で「寅さん」に出てくる裏の町工場の禿げたおじさんを「タコ社長」と呼ぶのが隠喩だ。

そのちがいは「~みたい」「~のようだ」のあるなしだけではない。「ゆでだこみたい」というのは、相手が説明してくれることで、わたしたちはただそれを聞いているだけなのだが、「タコ社長」という言葉を聞いたわたしたちは、自分自身で、はああ、あの頭の形から来ているのだな、と発見する。自分の発見があるから楽しい。つまりあだ名の楽しさというのは、あとからでも、一緒に命名のゲームに参加できるからなのだろう(だから、金田という名字だから「カネゴン」というあだ名がついていたりするより、口元があの怪獣に似ているから「カネゴン」という方が楽しい)。

だが、その呼び名にも慣れてくると、もはやあだ名はその人物として定着され、「タコ社長」も「御前様」も、ほとんど役柄の名称と変わりはなくなる。そうなるともはやわたしたちはその名称で笑うことはできない。

おそらく最初は「タコ社長」と面と向かって呼ばれて、くだんのタコ社長も腹をたてただろうが、やがてそれにも慣れてくる。そう呼びかける寅さんに、いちいち食ってかかることもなくなってくる。

ところが「かんかん虫」と呼ばれて久しいはずのイリイッチは、いまなおそのあだ名をおもしろくなく思っているのである。つまり、人間である自分たちが「虫」に見立てられることに、このイリイッチの不満は集約されている。「虫対人間」というのが、この作品のテーマなのである。さて、その作品の中身はこのつぎに。


(この項つづく)

(※1/14:一部内容がおかしかったので加筆修正しました。サイトの更新情報も若干書き改めました。)


サイト更新しました

2008-01-12 22:11:26 | weblog
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

先日までここに連載していたサキ・コレクションvol.3更新しました。

今回は「お金と人間と」というテーマで三つ選んでみました。
「ラプロシュカの魂」はほぼ全編訳し直しています(おかげでずいぶん時間をとられちゃいました)が、残りのふたつはちょっと手抜き。またそのうちちょこちょこ直すつもりにしています。

ここ数日、ちょっと忙しくてブログの更新ができてなかったんですが、明日からまたぼちぼちとやっていきますのでよろしくお願いします。
更新情報は明日にはアップしますね。

だからまたお暇なときにでものぞいてみてください。

『一房の葡萄』の教訓と底にあるもの

2008-01-09 22:59:46 | 
わたしのときは『一房の葡萄』は教科書で扱った記憶はないのだが、この作品は、小学校や中学の教科書に、一時期ずいぶん採られたようだ。
教科書というからには、ここから何らかの道徳的な教訓を引き出すことが求められているのだろう。ここではそのことを考えてみたい。

『鑑賞日本現代文学⑩ 有島武郎』には、この『一房の葡萄』が彼の実際の体験に基づくものであることが記されている。
 明治三十七年八月二十九日、フランクフォードの精神病院で看護夫をしていた有島は、増田英一・壬生馬宛の手紙に〈……実に生が怪しき執着は絵画なり。幼くして山手の英和学校に通ひつゝありし時、生は誘惑に堪えずして友の持てりし美しき西洋絵具を盗みて発見せられ、我より年長(た)けたりし其(その)友の為めに、痛くたしなめられしことあり。叔父上の紫鉛筆(其頃生が眼には最も珍かなるものなりき)の尖端を窃かに打ち切りて紫の絵の具に代へし事あり。是れ等の罪科(生の今に至るまで何人にも告げざりし)は凡て英一兄の所謂(いわゆる)頑癖の為めにの故に犯されぬ。爾来(じらい)歳月擅(ほしいまま)に移りたりと雖(いえど)も、三歳にして享けたる魂は今も生が心の宮を離れず。〉と報じている。この文面によると、有島の絵に対する〈執着〉は三歳頃から芽生えたようであり、その〈頑癖〉のために一度ならず二度も出来心に負けてしまったのである。
山田昭夫『鑑賞日本現代文学⑩ 有島武郎』角川書店

この手紙を見ると、何よりも叔父さんの色鉛筆の先を切ったぐらいで、そこまでの罪の意識を持ち続けていたことに驚くのだが、ともかくこの『一房の葡萄』は、彼の実際の経験に基づくものだったと考えてよさそうだ。
昼御飯がすむと他の子供達は活溌に運動場に出て走りまわって遊びはじめましたが、僕だけはなおさらその日は変に心が沈んで、一人だけ教場に這入っていました。そとが明るいだけに教場の中は暗くなって僕の心の中のようでした。自分の席に坐っていながら僕の眼は時々ジムの卓の方に走りました。ナイフで色々ないたずら書きが彫りつけてあって、手垢で真黒になっているあの蓋を揚げると、その中に本や雑記帳や石板と一緒になって、飴のような木の色の絵具箱があるんだ。そしてその箱の中には小さい墨のような形をした藍や洋紅の絵具が……僕は顔が赤くなったような気がして、思わずそっぽを向いてしまうのです。けれどもすぐ又横眼でジムの卓の方を見ないではいられませんでした。胸のところがどきどきとして苦しい程でした。じっと坐っていながら夢で鬼にでも追いかけられた時のように気ばかりせかせかしていました。
ほしくてほしくてたまらず、やがてそのほしいという気持ちに飲みこまれていくようすがよくわかる。
ここから、実際に絵の具を盗む場面。
 教場に這入る鐘がかんかんと鳴りました。僕は思わずぎょっとして立上りました。生徒達が大きな声で笑ったり呶鳴ったりしながら、洗面所の方に手を洗いに出かけて行くのが窓から見えました。僕は急に頭の中が氷のように冷たくなるのを気味悪く思いながら、ふらふらとジムの卓の所に行って、半分夢のようにそこの蓋を揚げて見ました。そこには僕が考えていたとおり雑記帳や鉛筆箱とまじって見覚えのある絵具箱がしまってありました。なんのためだか知らないが僕はあっちこちを見廻してから、誰も見ていないなと思うと、手早くその箱の蓋を開けて藍と洋紅との二色を取上げるが早いかポッケットの中に押込みました。そして急いでいつも整列して先生を待っている所に走って行きました。

盗みに至るまでの気持ちの揺れとその行動が緻密に描かれていく。おそらく盗むものが何であれ、何かがほしくてたまらなくなった子供が盗もうとする心理も行動も、ここのなかにすべて描かれているようにさえ思える。

そこから盗みが発覚して、主人公はクラスメイトに囲まれる。「僕の体はひとりでにぶるぶる震えて、眼の前が真暗になるようでした。」とリアルな描写が続いていく。ところが不思議なことに主人公は泣くばかりで謝ることをしない。先生のところにいってから、いよいよ奇妙な展開になっていく。先生が、唯一、主人公に反省を促すのは、わずかにこの場面だけだ。
「あなたは自分のしたことをいやなことだったと思っていますか。」
 もう一度そう先生が静かに仰った時には、僕はもうたまりませんでした。ぶるぶると震えてしかたがない唇を、噛みしめても噛みしめても泣声が出て、眼からは涙がむやみに流れて来るのです。もう先生に抱かれたまま死んでしまいたいような心持ちになってしまいました。
この部分、主人公は反省しているのだろうか。そうかもしれない。けれども「もう先生に抱かれたまま死んでしまいたいような心持ちになってしまいました」というのがしっくりこない。うっかり読み飛ばしてしまいそうだが、よく考えると非常に奇妙な文章なのである。こんなことを子供が考えているとしたら、ひどく気味が悪いように思える。

『鑑賞日本現代文学⑩ 有島武郎』には興味深い記述がある。
ところで、英和学校における〈罪科〉は、「文壇書家年譜(26)有島武郎」(『新潮』大正7・3)に〈……学校で絵具を盗み露見した恥ずかしさ。泣きやむやうに好きな若い女教師から葡萄棚の一房をもぎとつて与へられたエクスタシー〉というように告白されている。有島が語らなければ、この事実は記載されなかったはずである。注意されるのは、上記の手紙で伏せられていた〈好きな若い女教師〉への有島の思慕の情、甘美なばかりの浄罪感の思いでである。
なんとなんと、主人公の「もう先生に抱かれたまま死んでしまいたいような心持ちになってしまいました」というのは、〈エクスタシー〉だというのだ。

昨日も引用した関川夏央は「『一房の葡萄』は日本の物語ではなく、この世の物語でさえないようである。ただ回想の甘美さと「やさしい白い手」への郷愁とが強くある」と書いているのだが、そんな穏やかなものなのだろうか。
むしろ有島に強くこのできごとが記憶されたのは、この〈好きな若い女教師〉の前に出て、罪を認め、〈エクスタシー〉を感じたせいではないかとさえ思えてくるのである。

学校的な〈読み〉では、おそらく「盗み」をしたことの罪悪感と、彼をとがめず優しく包み込んだ女教師、ということが読みとられるべきなのであろう。だが、この作品にあるのは決してそれだけではない。むしろ「回想の甘美さ」は、たとえ少年であってもそうした〈エクスタシー〉を感じる、そうして記憶は、大人になっても忘れられることはない、ということが、ひそかに埋められているのである。

これはよくよく読んでいくと、相当に危険な作品じゃないんだろうか。
考えてもみてほしい。自分が叱っているはずの相手が「もう先生に抱かれたまま死んでしまいたいような心持ちになってしまいました」と考えているなんて。
これは大人の有島が記憶に付与したものではなく、事実、少年の有島がそう感じたからこそ強く記憶されているのである。

「のだめ」と『一房の葡萄』

2008-01-08 23:02:15 | 
先日帰省したとき、TVで「のだめカンタービレ」をやっていた。マンガもTVも見たことがなくても、だいたいどんな話かぐらいは知っているし、非常にわかりやすい展開は、部屋を出たり入ったりしながらまともに見たわけではなくても、ストーリーの流れは容易につかむことができた。

ただ、一点、非常におもしろいと思ったことがあったのだ。

舞台はフランスだ(何で音楽の留学にパリに行くんだろう、という疑問は残ったが、おそらくそれにはしかるべき説明が以前にあったのだろう)。主人公たちを取り巻く周囲の人物のほとんどが、フランス人をはじめとした外国人なのである。
にもかかわらず、フランス人を演じる日本の役者(たぶん)が、奇妙な発音でフランス語をしゃべり、その下に字幕がついていたかと思うと、すぐに(たぶん、ドラマが始まってから五分後ぐらいに)、視聴者の便宜を図ってせりふはすべて日本語に切り替える、という注釈が流れ、以降、「画面では日本語で会話がなされているが、実際にはフランス語で会話されている」という設定で話は展開していく。日本人ではない登場人物のせりふには、吹き替えの声がかぶせられる。この設定が実に不思議で、つい、最後まで見たようなものだ。

画面でしゃべっている言葉と、実際にしゃべっている言葉はちがうよ、という設定で思い出すのは、映画《レッド・オクトーバーを追え!》だ。
これも冒頭、ソ連原子力潜水艦の艦内から物語は始まっていくのだが、そこでしばらくは響く音の多いロシア語ですべての会話がなされていた。それがやはり五分後ぐらいに、実に自然に英語に切り替わっていく。最初はロシア語をしゃべっていたショーン・コネリーもサム・ニールも、英語を話し始めるのだ。だがそれは、彼らが亡命を企てているから英語をしゃべり始めたのではなくて、画面で彼らは英語で話しているが、実際には引き続きロシア語で会話しているんですよ、という暗黙の了解を視聴者に期待しているのだろう。以降、会話はすべて英語となるのだが、スコット・グレン扮するアメリカの原潜の艦長が、いかにもアメリカ的な振る舞いや物言いをするのと対比させる意味でも、引き続き、ショーン・コネリーにはロシア語で話してほしかったなあ、と思ったものだった。

もうこの《レッド・オクトーバー…》も、映画としてはいつのまにか古典的名作の仲間入りをしたみたいで(ああ、わたしの記憶ではマリオンでこの映画を見たのはついこのあいだのことなのに……)、TVの洋画劇場では定番なのか、毎年のように見ているような気がする。そんなときショーン・コネリーは最初からずっと日本語をしゃべっているのだが、わたしたちは画面では日本語をしゃべっているけれど、実際にはロシア語でしゃべっているんだ、と考えもせずに受け入れているのだろう。

ただ、言葉というのは不思議なもので、件の「のだめ」にせよ何にせよ、「実は何語で話しているのだろう、ということを考え始めると、どうもそればかり気になって、物語世界のなかには入っていけなくなってしまう。わたしたちはどうも無意識のうちに、「舞台」とそこで交わされる言葉の一致というものを期待しているような気がする。

さて、有島武郎の子供向けの童話に『一房の葡萄』という作品がある。
これはわたしも子供の頃に読んだことがあるが、なんとなく異国情緒というのか、なんというのか、童謡の「赤い靴」にも通じるような、「昔のハイカラなイメージ」がこのなかにはあるのだろうと思っていた。おそらくその連想なのだろう、わたしはながらくこの作品を横浜の昔のインターナショナル・スクールのようなものだろうと思っていたのだった。

関川夏央の『白樺たちの大正』によると、確かにわたしのばくぜんとした推測は、そこまでまちがっていなかったことがわかる。実際にはインターナショナル・スクール自体がまだ日本にはなかったのだが。
 有島武郎は…父武が横浜税関長となったとき横浜に移住し、山手の居留地に住んだ。五歳の一年間、アメリカ人の家庭に二歳下の妹と通って英語に親しむ日を過ごした。六歳になると、ミス・ブリテンが校長をつとめる横浜英和学校に入り、学習院予備科に途中入学するまでの二年間学んだ。この時代の経験を彼はのちに自分の子供たちのため、『一房の葡萄』という童話に書いた。
とあるのだ。ただ、続いて関川はこの作品の「妙なところ」を指摘する。
 主人公の少年はどうも日本人らしいがジムはアメリカ人、先生もまた明らかに白人である。まず第一に、彼らが何語で話していたかという問題がある。つぎに、主人公はただ泣くばかりでついに一度も反省の言葉を口にせず謝罪もしないのである。なのになぜかジムは彼を赦し、先生はあいまいな状況を放置して事態を「一房の葡萄」をしめすことだけでまとめてしまう。
この第一の疑問点に答えるのは、それほどむずかしくはないだろう。この作品は、「のだめ」のように注釈はなされてはいないし、《レッド・オクトーバー…》のように暗示もされてはいないが、すべて英語でなされている「ことになっている」のだ。

この『一房の葡萄』は、全編「ことになっている」作品のように思われる。
よく「外国語でも子供が覚えた方が大人より早い」と言う人がいるが、わたしはそれにかなり疑問を持っている。英会話スクールに週二回通う小学生の英語を間近で見た記憶もあるし、外国で苦労する子供の話も聞いたことがある。有島が二年ほど家庭に通い、二年ほど英語が公用語の学校に通ったとしても、実際にどれだけ英語が話せたことだろう。
この主人公が黙ってばかりいるのも、実際には英語で自己主張ができるほどの能力を持っていなかったからではないか、という気がしてならないのだ。

けれども、物語世界では彼は流ちょうに話せる「ことになっている」。話せるけれども、自分の気持ちを表現したり、言い訳したりもせずに、ただめそめそと泣く。それは彼の繊細さという「ことになっている」のだろう。

関川の指摘する第二点に関しては、長くなってきたのでまた明日。

(この項つづく)

サキ 「毛皮」後編

2008-01-07 23:16:57 | 翻訳
「毛皮」(後編)


 翌日の午後三時になる数分前、毛皮の罠師がふたり、狙いを定めた場所に向かって抜け目なく眼を光らせつつ歩いていった。すぐ先に、かのゴリアス氏とマストドン氏にちなんだ名高い建築物がそびえ立っている。その午後は、ことのほか好天にも恵まれ、まさに年輩の紳士が散歩などの軽い運動をしたくなりそうな日だった。

「ねえ、今夜、頼みがあるの」エリナーはスザンナに言った。「晩ご飯のあとで、適当な口実を作ってわたしの家に来てくれない? アデラと叔母さんたちと一緒に四人でブリッジをやってほしいのよ。そうでなきゃわたしがやらされる羽目になっちゃうんだけど、ハリー・スカリスブルックが急に九時十五分に来ることになったの。だからわたし、どうしてもその時間をあけて、ほかの人がブリッジをやってるあいだ、話をしたいの」

「悪いんだけど、それは勘弁して」スザンナが言った。「百点が三ペンスのありきたりのブリッジを、あなたの叔母さんたちみたいな死にたくなるほどのろくさい人と一緒にやるなんて、泣きたくなるくらい退屈なんだもの。ブリッジやりながら居眠りしちゃうわ」

「でもね、ハリーと話ができるようなチャンスをどうしても逃すわけにはいかないの」眼にきらきらと怒りの光を宿しながら、エリナーはかき口説くように言った。

「ごめんなさい。ほかのことならなんだってしてあげるけど、それだけはイヤ」スザンナの返事は屈託がなかった。友情のために犠牲になることは、スザンナの目から見ても美しい行為だったが、それも自分が頼まれる側にならない限りの話である。

 エリナーはそれ以上その話題にふれることはなかったが、唇の両端はゆがんでいた。

「来たわ!」急にスザンナが叫んだ。「早く!」

バートラム・ナイト氏は姪とその友だちに心からの笑顔で挨拶をし、目と鼻の先で誘う混雑した店に、ご一緒してくださいませんこと、という申し出を喜んで承諾した。厚い板ガラスのドアを押して開けると、三人は買い物客や冷やかし客でごった返す中に、勇猛果敢に飛び込んでいった。

「いつもここはこんなに混んでいるのかね?」バートラムはエリナーに尋ねた。

「だいたいこんな感じですね。いまちょうどオータム・セールをやっているところなんです」

 スザンナは伯父を目的の聖地、毛皮売り場への水先案内で気が気ではなく、少し先を歩きながら、ふたりがほんの一瞬、どこかのカウンターに引かれでもすると、初めて飛び立つ雛鳥をはげます親鳥さながらに、たいそう神経質になりながら、何度となく戻ってくるのだった。

「来週の水曜日はスザンナのお誕生日なんですよ」エリナーは、スザンナがまたはるか先に行ったところでバートラム・ナイト氏にそっと言った。「わたしの誕生日はその前の日なんです。だからわたしたち、お互いにやりとりするプレゼントを探してるんです」

「なるほど」バートラムは言った。「なら、わたしにもそのことで助言してもらいたいものですな。わたしもスザンナに何か贈りたいと思ってはいるんだが、いったい何がほしいのか皆目見当がつかない」

「スザンナはちょっとむずかしいんです」エリナーは言った。「あの子、たいていの人が思いつくようなものなら、何だって持ってるんだから。ラッキーな子なんだわ。だから扇子なんかいいんじゃないかしら。この冬、ダーヴォスに行くから、ダンスに行く機会もずいぶんあるでしょうしね。そうだわ、扇子だったら一番うれしいんじゃないでしょうか。お誕生日のあとで、わたしたちお互いがもらったプレゼントを見せっこするんですけど、わたし、いつもすごく肩身が狭いんです。彼女がすごくステキなものをたくさんもらってるのに、わたしの方は見せられるほどの値打ちがあるようなものはひとつもないんですもの。わたしの身内でプレゼントをくれるような人はだれもそんなに余裕がある人はいないから、わたしもその日を忘れないでくれて、ちょっとしたものを贈ってくれる以上のことは望んでないんです。それが二年前に、母方の伯父が、ちょっとした遺産を相続したんですね、だからわたしにシルバー・フォックスのストールをお誕生日に贈ってあげよう、って約束してくれたことがあったんです。だからもうわたし、それがうれしくて、楽しみで、仲がいい子にも、嫌いな連中にもみせびらかしてやろうって。それがちょうどそのとき、伯父の奥さんが亡くなったんです。もちろんそんなときに気の毒な伯父に、わたしのお誕生日プレゼントなんてお願いできませんよね。そうして伯父はそれっきり外国に行って、そちらで暮らすようになったんです。結局わたしは毛皮なんてないまま。ですからね、わたし、その日以来、シルバー・フォックスの毛皮をショー・ウィンドウで見かけたり、だれかが首に巻いているのを見たりするたびに、涙が出ちゃうんです。自分のものになるんだ、なんて思ったりしなかったら、そんなふうに感じることもなかったんでしょうにね。あら、あっちに扇子のカウンターがありますわ、左の方です。このぐらいの混雑だったら、だいじょうぶ、簡単に入っていけます。スザンナには一番いいのを選んであげてくださいね――あの子、すごく、すごーく優しい子だから」

「ああ、ここにいたのね、わたし、あなたたちとはぐれたと思ってた」スザンナが道をふさぐ買い物客をかき分けながらやってきた。「伯父さんはどこ?」

「もうずいぶん前にはぐれちゃったわ。わたしはてっきり、先に行って、あなたと一緒にいるとばかり思ってた」エリナーは言った。「この人じゃ、バートラムさんを見つけることなんてできないでしょうね」

 そうして、その予想は現実のものとなったのだった。

「わたしたちの苦労も計画も水の泡ね」スザンナはぶすっとした顔で言った。人を押しのけながら、売り場を六ヶ所ほども回ってみたのだが、何の成果もなかったのである。

「どうして腕をしっかりつかまえておいてくれなかったの」スザンナが言った。

「それは前からよく知ってる人だったらそうしてたわ。だけど、紹介されたばっかりじゃない。あら、そろそろ四時になるわよ。お茶でも飲みに行きましょうよ」


 数日後、スザンナはエリナーに電話した。

「写真立てをどうもありがとう。ああいうのがほしかったの。うれしかったわ。ところでね、あのナイトとかいう人、何をくれたと思う? あなたが言うとおりよ――しけた扇子。え? ええ、そうよ、扇子としてはいいものだったわよ、でもね……」

「あの人がわたしにくれたものも見に来て」エリナーの声が聞こえてきた。

「あなたに? なんであなたがもらうわけ?」

「あなたの親戚ってお金持ちにしては変わった人ね。とびきりのプレゼントを人にあげるのが趣味なのかしら」というのがその返事だった。

「どうしてエリナーの住所をあんなに知りたがったか不思議だったんだけど」電話を切ったスザンナは吐き捨てるように言った。

 ふたりの若い女性の友情に黒い雲がかかっていった。エリナーに関するかぎり、その雲はシルバー・フォックスが縁取っていたが。


The End