陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「座る」ことをさらに考える

2008-01-30 22:54:48 | weblog
「居ても立ってもいられない」という言い回しがあるが、この「居る」は「座る」という意味である。気ぜわしくて、心が座ろうが立とうがどうにも落ち着かない、という意味である。つまり、「居る」というのは、本来、座るという意味だったのである。

昔の人はどんなふうに座っていたのだろうか。
柳田国男の『明治大正史 世相篇』にはこうある。
本当の貴賓ならば正座の人はみな平坐であり、これに対する者はみな跪坐であった。日本では両膝を合わせて下に突き、足は指先のみを揃え付けているのが、長者の前に侍する者の常の作法であった。すなわち御用とあらばすぐに立てるという形なのである。この形は受ける側にも、いくぶんか気ぜわしなく感ぜられるゆえに、女性だけにはいま少し打ちくつろいだ現在のような坐り方があったが、男が主客ともに前面は膝まずき、後は指を伸ばして足の甲を下に附けるようになったのは、全くこの款待の拡張からであった。すなわち客もあぐらをかくに忍びず、亭主もかしこまっているにも及ばぬというほどの交際が、最も発達した結果と言ってよいのである。こういう坐り方には板敷はことに不便であったろう。とにかくに客間は座敷ともいうほどで、はやくからこの座の畳が敷きつめてあった。しかもその他の部分も、廊下・勝手以外は、ことごとく畳を敷くべきものと思うようになったのは明治である。いわば畳のもと敷物であったことを、忘れていこうとする過程である。
(柳田国男の『明治大正史 世相篇』中公クラシックス)
文中の「正座」は「せいざ」ではなく「しょうざ」、正客がすわる正面の席のこと。そのお客様の席に通される人は、平坐、つまりあぐらだったのである。この貴賓に対して礼を取る側は、拝跪の姿勢を取っていた。昨日見た「待つ姿勢」というのは、「御用とあらばすぐに立てる」という待機の姿勢だったのだ。そこからやがて正坐が生まれていく。あぐらと跪坐が双方から歩み寄り、結果、ともに正坐になる、というプロセスであったというのである。あぐらはリラックス、跪坐は待機の姿勢、その中間である正坐は、敬意を抱きつつ、同時に落ち着く、という姿勢ということになるだろうか。

ところで、椅子の生活が多くなった現代でも正坐をしている人というと、思いつくのがお茶やお花の先生、お坊さん、そうして棋士である。TVでやっている将棋番組などでも、たいてい棋士は正坐をしている。その棋士である先崎学八段は正坐とあぐらについて、こんなふうに書いている。
 対局中は正座か胡座でというのが不文律である。非礼でもあるので、怪我でもしない限り他の姿勢をとる棋士はいない。割合を見ると、朝は九対一で正座の勝ち。昼過ぎから夕方は半分半分。夜は七対三でやはり正座の勝ちといったところだろうか。要するに、気合いを入れて、気を抜いて、そしてまた集中するのである。
(先崎学『浮いたり沈んだり』文藝春秋社)
さらに別のところで。加藤一二三九段が長考に入ったときのこと。
 加藤九段は胡座のうちは絶対に着手しない。指す時は常に正座である。だから、正座になられる度に、よしと気を込める。が、また座り直されてガクッとなる。
棋士が気合いを入れたり、集中したりするには、正坐という姿勢が必要ということなのだろうか。
 跪座でもアグラでもなく、正座がそれこそ正常な姿勢として定着したのは、一つには、足を折りたたんでおく、という点にあったのではないか。話が少しとぶようだが、武家の座敷はすべての道具、日用品がとり片づけられているのが良しとされる。いわば「無」である。この「無」はじつは待機の姿勢であって、いったん緩急あるときは、納戸、なげしから必要なものが即座にでてくる。余計なものは一切置いてない。ちり一つとどめぬ座敷を良しとするのは、無用の物を片づけておく待機の姿勢を良し、美しとするからである。
 足は歩行には必要だが、座談には不必要である。これを腰の下に「片づけておく」姿勢が、やはり待機の美学、待機のモラルにかなったのではなかろうか。アグラのほうが楽なことは言うまでもないが、アグラでは無用のものを放りだしたようなみっともなさがある。
(多田道太郎『しぐさの日本文化』筑摩書房)

こう考えると棋士が正坐を基本的な姿勢としているのもうなずける。「待つ」姿勢。相手のつぎの一手を待ち、自分の指すべき一手を待つ。つまり、この姿勢は、相手の存在を前提とする姿勢でもある。

こう考えると、もうひとつ、あぐらと正坐のちがいがあるような気がするのだ。
あぐらは背中が丸まる。正坐は背筋がのびる。人と話そうとするとき、まず何よりも声を出さなくては成らない。声を出すとき、体の深いところから声を出そうとするとき、背筋はしっかりと伸びていなければ、声が相手に向かっていかない。相手と話すという面からも、正坐は理にかなう坐り方のように思える。

いまのわたしたちは、椅子での生活の方が圧倒的に多くなってきて、足を「片づけておく」こともしなくなった。その結果、やはり集中とか、力を込めるとか、そういうレベルでも変わってきているように思うのだ。
正坐を復活させようとまでは言わないけれど、椅子に座るにしても、もう少し「座る」ことそのものを意識しても良いような気がする。おそらく、そのことを意識するだけで、わたしたちの同席する人への対し方も、仕事の仕方も、少し、変わっていくような気がするのだ。

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