陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「がんばれ」の代わりに

2008-01-24 23:21:28 | weblog
ひところはだれもが挨拶代わりに「がんばって」だの「がんばれ」だのと言っていたような気がするのだが、近頃ではめっきり耳にすることも少なくなった。

そのころ、相手が受験生だったりすると、「それじゃがんばって」という言葉にも切実さがこもったのだろうが、それ以外の相手であっても、特に具体的に何かをがんばってほしい、という願いをこめるようなことは全然なく、まあいろいろあるけどがんばってね、ぐらいの軽い調子で使っていたように思う。

「がんばってください、って英語ではどういうの?」と聞かれることも多かった。当時は映画スターにファンレターを書く子も周囲には少なくなかったのだ。いまの子はどうしているのだろう? 個人サイトを持っている人だったら、そこ宛にメールが出せるようになっているのだろうか。ともかく、わたしはたいてい「アメリカ人やイギリス人ってがんばらないからがんばれ、っていう言葉はないんだよ」と答えていたのだが。

当時知っていた外国人のなかには、この「がんばって」というのは、日本人特有の心的傾向をあらわした言葉である、と言っている人もいた。
彼はつねづね、現代日本はファシズムの段階は脱したが、未だ民主主義は定着していない段階である、というのが持論で、この「がんばって」という激励も、あきらかに上下関係に基づくものである、と言うのだった。

つまり、「がんばれ」とは、かならず目上の人間から目下の人間に向けて言われる。目上の人間が、その力関係を確認する(相手にも確認させる)ために、「がんばれ」と言うのである、と言っていたのだ。
Good Luck! にしても、God bless you! にしても、「がんばって」と同じように、もはや慣用表現となってしまって、誰もその意味を深く考えたりはしないが、それでも根本にある「相手に祝福を贈る」という性格だけはまだ残っている。だが、「がんばって」の根本にあるのは、相手に「励め」「努力せよ」と命じる言葉であるから、はっきりと上下関係があるのだ、と言うのだった。

日本がファシズムの段階を脱し、民主主義の途上にある、という見解は、なんだかおかしいぞ、そのうち丸山真男でも読んで論破してやろう、と思っていたのだが、丸山真男を読まないうちに、その人とも会うことはなくなってしまった。だが「がんばれ」が命令形で、そこに上下関係がこめられている、という指摘は、なるほど、と感心したのでいまでもよく覚えている。

わたしたちの周囲からこの言葉がいつのまにか消えていったのは、いくつか理由があるのだろうが、そのひとつには、「鬱の人にはこの言葉は禁句だ」ということが定着したこともあるだろう。

いったい誰が、どういう状況の下で、どのような言い方で言うかによってものすごく印象も変わってくるように思えるこの言葉が「禁句」と言えるほど、いかなる場合でも不適切なのかどうかは知らない。
ただ、そういわれることも、なんとなくわかるような気もする。


以前「バイバイ」と人から言われると泣き出す、という子がいた。一歳前ぐらいではなかったかと思う。とにかく、「バイバイ」というと、その人はいなくなってしまう。だから、その子は寂しくなって、泣き出してしまうのだ。
「だからウチの子にバイバイは禁句なの」と、お母さんは苦笑しながらそう言っていたが、そのぐらいでも因果関係という考え方はするのだなあ、と思ったものだった。

また別の子で、もう少し大きい、四歳ぐらいの子だったが、その子の家に行って、一緒に遊んでやって、帰り際に片づけようとすると、その子のお母さんが大慌てで「片づけなくていいの」と言う。お客さんが片づけ始めると寂しくなって、その子は泣いて暴れるのだそうだ。お客さんだって帰らなくてはならない、ということは理解していても、帰る態勢に入っていくのを見るのがつらいらしい。だから、いきなり帰ってくれ、と頼まれたのだった。

自分の前から人がいなくなろうとするのを見るのがつらい、寂しい、という気持ちはよくわかる。さすがにわたしたちは、それで泣いたり暴れたりはしないし、一緒に楽しいひとときを過ごして、名残惜しい、寂しいという気持ちはあっても、いまはお互い気持ちよく別れ、またつぎに会うときを楽しみにする、というふうに気持ちを持っていこうとする。

ただ、そんなふうに気持ちのコントロールがうまくいくときばかりではない。特に、精神的に参っていたりすると、やはり人がいなくなるつらさをうまく処理できないこともある。

そんなとき、「じゃ、がんばって」と言われると、「あとはあなたひとりでやりなさい」と突き放されたように思うのかもしれない。
それまで親身になって自分の話を聞いてくれていた人が、てのひらを返したように「じゃ、がんばって」。これは精神状態によっては、かなりきついことかもしれない。

そうして、逆に、それまでしんどい話を聞かされた側も、どこかで「やれやれ、これでこの話から解放される」と思ってしまうかもしれないのだ。何にせよ、他人のしんどい話を聞かされる側もやはりしんどいものだ。しんどい気分は伝播するし、聞く方も、どうしても巻き込まれてしまう。そういうとき、どれだけ親身になって聞いてあげていた人でも、どこかでそこから離れられることを喜んでしまっても、それはだれにも責められないように思う。そういうとき、つきはなす気持ちはなくても、ごく軽い調子で「じゃ、がんばって」と言ったとしたら、相手には、意図以上のショックを与えることになるのかもしれない。

いまでは「がんばって」の代わりに、どう言うのが一般的なのかどうかはよくわからないのだが、やはり別れ際には「これが最後じゃないんだよ、いまは離れるかもしれないけど、また会えるんだよ」というニュアンスをどこかで残したいものだ。また会える→それまでお互い、元気でいようね、ということが、祝福を贈ることにもなるのではあるまいか。

だから、別れ際には、わたしはこんなふうに言うことにしている。ささやかな祝福を感じ取ってください。

じゃ、また。

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (imai)
2008-01-25 22:34:09
"頑張れ"と声をかけなくなったのは,能動的には鬱の方のことを意識しているから,それは事実でしょう.しかし,あらゆる挨拶をする機会が減っているような気がします.これは感覚的なもので,自分の周りのことしか分からないので,10年前にくらべて何%,というようなことは言えませんので,事実ではないかもしれません.それを断った上で,この仮定が事実だとしましょう.そして今,"現代日本はファシズムは脱したが未だ民主主義は定着していない段階"説を前にして.これは,そのままでは受け入れられないけれど,"民主主義"を"個人主義"に置き換え,ここ15年ほどの日本の変化を加味すると,"現代日本ではファシズムは脱したが,未だ個人主義は十分には定着していない"とします.ここには"民主主義"を生み出してきた国々では,それを獲得する課程で"個人の権利"を獲得する戦いが実際に存在したこと,日本では"民主主義"がそれらの課程を経て洗練された段階で輸入されたために,本来含意されている"個人主義"から切り離され,形式的な政治システムのみを吸収し,共同体の運営には別の力学が存在し続けた.という思考過程があります.さて,これと近年の"頑張れ"等の挨拶の機会の減少,対人関係の希薄化を合わせ見ると,新しい"個人主義"の獲得の過程なのではないかと見ることができそうです.欧米式(この言葉はあまり使いたくはないのですが)の,主張し合う"闘う個人主義"とは違う,あらかじめ衝突をさける"穏和な個人主義".共同体を運営する力学として,これは有効な手段なのかという点は,まだ答えがでていない.
これ,誰かがもう言ってそうですねー.
返信する
本を読もう (陰陽師)
2008-01-26 10:03:57
imaiさん、おはようございます。

> これ,誰かがもう言ってそうですねー.

わたしもいつも、これ、思ってます(笑)。
だけど、同じ時代を生き、同じ空気を吸い、同じ言葉を使ってるんだから、大きくくくれば同じことを考えているにちがいない。自分の言葉なんてすべて誰かの言葉の引用と寄せ集めでできているんだから。
だから、たとえ誰か言ってる人がいたとしても、ま、いいや、と思うことにしてます(笑)。

そのうえで、おもしろいコメント、ありがとうございました。

> あらゆる挨拶をする機会が減っているような気がします.

これはわたしも実感します。
いま一番日本人で挨拶するのは小学生じゃないでしょうか。
おそらくそれは学校教育のたまものなんでしょうが、近所に住んでいる小学生は、単に顔見知り程度のわたしであっても「おはよーございまーす」と元気に挨拶してくれます。

ところが、このあいだまで元気に挨拶していた子が中学生になって、ぶすっとした顔を背けるようになる。これはいいんです。あの年頃というのは、挨拶すること自体、というか、人のなかで生きていること自体が苦痛でたまらないんだから(わたしにも経験があります)。

そうではなくて、中高年と呼ばれる世代の人でも、エレベーターやゴミ捨て場などで何度か顔を会わせていて、同じ集合住宅に住んでいることを知っている相手に対しても、知らん顔をする、目礼されてもそもそもそちらに目を遣らないのだから気がつかない、みたいなことを日常よく経験します。


> "現代日本ではファシズムは脱したが,未だ個人主義は十分には定着していない"とします.

>ここには"民主主義"を生み出してきた国々では,それを獲得する課程で"個人の権利"を獲得する戦いが実際に存在したこと,日本では"民主主義"がそれらの課程を経て洗練された段階で輸入されたために,本来含意されている"個人主義"から切り離され,形式的な政治システムのみを吸収し,共同体の運営には別の力学が存在し続けた.という思考過程があります.

確かにこれはうなずけるご指摘です。

> さて,これと近年の"頑張れ"等の挨拶の機会の減少,対人関係の希薄化を合わせ見ると,新しい"個人主義"の獲得の過程なのではないかと見ることができそうです.

確かにいま求められている「個人主義」というのは、従来のそれ、西洋近代が目指した「個人」の確立というのとはまったくちがうものですよね。

> 主張し合う"闘う個人主義"とは違う,あらかじめ衝突をさける"穏和な個人主義".共同体を運営する力学

確かにそうしたものをわたしたちは模索しているのかもしれません。
わたしたちはそういう途上にある、という考えには、わたしも共感します。

そのうえでね。

imaiさんのコメントを拝見していて、ふと、夏目漱石の講演を思いだしたんです。
「道楽と人間」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/757_14957.html
というものです。

ここで漱石は、近代化していく社会の中で、職業は次第に細分化され、その結果、個人は孤独を余儀なくされていく、と言っています。

「言い換えると自分の商売がしだいに専門的に傾いてくる上に、生存競争のために、人一倍の仕事で済んだものが二倍三倍乃至(ないし)四倍とだんだん速力を早めておいつかなければならないから、その方だけに時間と根気を費しがちであると同時に、お隣りの事や一軒おいたお隣りの事が皆目(かいもく)分らなくなってしまうのであります。」

「現今のように各自の職業が細く深くなって知識や興味の面積が日に日に狭(せば)められて行くならば、吾人は表面上社会的共同生活を営んでいるとは申しながら、その実銘々(めいめい)孤立して山の中に立て籠(こも)っていると一般で、隣り合せに居(きょ)を卜(ぼく)していながら心は天涯(てんがい)にかけ離れて暮しているとでも評するよりほかに仕方がない有様に陥(おちい)って来ます。これでは相互を了解する知識も同情も起りようがなく、せっかくかたまって生きていても内部の生活はむしろバラバラで何の連鎖もない。」

もちろん職業の細分化ばかりがわたしたちの結びつきを弱めたわけではないだろう。
けれども「これでは相互を了解する知識も同情も起りようがなく、せっかくかたまって生きていても内部の生活はむしろバラバラで何の連鎖もない。」という指摘は、まさに今日のわたしたちの状況を言っているようにも思えます。

そのうえで、漱石はこんな処方箋を書くのです。

「元来文学上の書物は専門的の述作ではない、多く一般の人間に共通な点について批評なり叙述なり試みた者であるから、職業のいかんにかかわらず、階級のいかんにかかわらず赤裸々(せきらら)の人間を赤裸々に結びつけて、そうしてすべての他の墻壁(しょうへき)を打破する者でありますから、吾人が人間として相互に結びつくためには最も立派でまた最も弊の少ない機関だと思われるのです。」

文学を読め、と。
漱石自身、我田引水と言っていますが、でも、やっぱり文学というのはそうしたものなんじゃないか。
思想なら思想をダイレクトに考察する、政治や経済もそういう理論を理論として扱っていく、となると、やはりその専門のなかに孤立するしかない。

一方、文学は、というと、とある個人に起こった出来事をしか扱わないものです。にもかかわらず、多くの人を、時代を超えて感動させ、あるいは衝撃を与える。具体的なことがらなのに、普遍的なものを持っている。そういうのが文学だと。

何もないところから何かを生み出すわけではありません。
わたしたちはいつだって、すでにあるものをちょっとずつずらし、ちがった組み合わせをためしながら「新しいもの」を作ってきた。
だから、「新しい個人主義」の答えは、さまざまな文学作品を読んでいくなかから、見つかっていくんじゃないんでしょうか、なんて思うんですけどね。

これもずいぶんな我田引水かしら。

というわけで、わたしもこれからもしつこく文学のしっぽに食い下がりながら、やっていこうと思ってるんです。

おもしろい書きこみ、ありがとうございました。

昨日、こちらの最高気温は6度だったとかで、日中、日は照ったけれどほんとうに寒い一日でした。東北はさぞ寒いことでしょう。お元気でお過ごしくださいね。
返信する

コメントを投稿