陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

とんび座りの記憶

2008-01-27 23:17:09 | weblog
昨日ちょっと書いた「とんび座り」についてもう少し。

わたしは「とんび座り」という呼び方を多田道太郎の『からだの日本文化』ではじめて知ったのだが、要は正座の状態から両足を曲げたまま外にずらし、腰をじかに床につける座り方である。
 とんび座り、またの名前を亀居ともいう。カメが両足を甲から出している格好に似ているからであろう。とんびはもちろん鳶である。鳶が枝にとまって、羽を広げている姿に似ているからだろうか。この命名の由来、自信がない。

 昔――といっても戦前のことである。畳の上では正座というのがきまりであった。特に食事時、特に女性は厳しくしつけられた。横座り、とんび座りは「だらしない」としかられた。……

 戦前の女の子は、友達同士笑い興じているときなど、初めの正座が崩れてだんだん足が出てくる。横座りの子もいたが、多くはとんび座りになった。ひざを合わせ、おしりをべったと畳につけ、足の裏をカメのように出す。

 子ども心に私はおさないエロティシズムを感じた。優美だと思った。なんとかまねて女の仲間入りをしたいと思い、やってはみたが足が痛くて辛抱しきれなかった。
(多田道太郎『からだの日本文化』潮出版社)

ここで多田道太郎は「足が痛くて辛抱しきれなかった」と書いているのだが、わたしの記憶では、小学生の頃、体育の時間に先生がやってみて、とクラスの全員にさせたことがあるのだ。男子がいたということは小学校の五年か六年ということになるのだが、男子の半分以上はふつうにできていたような気がする。残りの半分より少ない、三分の一ぐらいだろうか、ともかく男の子たちが、いたた……、とか、腰を浮かせたまま、これより下にはおろせない、とかと言っているのを、わたしたちはおもしろがって眺めていた。確かに女の子で「できない」と言っていた子はひとりもいなかったように思う。

ただ、わたしの頃は、畳で食事を取ることもまれだったし、自分の部屋は畳敷きではあったが、机と椅子があった。畳に座って本を読むときは、背中を壁にもたせかけ、足を投げ出して座っていたように思う。この「とんび座り」というか、わたしはこの座り方を特に呼ぶことはしなかったのだが(「お嫁さん座り」というのはいったいどこで、誰から聞いたのかまったく記憶にないのだが、変な言葉だなあ、と思ったことをはっきりと覚えている)、わたしにとって楽な座り方ではなかった。腰骨や大腿骨が痛むというようなことはなかったのだが、ともかくうまく腰が落ち着かない。正座をするとすぐに足が痺れるが、この座り方だってやはり足が痺れた。

たまによその家に行って、それも友だちの家とかではない、しかるべき家に出かけていって座敷に通され、「足を崩していいですよ」と言われても、横座りをすると、腰がねじれる感じが気持ちが悪い、とんび座りも落ち着かない。となると、いちばん楽なのは正座なのである。「お行儀の良いお嬢さんですね」と言われて気をよくしていたら、立ち上がったときに足の感覚がなくなって、そう言ってくれたそこの家の奥さんの肩に、思いっきり倒れ込んでしまったこともある。

この「とんび座り」に多田道太郎は小さい頃からえらくエロティシズムを感じていたようなのだが、このなかで本の中に高見順の『いやな感じ』にふれている箇所がある。
「大森あたりの水商売の女が、鏡の前にべたりと座り込むくだりが印象的だった。たしか、ハマグリの貝から舌が出るように、女のしりから足が出ている感覚描写だった、呼んで私はうなった。子どもの時の記憶がよみがえった。」とあるのだが、いまさっきざっと読み返してみても見つからない。かなり丁寧に見返してみたのだが、見つからないのだ。今度もういちど最初から読んでみよう。
ともかく、わたしはこの座りかたにはちっともエロティシズムを感じない。わたしの記憶に強烈に残っているこの座りかたをしていた子は、エロティシズムなんてものではなかったからである。

中学の修学旅行に行ったときのことだ。そのときの修学旅行は行く先々で、夕食はテーブルでの食事ではなく、学年全員が入れるほどの広い座敷に、一人ずつ足つきのお膳が出るものだった。わたしの隣の丸谷さん(仮名)は、非常に女性的な体型、というか、十五歳にして中年女性のような、もしくは土偶のような、きわめてどっしりとした腰つきのもちぬしだったのである。彼女がすわるだけで、ざぶとんはいっぱいになるほどだったのだが、その彼女がそうやって足を崩すのである。そうでなくても大きなお尻だったのに、そこからさらに足が出る。いくら広い座敷といっても、学年全員が詰め込まれているのだから、ざぶとんは隙間なくしきつめられている。必然的に、彼女のざぶとんからはみでた太い足は、わたしの座布団へと進出してくるのだった。当時わたしが彼女と並んで歩いていると、団子と串、あるいは鉛筆と消しゴムと称されていたのだが、その串もしくは鉛筆の方が感じる窮屈さというのは並大抵のものではなかった。ジャージに包まれた彼女のやわらかなふくらはぎが、正座しているわたしのそれにぎゅっと押しつけられ(というのも、彼女の足は、さらに領土拡張を図っていたのである)、なんともいえないその肉感的な感触に、食欲も失せる思いだったのである。

五泊六日の北陸旅行だったが、何よりはっきりと記憶に残っているのは、永平寺でも東尋坊でも兼六園でも黒部ダムでもなく、やたらに窮屈だった食事時間、毎回毎回押しつけられたふくらはぎの感触である。