陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

しゃがんだり座ったり

2008-01-26 23:30:15 | weblog
ひところ、駅の階段や電車のなか、コンビニの前などで、「地べた」にべたーっとすわるティーンエイジャーのことが話題になったことがある。「地べたりあん」などという、半ば揶揄するような呼称は、果たして普及したのかしなかったのか。
ともかく、一時期にくらべると、端で見ていると気になってたまらなくなるような、地面や床に直接すわりこむ人間の姿は、ずいぶん減ってきたように思う。

その前はコンビニの前で、ヤンキー(アメリカ人の意にあらず)と呼ばれる人々は、「ヤンキー座り」という独特な座り方をしていた。だが、このヤンキー座り、要は腰を地面にべたっとつけない、いわゆる「しゃがむ」姿勢だったように思う。なんでそれを「しゃがむ」と言わずに、わざわざ「ヤンキー座り」さらには「ウンコ座り」などという言い方もあったような気がするのだが、そういう言葉を使っていたのだろう。
だれかご存じだったら、教えてください。

ともかく、しゃがむ、という体勢は、ひと昔前の日本人なら人前で取っても、さほど恥ずかしい体勢ではなかったのである。

あれは弟が生まれるときのことだから、わたしがたぶん三歳だったときの記憶なのだが、祖母につれられてバス停でバスを待っていたのだ。ところがバスがなかなか来ない。すると祖母は腰をおろしてしゃがむ体勢になった。そうして、わたしにもそうしろと言ったのである。わたしは目の前を車や人が行ったり来たりするなかで、そんな体勢を取るのが恥ずかしく、しかもしゃがんでしまえば足首が痛くなり、すぐに立ち上がった。立ち上がって、上から見下ろす祖母の、白髪交じりの髪の毛が薄く、地肌が見えていたことをいまでもよく覚えている。
腰を地面につけて座って、汚い、やめなさい、と叱られたのは、同じときの記憶だったのだろうか。ともかく、腰を直接つけるのは汚い。だから腰を浮かせたまま、休むのである。

そういう体勢になっていると、わたしはずっと足首が痛くなると思っていたのだが、腰が痛くなるものであるらしい。
多田道太郎の『からだの日本文化』(潮出版社)には、鶴見俊輔の『生き方の流儀を求めて』から、「低いところにその本があったので、それをとってしゃがんでよみはじめ、読み終わったときには日がくれていた。トゥルゲネフの「ルーディン」という本で、そういう出会い方をする本は、もうこれからはないだろう。腰が痛くなるから」と引用されている。

これを読んで、確かに低いところにある本は、しゃがんだまま取り出し、そのまましばらく読み続ける、ということに気がついた。さすがに最後まで読んだりはしない。ほんの数ページめくって、もっと本格的に読みたいときには立ち上がる。めでたく「立ち読み」の体勢になって、そこから腰を落ち着けて(と、これはレトリック)読みはじめる。人生で少なからぬ本を、本屋で立ったまま読んできたわたしにとって、書棚の前に立って読むことは、なじみの動作なのである。足が疲れてきたら、重心を交互に移動させたりもするが、熱が入ったら、そうして時間さえ許せば、そのまま一冊読んでしまうこともある。しゃがんだままだと、足首に負担がかかって、一冊どころか十ページも読めない。
多田道太郎も書いている。「しゃがむと腰にこたえるのか。いや、しゃがむこと自体よりも、しゃがみつづけること。これがいけないのだ」

そんなふうに、かつては日本人にあたりまえだった「しゃがむ」という体勢が、やがて「ヤンキー座り」という特殊な呼び方をされるようになり、当時、そのヤンキーさえもが地面に腰をつけることには抵抗があったのに、のちの少年少女たちはその抵抗さえも乗り越えた。地面に直接腰を下ろすのは、禁忌でも何でもなくなったのである。

とはいえ、わたしはこれも学校教育のたまものであるような気がしてならない。
学校というところは、地面に腰をつけてすわらせるところなのである。それも「三角座り」(一部では「体育座り」とも呼ぶらしい)という座り方で。
その呼称は曲げた脚が三角形になるところから来たのだろう。以前、竹内敏晴が、あれは抵抗を封じる座らせ方、子供の呼吸を困難にするようなとんでもない姿勢を強いるものである、とどこかで書いていたのを読んだ記憶があるのだが、いったいいつから定着したのか、小学校ではまずこの座り方を教わるように思う。そうやって、体育館では床に、校庭では地面に、腰をつけて(たいていは体操服なのだが)べたっとすわるのである。

学校という空間だけならまだしも、京都駅の駅頭などでは、修学旅行の中学生たちが、一斉に床に直接腰を下ろして座っている。最初に見たときはぎょっとしたのだが、立っているとふらふら歩いていく子が出るかもしれない、中腰だと落ち着かない、そういうときに直接座らせるというのは、ごそごそしやすい子供を動かさない、という一点に限れば、効率がいいことなのかもしれなかった。

そういうことをやらされていれば、地面に直接すわることに抵抗が薄れてくるのも当然なのである。その証拠に、電車の床に腰を下ろしている人間の座る格好は、もちろん正座ではなく、かといってあぐらでもなく、例の三角座りから腕をとりはらったものだ。

いまではトイレも洋式がほとんどで、しゃがむ体勢でトイレを使うことができない子供も増えているらしい。だから小学校入学時には、和式トイレが使えるように、家庭で教えて置いてください、という通達があるらしい。
外に出てしゃがむどころではない。わたしたちの生活の中から「しゃがむ」ことがどんどんなくなってきているのだ。

その『からだの日本文化』のなかにはこうも出てくる。
「からだの技法の基礎はやはり訓練である。訓練なくては、座ることもままならないのだ。」

しゃがむ。正座する。正座を崩す座り方をする(この本には正座から両足をお尻の下からはずして横に出す座り方を「とんび座り」と書いてあるのだが、あれはどういう呼び方が一般的なのだろう。わたしはあれを「お嫁さん座り」と聞いたのだが)、あるいは、脚を崩す、あぐらをかく。
昔は時と場合、対座する人との関係に応じて、さまざまな座り方があった。
三角座りというのも、きわめてその関係から要請された座り方なのだろう。だが、ほかの座り方が、椅子が入ってきたことでどんどん機会が減ったのにくらべて、三角座りだけは、学校空間の中では、椅子のない時の唯一の座り方となっていったのだ。

この本の中には、どの体勢が、椎間板への内圧が一番少ないかが記されている。
 姿勢による椎間板の内圧の変化――
 寝ているとき、いちばん内圧が低いのは当然として、起きているときには、正座の姿勢がいちばん低く、平方センチ当たり、2.1キログラム。ところが、あぐらをかくと、5.1から5.8キログラムにおよぶという。……

 いすに座った姿勢では、2.3キログラム、立った姿勢では2.1キログラム、はるかに楽なのである。

正座の訓練をするべきなのかもしれない。
いまのところ、わたしは十分が限界です。