陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

女性転落小説である『或る女』

2008-01-17 22:18:57 | 
文学作品の中には、「女性転落小説」というジャンルがある、というのはウソで、わたしが昔から密かに名付けてそう分類している。
転落というと、椅子から転げ落ちでもしたのかという感じだが、「女性転落小説」はそうではない。

・地位も資産もある、美しく魅力的な若い女性が
・徐々に転落していき
・最終的に死ぬことで作品が終わる
というものである。

具体的に作品でいうと、フローベールの『ボヴァリー夫人』、トルストイの『アンナ・カレーニナ』、イーディス・ウォートンの『歓楽の家』、そうして有島武郎の『或る女』が該当する。ケイト・ショパンの『目覚め』は「徐々に転落していき」という部分があっけないので入れなかったが、まあこれも入れても良いかもしれない。

この「転落」の中身は、小説のなかで具体的に現れる事件としては、婚外恋愛だったり(ボヴァリー夫人、アンナ・カレーニナ)、社会的に釣り合った結婚ができなかったり(リリー・バート)、派手な恋愛沙汰だったり(早月葉子)する。

このように、中心的な出来事が恋愛がらみなので、一見したところ、破綻した恋愛小説のように見えるかもしれない。だが、夫のもとを去るアンナが「あたしだって愛さなくちゃならないし、生きなくちゃならないんだわ」と言ったことに代表されるように、夫や親、家の束縛を受けずに自立して生きようとする主人公たちの行動は、未だ彼女たちは職業に就くことができないために、恋愛として焦点化するしかないのである。

夫や家、親族、あるいは従来の道徳や社会規範が彼女たちの前に立ちふさがる。現れとしては恋愛の障害なのだが、そうしたものがうち砕こうとしているのは、彼女たちの自立心である。だがそれに抵抗し、あくまでも従おうとしない彼女たちを、今度は共同体の側が弾き出していく。

共同体から弾き出されることで、彼女たちの心身は不調に陥り、やがて病気になる。しかも経済的に困窮する。
そうして彼女たちは悲惨でボロボロになった状態で死んでいくのである。

読後、わたしたちは非常に理不尽な思いに襲われる。
確かにわがままなところがあったかもしれない。自分勝手だったかもしれない。だが、頭も良く(ボヴァリー夫人はそれほど良さそうではないが)、魅力的で、美しく誇り高かった彼女たちが、いったいどうしてそういう末路をたどらなくてはならなくなったのか。

さて、こういう概略を頭に入れて、明日はもう少し『或る女』を見てみよう。
長い小説で、さすがにこの長さの作品をWebで読むのはつらいので、青空文庫にありますが、できれば本で読んでみてください。おもしろいよ。

(この項つづく)