その2.わたしたちにふりかかるできごと
ポーが書き手が考えた効果を読み手に与えるのが短編小説の使命と考えたのに対して、まったくちがうふうに短編をとらえる作家もいる。
阿部昭は『短編小説礼賛』のなかで、短編集『わが名はアラム』を残したウィリアム・サローヤンのことばを、このようなかたちで紹介している。
短編小説、あるいは長編小説と、読み手の“人生”を重ね合わせていく見方をしたのは、サローヤンばかりではない。アイルランドの作家で、短編小説の名手でもあるフランク・オコナー、「短編小説はアメリカの a national art formである」とも言ったオコナーは、短編小説をこのようにとらえていた。多少長いが、青山南『アメリカ短編小説興亡史』よりその部分を引用する。
社会からはずれた者が主人公であるのが短編、確かに、そう言われてみると、心に残った短編のことごとくがそれに当てはまるように思えてくる。
わたしたちは、自分の物語のなかでは主人公だが、社会という大きな物語のなかでは、「端っこをとぼとぼ歩いている」人間だ。自分の人生を物語としてとらえるときは、長編小説としてとらえ、社会の一員として、日々起こる自分にふりかかるできごとを見るときは、短編小説としてとらえている、とも言えそうだ。
短編小説をこんなふうに眺めることもできるのである。
(この項つづく)
ポーが書き手が考えた効果を読み手に与えるのが短編小説の使命と考えたのに対して、まったくちがうふうに短編をとらえる作家もいる。
阿部昭は『短編小説礼賛』のなかで、短編集『わが名はアラム』を残したウィリアム・サローヤンのことばを、このようなかたちで紹介している。
サローヤンは、短編小説を文学作品とか書物とか考える前に、それをわれわれの生活の最もありふれた経験の一つと考えるのである。
「それは日々すべての人の身にふりかかる。それは形式(フォーム)と文体(スタイル)〔話しぶり〕とをもって人から人へと伝えられる。こんなことが起こった、こんなふうに起こった、こういうわけで起こった等々と。
要するに、短編小説はおのずからにして、人間の経験に対して中枢の位置を占めている。詩や長編小説や戯曲もそれは同じだが、最も自然に短編小説はそうである。」
短編小説、あるいは長編小説と、読み手の“人生”を重ね合わせていく見方をしたのは、サローヤンばかりではない。アイルランドの作家で、短編小説の名手でもあるフランク・オコナー、「短編小説はアメリカの a national art formである」とも言ったオコナーは、短編小説をこのようにとらえていた。多少長いが、青山南『アメリカ短編小説興亡史』よりその部分を引用する。
で、長編だが、オコナーに言わせると、それは、読者が主人公にじぶんを重ね合わせていく小説のことである。長編の主人公というのは、夢見る者だったり不良だったり反逆者だったりといろいろだが、読者は、そんな主人公のなかにじぶんの一面をかんじとり、共鳴しながら読んでいくというのである。
そして、この指摘が卓抜なのだが、長編の主人公は、たいがい、じぶんのいる社会を極度に意識していて、社会となんらかのかたちで折り合いをつけようとしている、とオコナーは言う。社会にたいする態度がどんなものであれ、主人公はノーマルな社会の存在をはっきりとかんじているというのだ。
「ノーマルな社会があるという概念がなかったら、長編は成立しえない、と言ってもいいだろう。」
しかし、短編の場合は、そこに登場する人物は、たいてい、じぶんのいる社会を意識していない。じぶんはそんなものからはずれている、と考えている。短編ではいつも、社会からはぐれた者が社会の端っこをとぼとぼ歩いているのだ、とオコナーは言う。
「昨今、現代小説が話題になると、小説からヒーローがいなくなった、とよく言われる。しかし、短編には、もとから、ヒーローなどいたためしはないのだ。そこにいるのは、いまひとつ言葉がふさわしくないが、a submerged population group のひとたちである。」
そう、オコナーの短編論のキーワードはこの a submerged population group である。訳すと、「人目につかないひとたち」とか、「とくに目立たないひとたち」とか「隅っこに追いやられているひとたち」ということになるだろうか。オコナーは、 the Little Man という言葉におきかえてもいるが、存在感の薄い、「あっ、きみ、そこにいたの」とでも言われそうな、そういうひとたちである、と考えていいだろう。
オコナーによれば、短編は、帝政ロシア時代にロシアの作家ニコライ・ゴーゴリが書いた「外套」とともに始まった。ご存知のかたもきっと多いだろうけれど、古い外套を繕い繕い長いこと着てきた役所のしがない書記が、もう繕えないと言われ、必死でお金を工面して新しいのを買ったのに、盗まれてしまうという、悲惨な話である。あまりにも影の薄い、あまりにも恵まれない、死んでも(じっさい死ぬのだが)死にきれない(じっさいお化けになるのだが)その惨めな姿は、まったくもって submerged で little な人物そのものだ。
なるほど、短編がそういう人物を中心に据えるのだというのなら、これはまさに先駆である。
では、どうして「短編小説はアメリカの a national art formである」のか。いったいどこにどのくらい submerged で little な人物がいるというのだろうか。オコナーは、アメリカは移民の国なのだ、とばかりにこう言っている。
「アメリカにはたくさん submerged population group が住んでいる。アメリカ人特有の他人へのやさしさは――アメリカ人の横暴さと隣り合わせなのだが――不親切な社会で途方に暮れ、親切な社会など標準どころか例外であると思い知らされてきた先祖をもつひとびとのやさしさなのである。」
社会からはずれた者が主人公であるのが短編、確かに、そう言われてみると、心に残った短編のことごとくがそれに当てはまるように思えてくる。
わたしたちは、自分の物語のなかでは主人公だが、社会という大きな物語のなかでは、「端っこをとぼとぼ歩いている」人間だ。自分の人生を物語としてとらえるときは、長編小説としてとらえ、社会の一員として、日々起こる自分にふりかかるできごとを見るときは、短編小説としてとらえている、とも言えそうだ。
短編小説をこんなふうに眺めることもできるのである。
(この項つづく)