陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

YAとして読む『蠅の王』 その3.

2004-10-12 07:01:29 | 
この小説はメタファーに満ちている。

たとえばほら貝。
浜辺でラーフが見つけた美しいほら貝は、それを手にしているラーフをほかの子どもから際立たせる。
集会で発言するときは、ほら貝を手に持つ、持たない者は口を挟まない、といった秩序の象徴でもある。
ピギーはジャックの襲撃を受けた時、なんとしてもほら貝を守ろうとし、最後にジャックと対決するときにも抱えていく。
そして、ピギーの上に大岩が落ちた時、ほら貝も粉々に毀れてしまう。

ピギー。
唯一、名前が明らかにされない彼は、不格好で、動作が滑稽なピギーは、自分では意識していないし望んでもいないけれども、集団のトリックスターでもある。話は退屈だし、ふたこと目には「喘息」を口にして労働から逃げ出すけれど、彼の知性と人を見る能力は抜きんでており、なによりも、彼の眼鏡は火を起こすのに欠かせない道具である。ピギーは「狩られる」豚でもあり、同時に人間に火をもたらすプロメテウスでもあるのだ。

ジャックの名字。
ジャックは最初に登場したとき、メリデューと姓で呼びかけられる。作品中、唯一(正確には、自己紹介を求められて、自宅の所番地や電話番号まで言ってしまう小さなパーシヴァルも名字を言うが)姓を与えられた存在である。
姓を持ち、制服に身を包み、合唱隊を統率する、文明社会を体現しているかにも見える彼が、豚に遭遇するや、まっさきに西洋近代文明から滑り落ち、顔に粘土を塗りたくり、後に色で隈取りをし、服を脱ぎ捨ててしまう。このことは非常に興味深い。
わたしたちは組織や規律をきわめて文明的なもの、と考えがちだが、ゴールディングの作品はそうではないことを示している。
彼は権力を求める。
ラーフのように、救助を求める、という鮮明な目的意識があって、組織を運営しようとしているのではないのだ。彼は自分が権力をふるうために、組織を必要とする。
ジャックが狼煙を必要としない、むしろ、無意識的に妨害するのはそのためだ。
ジャックは戻りたくない。
小さな島の王でありたいのだ。
ここでは制服も、蛮族の隈取りも、実は同じことなのだ。

そして「蠅の王」。
「蠅の王」がひとの心の奥に潜む「獣性」の象徴であることは、非常にわかりやすく(少年期の読者にもわかるように)はっきりと書いてある。
ただ、ここで疑問に思うのは、ジャックが「蠅の王」に屈服した側で、ラーフがそれと闘おうとする側、と単純に読んでよいのだろうか、ということなのだ。

「蠅の王」の声を聞くのは、もうひとりのトリックスター、サイモンであって、ラーフではない。
彼が「獣」を怖れないのは、ピギーのように「意味がない」からでも、ジャックのように槍をもっているからでもない。サイモンは最初から「獣」とはひとの心の中に棲んでいることを知っているからであり、だからこそ「獣」と対話もできる。
そのサイモンは、「蠅の王」の予言通り、「みんな」に(ラーフもピギーも、直接には手を下さなかったにしても輪の中にはいたのだ)殺される。
「獣」は気づいてほしくないのである。
気づかれれば、もはやその人間を支配することはできなくなるから。


1.で書いたマークの寄宿舎にもジャックがいたように、ジャックも、ピギーも、ラーフも、そしておそらく数はずいぶん少ないだろうけれど、サイモンも、わたしたちの傍にいる。
「YAとして読む」とタイトルにつけたのはそのためだ。
宗教的な寓話として、わたしはこの作品を読みたくはない。

「獣」はだれの心の中にもいる。
「獣」の存在を認め、それを知ること。
それが「獣」に屈服しない唯一の方法だ。


実はこの小説はこれで終わりではない。
最後に爆弾が用意されている。

「少年たちの嗚咽にとり囲まれた士官は、心を動かされかなりどぎまぎした。彼らが気をとりなおす時間の余裕を与えようと、顔をそむけた。そしてじっと待っていた。その間、沖合はるかに停泊している端正な巡洋艦の姿に、じっと眼をそそいでいた」

わたしたちはいつの間にか、ラーフと一体になって追われている。
もはや追っているのは、十二歳の少年ではない。
隈取りをし、槍を尖らせ、火を放つ「蛮族」なのだ。

そこで海軍士官に会う。
ほっとする。
助かった、と思う。

島での生活を振り返り、ラーフと一緒に失われた友情やイノセンスに涙を誘われそうになる。

そうして最後の段落になって、わたしたちは、士官の視点で、大人の視点で珊瑚礁の外の世界を見ることになる。

沖合で少年たちを待っているのは、客船でも、漁船でもない。巡洋艦だ。
「端正な」、すなわち少年たちの原始的な暴力とは違う、より近代的な装いをこらした暴力の世界。
わたしたちが帰っていくのは、そういう世界なのだ。


そう。
助けなど、どこにもない。

ラーフは物語の冒頭から、海軍の指揮官である父親が助けにきてくれる、と信じている。
父親に見つけてもらうために、狼煙の火を絶やしてはならないのだ。
何よりも狼煙を維持するために、リーダーとなってコミュニティを築こうとする。

ときには責任に打ちひしがれ、大人がいてくれたら、どうしたらいいか教えてくれたら、と思う。
眠る時には、母親もいたころの、自分が寄宿学校に行く前に住んでいた家の記憶に帰っていく十二歳の子どでもあるのだ。
それでもラーフは狼煙を守るためには、闘うことも辞さないし、生き延びるために考えることを学んでいく。

最後に待っていた「大人」が来た。
けれども「大人」は、目を背けるばかりで現実を見ようとはしないし、真実に気づくこともない。
とりあえず珊瑚礁の島から彼らは出るだろう。
けれども、間違いなく、彼らの戦いは続いていくのだ。
それぞれの内側に「蠅の王」を抱えたまま。


「そして、物語には三つの種類がある。すなわち、めでたく終わる物語、悲しく終わる物語、そして目出度くも悲しくもなく終わる、言い換えれば、実際には何も終わらない物語の三種類である」(ディヴィッド・ロッジ『交換教授』白水社)


戦いは続く。
そこに獣はいる。

(この項終わり)

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