陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

噂と宗教

2008-01-25 23:38:08 | weblog
(※タイトルのわりにたいした話ではありません。)

キッチュ、とわたしの頭の中にはインプットされているので松尾貴史と書くとイマイチしっくり来ないのだが、そのキッチュ、というか松尾貴史の『業界用語のウソ知識』の「宗教」という項目には、こう説明書きがしてある。
【宗教】
芸能人が関わったときのみ、犯罪のように扱われてしまう活動、または団体。「カツラ・植毛」「ホモ・レズ」に並んで、本人のいないところでは、大いに噂される題材の一つ。
(松尾貴史『業界用語のウソ知識』小学館文庫)

芸能人ばかりではない。一般人であっても、一昨日も書いたような、いわゆる「ここだけの話」としてヒソヒソと取りざたされる話、「役にはまったく立たないのだが、秘密という価値だけがある話」の内容は、宗教、「カツラ・植毛」「異性関係」(同性関係というのは、ちまたではそんなにあちこちに転がっている話ではないので、噂されるのはこちらのほうだ)の三つが大きな柱と言えるかもしれない。

それも、あの人は熱心なクリスチャンで、毎週日曜日になると教会に通っているとか、DSで般若心経を写経しているというたぐいの宗教ではない。いわゆる「新興宗教」というやつである。新興宗教の信者という「情報」はなぜか価値のある情報として、声を一段落として「だってあの人は××だもの」「ええっ、そうなの?」となって、わたしたちのあいだをかけめぐる。

わたしたちはどこで線引きしているのだろう。
ある種の「信者」は別に秘密でもなんでもなく、別の「信者」は秘密になってしまう。
秘密にはならない方の信者に対しては、いまのような時代に信仰を持っている人として、どちらかといえば尊敬の念を抱くのに対し、声を潜めて噂する信者に対しては、キッチュの定義ではないが、「犯罪のように扱」ってしまうのである。

確かにそういう人からは、新聞を取ってください、と頼まれたり、今度選挙があるのでよろしく、と言われたりすることはあるし、その手の勧誘も度重なると、わずらわしいものではある。だがそれも近所づきあいの一環として割り切って「ああ、新聞、読まないんですよ」としらじらしく答えたり、「ああ、選挙ですね、はい、わかりました」とまったく心にもない返事をしておけば、大きな被害があるわけではない。

一方の新興がつかない方の信者に対しては、いまのような時代に信仰を持っている人として尊敬の念を抱く。
その信仰している中身の方を知らないことにかけては一緒なのである。
だが、一方は、よくわからないけれど、なんとなく良いもの、他方はよくわからないけれど、なんとなく怖いもの、悪いもの、とわたしたちはとらえている。
考えてみればこの線引きも、奇妙な話ではある。


その昔、大学の合格発表を見に行ったときのこと。
掲示板に自分の番号を確認して、とりあえず一箇所だけでも行き場はできたわけだ、と思いながら帰ろうとしたら、化粧っ気のない、地味な格好のお姉さんに「合格おめでとうございます」と声をかけられた。何でわかったんだろう、と思って立ち止まると、そのお姉さんは、学部はどこですか、とか、どこからいらっしゃったんですか、とかと当たり障りのないことを聞いてくる。この人は何でこんなことを話すんだろう、と思ったら、いきなり「幸福ってどういうことだと思います?」と聞かれた。何と答えたか、まったく記憶にないのだが、知りもしない相手にそんなことをいきなり聞くような人間がまともなはずはない、これは何かの勧誘にちがいないと気がついて、とっとと逃げ出したのである。

以来、めでたく大学生になってから、その手の勧誘には何度も遭遇したが、少しのあいだだけでもまともに相手をしたのは、その最初の一度だけ。あとはクリップボードやリーフレットを持って立っている人間を遠くからみるだけで、視線をそらし、話しかけられても足をゆるめることもなく、とっとと行き過ぎたものだった。

もちろんそういういくつかの団体による勧誘には注意するよう、大学の側からの通達もあった。だが、そういうものは、本来、向こうから接触してきたときに注意すればいいだけの話ではないのだろうか。
とくにそういうことをされたわけでもないのに、たまたま信者であることを知っている身近な人のことを「あの人は××なんだってよ」などと噂として広めるのは、なんだか変な話のように思ってしまう。
つきあいたくないならつきあわなければいい。
だがそういうことと、「本人のいないところでは、大いに噂」することは、いささかちがうことのような気がするのだ。
少なくとも、その人が何を信じようが、その人の勝手なのだから。

以前、医院をさがして、いくつか検索して、比較的近くで良さそうなところがあった。そこで電話をかけて症状を話したら、そのときの対応も大変感じのいいもので、住所を確かめてそこへ向かったのである。入ってみて、いきなり某新興宗教の本が受付の横に並んでいたのだ。わたしは一瞬、そのまま帰ろうかと思った。

それでもお医者さんと症状の話をし、治療を受け、それがわたしにとってはたいそう良いものと感じられた。だからわたしはそこをかかりつけにしたのだ。

もちろん、わたしのなかに、やっぱりそうした宗教に対する違和感はあるし、その一部はもしかしたら偏見と呼ばれるようなもの、差別意識と呼ばれるようなものも絶対に含まれていると思う。それでも、そうした気持ちをもちながらも、一方で、これまで受けてきた治療から、患者として、その人をお医者さんを信頼している。そうして、そんな関わり方はわたしは間違っているようには思えないのだ。
たとえば勧誘されるとか、何かの講読を勧められるとか、それで具体的な問題が起これば、それはそのときまた考えればいいと思っている。

偏見とか、差別意識とか、そういうものを自分の中からなくすのは、ほんとうのところは不可能なんじゃないか、と思ってしまう。ある種のものをいやだと思う気持ち、知らないことを遠ざけようとする気持ち、自分の好みに合わないものを排除しようとする気持ち。
かえって偏見も差別意識もない、と言い切っている人の方が、なんだかうさんくさいような気もする。
それでも、そういう気持ちを持ちながらも、一方で、それをできるだけ行為に出さないような方法は可能なのではないかと思うのだ。
それはたぶん「こうすべき」というやり方ではなく、相手との関係でそのたびごとに決まってくるような、個別具体的なものなんじゃないんだろうか。

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