陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「座る」ことを考える

2008-01-29 22:34:17 | weblog
さて、もう少し「座る」話を続ける。

「座る」と言っておいていきなり「立つ」話から始めるのだが、近所に立ち話の好きな人がいる。わたしもつかまらないよう、つねづね警戒を怠らないようにしているのだが、たいていわたしが通りかかったときは、獲物? を捕獲したあとで、すでに立ち話に余念のない状態である。

買い物に行くときに、こんにちは、と、話の邪魔にならないように、頭だけ下げて、横を通りすぎる。そうやってしばらく歩いてスーパーに着き、そこで買い物をすませて戻ってくる。たいてい行くときと同じ場所でそのふたりは立ったまま話を続けている。

こんなこともある。朝、洗濯物を干す。ベランダからひょいと下をのぞくと、その人がまたちがう誰かと話している。洗濯物を干し終わり、ざざざっと部屋の掃除をすませ(四角い部屋を丸く掃く、のではなく、四角い部屋の空いた場所だけ、丸く掃除機をかける)、ゴミを集めて、さあ、遅くなったと身支度をすませて下へ降りていくと、やっぱり同じ場所で立ち話は続いている。

さらには休みの日、図書館に行く。自転車置き場付近で立ち話をしているその人に挨拶し(「どこ行くん?」「ちょっとそこまで」「わたしもはよ行かなあかんねん」)、図書館へ行き、本を選び、ついでに銀行へ行き郵便局へ行き、買い物までして戻ってくる。すると「はよ行かなあかんねん」と言っていた人は、まだそこにいて、戻ってきたわたしの顔を見て「あら、うっかり話しこんでしもたわ」とあわてて出かけていったこともある。

いまの時期、外で立ち話は寒かろう。現に、その人も相手の人も肩をすぼめ、自分の体に自分の腕を巻きつけて、足踏みしながら話している。寒さで白っぽい顔色にさえなっているのだ。

なんで外で立ち話なんだろう、と思うのだが、わざわざ相手を家へ呼んで、腰を落ち着けてじっくりする話などではないのだろう。

立ち話をするのは日本人ばかりではないらしい。『からだの日本文化』にはこんな箇所がある。
 スペインの港町バルセロナにランブラスという繁華街がある。大通りの真ん中に緑の安全地帯があり、花屋とか新聞のキオスクとかが点在している。このあたりで、人がたむろして立ち話をしている。私が大通りに臨むホテルの窓から観察していると、夜中の二時、三時になっても、人は立ち話をやめない。なかには、数時間ぶっとうしで、ふたり、しゃべっていた中年婦人もいた。
 見ている方も根気のいることであったが、結論――この人たちは立っているのが好きなのだなあ。
(多田道太郎『からだの日本文化』潮出版社)
ヨーロッパ人が立っているのが好きかどうかは知らないのだが、立ち話はおそらく立っていなくては成立しない話なのである。立ち話は座談には昇格しない。そしてまた、昇格しないからこそ、一方でそろそろ終わらなければ、と思いながら、いつまでもずるずると続いていくのだろう。ちょうど、試験の前になるとマンガの本が読みたくなるように。そろそろ終わって勉強しなくては、と思いながら、長編マンガのコミックスを一巻から読み直しはじめ、あと一巻、あと一巻と思いながらだらだらと読み続けるように。

腰を落ち着ける、という言い方があるように、座ることは「座ってじっくり取り組むこと」でもある。
小学校での学級崩壊というのは、高学年と低学年ではその性格がちがうという。高学年の学級崩壊が、担任に対する反抗という性格であるのに対し、低学年、とくに学校に入学して間のない一年生あたりでは、四十五分間、席について人の話を聞く、ということができないことから来るものらしい。先生が話していても、そういう子供たちは、平気で席を立って教室のなかをうろうろする。そういう子が何人も出てくれば、確かに授業は成立しないだろう。

彼らも、遊びたいとか、友だちと話がしたいとかの目的があって教室のなかをうろうろしているわけではないだろう。ただ一定の時間、座るということができないのだ。うろうろするような子供が相手では、話を聞かせることができないばかりか、ノートに字を書かせることも、何かをさせることもできない。椅子に座らないというだけで、学校ですることのほとんどは不可能なのである。

そういう子は学校という空間でなければ、座ることができるのだろうか。家でなら、四十五分、座って親の話を聞いたり、本を読んだり、絵を描いたり、粘土で遊んだりすることができるのだろうか。TVやビデオなら座って見ることができるのだろうか。
先生の言うことも聞かず、目的もないまま、まるでブラウン運動をしている花粉のように、教室をうろうろとしている子供のことを思うと、あらためて多田道太郎のこのことばが思い出される。

「からだの技法の基礎はやはり訓練である。訓練なくては、座ることもままならないのだ。」

こう考えていくと、このブラウン運動の対極にあるのが、禅の言葉の「只管打坐」のように思えてくる。あまり知りもしないことを言うのは気が引けるのだが、この言葉は「ただひたすら坐る」ということであるとわたしは理解している。もちろんこのときの「坐る」は「坐禅」ということだが、この「坐禅」の宗教的意味は別として、腰を落ち着けて集中して、自分の中のいらないものをどんどん取り払っていくプロセスなのではないかと思うのだ。つまり、もっとも純粋な、夾雑物のない「座る」がここにはあるように思う。


長時間座って仕事をしたことがある人なら誰でも知っていると思うが、立つことにくらべて、座るという姿勢は必ずしも楽なことではない。だが、立つという状態が、すみやかにつぎの動作に移ることができる体勢であるのにくらべて、座っている状態では、つぎの行動に移るのはむずかしい。何かひとつのことに集中することと、座ることのあいだには、あきらかに関係があるように思われる。

多田道太郎の『しぐさの日本文化』には、座ることがこのように考察されている。
 落ち着く、ということだけで、坐の意味を考えるのはまちがっている。坐は、臥と立の中間にある姿勢である。臥にくらべれば坐はより生命的、根元的である。臥にくらべれば坐はより社会的であり、立にくらべればより生命的、根元的である。栄久庵憲司氏は「臥・歩・坐」をそれぞれ生命的根源、動物的根源、人間的根源の姿勢と呼んだ。私はこれを少しずらして考えたい。臥が生命的根源であるという拙には異論がない。…ただし、「歩」あるいは「立」は、動物的というよりはむしろ社会的姿勢なのだと私は考えたい。社会という集団組織を組むための姿勢である。「坐」は、人間的というより、むしろ待機の姿勢である。社会と生命の根源のあいだにあって、待つ姿勢である。
(多田道太郎『しぐさの日本文化』筑摩書房)
この「待つ姿勢」という指摘は非常に興味深い。
この角度から、もう少し座ることを考えてみたい。