陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サキ 『スレドニ・ヴァシター』 その1.

2005-05-07 22:03:21 | 翻訳
サキ 第三弾はSredni Vashtar、これまでのユーモラスなサキとはひと味ちがう、でも、とってもサキらしい作品です。原文はhttp://www.classicshorts.com/stories/vashtar.htmlで読むことができます。
スレドニ・ヴァシターって、何なんでしょう? 間もなくわかります。

***

コンラディンは十歳だったが、主治医の専門的見地からすると、この少年はあと五年は持つまい、とのことだった。物腰の柔らかい、どこか女性的なこの医者は、ほとんど無能と言ってもよかったのだが、デ・ロップ夫人だけはたいそうありがたがっていた。もっとも夫人ときたら、なんだってありがたがるのだが。デ・ロップ夫人は、コンラディンの従姉妹かつ後見人なのだが、コンラディンからすれば、世界の五分の三、必要ではあるが、不愉快で現実的な部分の象徴だった。残りの五分の二は、つねに五分の三の部分と対立するもの、つまり自分自身と、自分の空想の世界なのだった。いずれそのうちぼくはこのうんざりする、義務的なことどもの支配してこようとする力に屈してしまうだろう。たとえば病気になったり、甘やかされて束縛されたり、果てしなく退屈さが続いたりして。ひとりきりになるととたんに旺盛になる、この想像力というものがなかったら、はるか昔に参ってしまっていたにちがいない。

 デ・ロップ夫人は、たとえどんなに正直になる瞬間が来ようとも、自分がコンラディンを嫌っていることは、決して認めようとしなかっただろう。ただし、「あの子に良かれと思って」コンラディンのやろうとすることをくじくのは、漠然と自分の義務であると感じてはいるらしく、そのつとめは特に面倒だとも思っていないようだった。コンラディンは、心の底から夫人を憎んでいたが、それでいて完璧にしらを切りとおすことができた。思いついた自分だけのささやかな楽しみも、夫人がいい顔はすまいと思うと、よけいにうれしくなってくるのだった。この想像の王国には夫人など入れてはやらない……不潔なやつなんか。入り口さえ見つかるものか。

サキ 『ハツカネズミ』 最終回 

2005-05-05 21:34:33 | 翻訳
「ネズミはお嫌いですか?」いよいよ赤くなりながら、思い切ってそう言った。

「そんなにうんとじゃなかったら。でも、どうしてそんなことを?」

「ほんのいましがたまで、服のなかを一匹、はいまわっていたのです」自分の声とは信じがたいような声が答える。「これほど気持ちのわるいことはありませんよ」

「そうでしょうね、とくにぴったりしたお召し物ですとね」その女性は注意深そうなくちぶりでそう言った。「でも、ネズミってヘンなところに落ち着いてしまうんですのよ」

「眠っていらっしゃる間に、追い出してしまわなけりゃなりませんでした」それからごくりと唾を飲み込んで、言い足した。「追い出してる途中で、こ……こんなことになってしまって」

「まさかちっぽけなネズミいっぴき追い出したくらいで、風邪なんて引きゃしません」その断定的な、無遠慮な言い方は、セオドリックの勘に障った。

どう考えてもこの女性は、セオドリックの苦境に前からそれとなく気がついていて、彼がどぎまぎしているのをおもしろがっているらしい。体中の血がいちどきに顔に流れ込んだのではないかというほど真っ赤になって、ハツカネズミの大群よりももっと悪い、耐え難い屈辱の苦しみが、セオドリックの魂をかけめぐる。だが、よくよく考えるうちに、恥ずかしい気持ちはまぎれもない恐怖へと変化していった。

汽車は刻一刻と、大勢の人でにぎわう終着駅に近づいていく。そこでは何ダースもの詮索好きな目が、この客室の反対側からぼんやりとこちらを見つめる一対の目に取って替わるのだ。一縷の望みはかすかにあったが、それも数分のうちに決断しなくてはならない。相客がうまいぐあいにまた居眠りでもしてくれたら。だが、数分が過ぎ、そのチャンスも費えた。ときおりそちらをうかがってみたが、ぱっちりと目を覚ましていてまばたきひとつするようすがない。

「もうすぐ終点ですわね」やがてその女性が言った。

すでにセオドリックも、小さな醜い家屋の群れが繰り返し現れるのを見て、旅路の終わりが近いことを知り、募りゆく恐怖を覚えていたところだったのだ。その女性のことばが引き金となった。追われる獣が巣穴から飛び出して、ほんの一瞬だけでも安全な場所を求めて死に物狂いで駆け込むように、ひざかけをはねのけると、脱ぎ捨てた服を、無我夢中で身につけた。殺風景な郊外の駅が、窓の外をいくつも通り過ぎていく。胸が締めつけられ、心臓は早鐘を打ち、客室の一方からは氷のような静けさが漂ってくるが、そちらに目を向けることができない。服を身につけ、ほとんど放心状態になって座席に腰を下ろしたころ、汽車は終着駅に向けて減速していった。そのとき女性が口を開いた。

「もし差し支えないようでしたら、馬車のところまで連れていってもらえるよう、赤帽を呼んでいただけませんか? ご気分が優れないのにお手を煩わせて申しわけないのですが、目が見えないものですから、駅というのはたいそう不自由なもので」

(この項おわり)

サキ 『ハツカネズミ』 その3. 

2005-05-04 19:08:17 | 翻訳
砂糖大根の根っこのように真っ赤になって、眠り込んでいる相客のようすを必死の思いでうかがいながら、すばやく音がしないように、備え付けのひざかけを客室の両端の網棚に固定した。かくして客室を仕切るには十分なカーテンができあがったのである。


間に合わせの狭苦しい脱衣所で、セオドリックは疾風怒濤の勢いで、自分自身の一部とハツカネズミの全身を、ツイードとウールの綾織りの外皮から引き出した。解放されたハツカネズミが勢いよく床に飛び降りたそのとき、両端を留めていたひざかけが外れ、心臓が止まるようなバサッという音を立てて落ちたのだ。それとほとんど同時に、眠っていた女性は目を開けた。

ハツカネズミよりも素早い動作でひざかけに飛びつくと、セオドリックは無防備になった身体をすっぽりとそのなかに入れ、顎の位置までひっぱりあげ、そのまま客室の反対側の隅に、がっくりと崩折れた。血は体内を荒れ狂い、首とこめかみの静脈はドキドキと脈打つ。セオドリックは相客が通話装置のコードを引っ張るのを、固唾を飲んで待った。ところがその女性は、妙な格好でくるまっているこちらを、無言のまま見つめるだけだ。いったいどこまで見られてしまったんだろう。なんにせよ、自分の現在のていたらくを、どんな思いで見ているんだろう。

「風邪を引いてしまったようなんです」せっぱつまったセオドリックは思い切ってそう言ってみた。

「それはお気の毒ですこと。ちょうど窓を開けていただけないかと思っていたところだったんです」

「マラリヤじゃないかと思うんですが」そう言うと、かすかに歯をガチガチいわせてみせる。実際、怯えてもいたが、自分の言っていることを裏付けようと願う気持ちもあったのだ。

「スーツケースのなかにブランデーがすこしありますわ。よろしければ、おろしていただけませんこと?」

「と……とんでもない、いえ、その、何もいただけません」セオドリックは必死で言い張った。

「熱帯のほうで感染なさったんでしょうね」

熱帯とのつきあいといえば、セイロンにいる伯父から毎年送られてくる紅茶一箱に限られていたセオドリックは、マラリヤにまで避けられたような気がしてしまう。すこしずつ小出しに、ほんとうの事情を打ち明けてみようか。

(内気なセオドリックの運命やいかに? いよいよ明日最終回)

サキ 『ハツカネズミ』 その2. 

2005-05-02 18:54:53 | 翻訳
汽車が駅をすべりだしても、すっかり神経質になったセオドリックは、自分がかすかに厩の臭気を漂わせていて、いつもはしっかりブラシもかけている上着にも、カビの生えた藁くずが一、二片、くっついているような気がしてならなかった。幸いにも客室の相客はひとりだけ、セオドリックと同じ年齢層の女性で、他人の観察よりは、居眠りをしていたいようだった。ほぼ一時間後、終点に着くまで汽車が停車する予定はないし、車両も旧型で通路から行き来ができなくなっているため、この半ばセオドリックの専用車に、これ以上乗客が侵入してくることもなさそうだった。

ところがやっと汽車が通常の運行速度になったかならないかというところで、セオドリックは自分が眠っている女性といっしょにいるのは自分だけではないことを、いやいやながらもはっきりと認めないわけにはいかなかった。いや、服のなかにさえも、ひとりきりでいるわけではないのだ。皮膚のうえをもぞもぞとはいまわる、歓迎されざる、かつ極めて不快な存在が知覚されたのである。姿こそ見えないが、この身を苛んで止まぬ迷いネズミがいっぴき、どうやらポニーに馬具をつけているうちに、この隠れ家に飛び込んだらしい。こっそり足踏みしたり、体を揺すったり、むやみやたらにつまんでみたりしたのだが、侵入者を除去することはかなわないまま。どうやらこいつのモットーは、確かに「より高く!」というものらしかった。服の合法的占有者はクッションにもたれて、共同所有の状態に終止符を打つ方策を速やかにたてなければ、と頭をひねった。

これから一時間のあいだずっと、ホームレスのネズミども(もはやセオドリックの頭のなかでは、侵入者の数は少なくとも二倍には膨れ上がっていた)に宿を提供するというおぞましい境遇を続けるなどということは論外である。そうはいっても、苦痛を和らげるためには、着ているものの一部を脱いでしまうこと以外に抜本的な解決はないのだが、ご婦人の前で服を脱ぐなどということは、まっとうな目的のためとはいえ、想像するだけで耐え難い恥ずかしさのために真っ赤になってしまう。

女性がいるところでは、透かし織りの靴下がちょっと見えてしまうことにさえがまんができないのだ。だが、今回、この婦人はあきらかにぐっすりと眠り込んでいるようだ。いっぽう、ネズミときたら諸国遍歴の道程を、わずか数分間に繰り上げてすませようとしているらしい。

輪廻説にいくばくかの真実があるならば、この特筆すべきネズミこそ、まちがいなく前世は山岳会の一員だったにちがいない。ときどきあまり夢中になりすぎて、足を踏み外して1センチほど滑り落ちる。すると、怖がるのか、おそらくはこっちのほうだろうが、腹を立てるかして、噛みつくのだ。

セオドリックは人生最大の大胆な行為に出る羽目に陥った。

(この項つづく)