陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

短編小説とはなんだろうか その3.

2005-05-23 22:39:53 | 
その3.モーパッサンとチェホフ

短編小説のなかには、巧妙な筋立てと、あっとおどろく結末を持っているものがある。すべてが最後の一瞬に向かって準備されているような作品である。わたしたちはその結末に心地よいショックを受け、おもしろいストーリーに満足し、作者にうまく驚かされたことを楽しむ。けれどもそんな物語の多くは、もう読み返すことはない。

そうではなくて、どんな話とも説明のしにくい、話したところで意味のない、ときにはその意味さえも十分に把握できない、そのくせ、ある場面の印象が脳裏に焼きついて離れない、そんな短編もある。わたしたちは、そんな短編とともに生きていく。読み直すこともあれば、読み直さないこともある。それでも汽車のなかで震えながら去っていくアンナ・セルゲーエヴナの姿(チェホフ『犬を連れた奥さん』)や、夏の夕暮れの日差しのなか、中庭の階段にすわってもの思いにふけるオリガ(同『かわいい女』)、あるいは、義足を盗まれて埃っぽい日差しのなか、途方に暮れて藁のにすわっているハルガの姿(フラナリー・オコナー『善良な田舎者』)の姿を忘れることはできない。どうかした瞬間、思いがけないときに、ふっと心をよぎる。

前者の作品群の代表のような作家が、フランスのモーパッサンである。
モーパッサンは三十歳から四十歳までの十年間に三百六十編あまりの短編を残した。

ただただ勲章をつけたい、という願いしかなかったサクルマン氏が、ついに勲章を手に入れたわけ(『勲章』)、やりくり上手で、ただ、イミテーションの宝石が好き、という悪癖をひとつだけ持つ妻が、肺炎で亡くなってみると、実はその宝石は全部本物だった、いったい彼女はどうしてそんなものを手に入れたのか(『宝石』)、あるいはまた、大臣官邸に招かれた小役人の妻が、金持ちの友だちに首飾りを借りて出席する、ところがうっかりその首飾りを紛失し、後半生はその首飾りを買い戻す借金に追われる、ところがその首飾りは……(『首飾り』)、こうした有名な短編のどれもが、くっきりした起承転結と、印象的なクライマックスを持つものである。

こうしたモーパッサンの作品は、多くの作家に影響を与えた。
なかでも、その最大の作家がサマセット・モームだろう。モーパッサンの強い影響を受けたモームは、後者の代表のような作家であり、以降の短編小説に決定的な影響を与えずにはいなかったチェホフのことを、このように批判する。

引用は筒井康隆『短編小説講義』(岩波新書)からの孫引き。原文の典拠は不明。

 自分が短編を書き出したころは、英米の作家たちはまるでチェホフ一辺倒であり、何ぴとにもあれ芸術的資質があって短編小説を書こうとするものは、絶対にチェホフ流に書かねばならぬとされていた。なるほどチェホフの短編は立派なものである。が、彼には彼の限度があり、彼チェホフは賢明にも自身のその限度を彼の芸術の基盤とした。たとえばモーパッサンの『首飾り』のように、食卓で語っても人をひきつけるような、ああいう引きしまった劇的な「話」を考え出す才能は彼にはなかった。人間としては彼は快活で実際的な人柄だったらしいが、作家としてはふさぎ屋の憂鬱質で、そのために人間のはげしい行動とか多彩さとかいう面には背を向けた。彼の見る人生は単色の人生であった。……ところで私にはチェホフ流の短編は、書こうと思っても書けたかどうかわからない。私にはその気はなかった。私は、幕あきから結末まで、きっしりと引きしまって、とぎれのない一線をなして進行する、そういったストーリーが書きたかった。私は短編小説というものを、物質的なものにもせよ精神的なものにもせよ、ただひとつの出来事を語るもの、その出来事をはっきり説明するのに絶対必要でないものは、一切排除することによって劇的統一を与え得るもの、と理解した。いわゆる「ねらい」というか「おち」というか、そういうものを持つことを私はおそれなかった。「おち」がいかんというのは、それが論理的でないばあいだけなので、それが単に効果だけをねらって正当の理由もなくとってつけられた例が多すぎたために、「おち」が不信を買ったのだ、と私は考えた。一言でいえば私は自分の短編のおわりを、「……」で終わらせるよりははっきりとフル・ストップで結ぶほうをこのんだのである。


そうしてモームは『雨』や『赤毛』という、くっきりしたストーリーと意外な結末を持つ、それでいて、芸術性を失わない作品のいくつかを残した。

では、モームがここまで反発した、そして、反発せざるをえなかったチェホフの短編小説とは、どのようなものだったのだろうか。

医学生でもあった若いころのチェホフは、生計を稼ぎ出すために、六百以上のコント(短編小説よりさらに短い、軽妙な一種の落とし話)を書き飛ばした。そうしてわずか十年ほどの間に、『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』に代表される戯曲と、以降、どんな短編作家も、決して意識することなしには一行も書けないような数多くの短編小説を遺す。

もちろんチェホフもモーパッサンを意識していた。

モーパッサンがみずから技法にたいして高い要求をしめしたあとでは、仕事をするのはむずかしいのですが、しかし、仕事をしなければなりません。とくに、われわれ、ロシヤ人は、仕事をしているときは大胆である必要があります。大きな犬もいますが、小さな犬もいます。小さな犬は大きな犬がいたってとまどうべきではありません――すべての犬は吠えるべきです――それも神さまがあたえてくれた声で吼えるべきです。(イ・ブーニン『チェーホフ』:引用は佐藤清郎訳・編『チェーホフの言葉』弥生書房)

けれどもその「小さな犬」の声は、モーパッサンの声とはひどくちがったものだった。

仕事をしなければなりません……手をやすめずに……一生……。ぼくの考えでは、小説を書き終わったなら、発端と結末を削ったらいい。ぼくたち、小説家は発端と結末のところでいちばん嘘をつくものだ……みじかく、できるだけ簡潔に語る必要がある。(引用同)


見たり、感じたりしたことを、正確に、芸術的に書かねばなりません。あの作品、この作品で、あなたは何が言いたかったのですか、とよくきかれます。こういう質問にはぼくは答えません。ぼくの仕事は書くことです。そして、ぼくはどんなことについても書くことができますよ。このびんについて書けっていわれれば、「びん」という題で短編をつくりますよ。生きた形象が思想を生み、思想が形象を生むのではないのです。(エリ・ア・アヴィーロワに語ったことばから。引用は前掲書)

そこには「筋」もなく、メッセージもなく、あるのは「生きた形象(イメージ)」。
こうしたチェホフの短編は、ひとつの小説が終わっても、決して終わることはないのだ。

モーパッサンや、モームの短編のように、チェホフはおもしろくはない。筋を要約しても意味はないし、意味を取ろうと思えば苦労することさえある。それでも登場人物たちは、ストーリーを越え、わたしたちの内部で息づく。

夏目漱石は『道草』の最後で、主人公の健三にこのように言わせている。

世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ。

そう、漱石の言うように、チェホフの短編も片づかない。色々な形に変わって、わたしたちのなかに織り込まれていくのだ。まさに「世の中」のあらゆることどものように。

(この項つづく)