陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

短編小説とはなんだろうか その1.

2005-05-19 22:12:42 | 
短編小説とはなんだろうか

その1.エドガー・アラン・ポー

小説の分類のやりかたとして、「長編小説」「短編小説」に分ける、という分類の仕方がある。
単に長さがちがうだけなのだろうか。
短編というのは、単に短い話なのか。
短編にしか扱えない物語というのがあるのではないのだろうか。

ここでは教科書的な定義を離れて、さまざまな人が語ることばのなかから、短編小説とはなにかを浮かび上がらせてみたい。

教科書的な定義を離れる、と書いておいて、いきなりそれに反することをやってしまうのだが、まず簡単に、文学史的な観点から見ておくと、今日の短編小説のようなスタイルが確立するのは、19世紀、雑誌の発達と密接に関連している。

都市に人々が集まるようになり、大衆層が生まれる。そうした人々に、手軽に娯楽を与えるものとして、雑誌が生まれる。

毎月発行される雑誌には、一回で読むことができて、楽しい、しかも目新しい読み物こそがふさわしい。
こうした雑誌の発達にあわせて、数多くの短編が求められたのである。

こうした短編小説の生みの親とも言われるのが、エドガー・アラン・ポーである。
彼は、一般的に流布されているイメージとは異なり、非常に精力的な短編小説の書き手でもあり、同時に雑誌の編集者でもあったのだ。

ポーによれば、三十分から一、二時間のうちに「一気に」(at one sitting) 読んでしまえるのが短編である、という。
短編はそこのところを十分に考慮して、書かれなければならないのだ、と。

長編小説というのは

一気に読まれることがないので、全体から生じる巨大な力を伝えることができない。読書の合間に割りこんでくる俗世間のあれやこれやが、大なり小なり、本の印象を歪めたり、台無しにしたり、弱めてしまう。読むのを中断したそのときに、全体のまとまりがたちまち損なわれてしまう。

それに対して短編小説というのは、

短い話の場合だと、書き手はじぶんの意図をおもいっきり打ち出せる。たとえ、それがどんなものであってもだ。本を読んでいる一時間、読み手の心は書き手の統制下にあるからだ。

そうして、短編小説はこのように書かれるべきだという。

まずは、念入りに、どういう効果をだしてやろうか、と考え、それから、いろいろな出来事をこしらえていくのだ。あらかじめ考えておいた効果をだすのにふさわしいように、出来事をこしらえるのだ。書き出しの文章が、その効果を際立たせられなかったら、第一歩からつまずいたことになる。作品には、すでに考えられた作戦に直接的ないしは間接的に貢献しない言葉はひとつもない。


こうしてポーは、読者を怖がらせる仕掛けに満ちた短編をつぎつぎに発表していったのだ。

(この項つづく)