その11.
少年は自由になった。叔母さんが捕まえようとしたが、もう遅かった。少年はすり抜けると駆けだし、それを追いかけようとした母親は、つまずいて膝をつき、近い方の姉を呼んだ。「あの子をつかまえて、ネット! つかまえとくれよ!」
だがそれも遅かった。その姉(ふたりは同時に生まれた双子だったが、いまやふたりのどちらもが、家族の残り四人を合わせたよりも、生々しい肉や量感、重量といった印象を与えるのだった)は、椅子から立ち上がろうとすらせず、ただ振り返っただけだった。少年は、逃げだす瞬間、どんなことにも驚かされず、牛ほどの好奇心しか示さないこの若い女の体が、どれほど空間を満たしているか、驚きをもって眺めた。
部屋を抜け、家を出ると、薄もやの立ちこめる月明かりの道に出た。スイカズラの匂いがむせかえるようで、走る自分の足の下で、白っぽいリボンのような道がおそろしくゆっくりと伸びていく。やっと門に着くとそのままなかへ駆け込み、心臓も肺も早鐘を打っていたが足を緩めず、私道を抜け、灯りのついた屋敷の明るい玄関にきた。ノックもせず飛び込んだが、息があがって物も言えない。麻の上着を着た黒人の驚いた顔が目の前にある。いつ出てきたのかもわからなかった。
「ド・スペインさんを!」少年はあえぎながら叫んだ。「どこにいる?」
そのとき白人の男が廊下の先の白いドアから姿を現した。
「納屋が!」少年は叫んだ。「納屋が!」
「何だ?」白人の男は尋ねた。「納屋だって?」
「そうです!」少年が叫んだ。「火事になる!」
「こいつをつかまえるんだ」白人が怒鳴った。
だが今度も遅かった。黒人が少年のシャツをつかんだが、洗いざらしてすりきれた袖はすっぽり裂けてしまい、手には袖だけが残った。少年はドアからまた飛び出すと、私道を駆け抜けた。実際には、白人に向かって叫んでいるときでさえ、足を止めていなかったのだ。
後ろで白人が怒鳴っていた。「馬だ! 馬を引いてこい!」
その声を聞いて、とっさに庭を横切って、塀を乗り越えて道に出ようかと思ったが、庭のようすもわからないし、蔓のからまる塀の高さも見当がつかなかいので、危険を冒すのはやめることにした。私道を走り続け、脈打つ血も呼吸もうなり声をあげていた。不意に自分が道に出たことが、あたりは見えなくてもわかった。耳も聞こえなかったが、音が届く前に、駆けてくる馬がすぐそばに迫っていることはわかった。それでもなお、自分の気も狂わんばかりの悲しみとさしせまる危機を、ほんの一瞬でも先に繰り延べるために、なんとかして羽を見つけようとでもするように、彼は道を変えようとはしなかった。だがぎりぎりの瞬間、道端の雑草の生い茂る溝に飛び込んで身を潜め、馬が雷のような音を立てて通り過ぎていくのを見送った。
直後、星明かりを背に、恐ろしいシルエットが浮かび上がった。静かな初夏の夜空に、馬とそれに乗った人の影が見えているところに、突然激しい炎が立ち上ったのだ。高々と渦を巻く、この世のものとも思えないような火炎が音もなく星空を染めた。少年はとびあがって道に戻ると、また走り出した。もはや手遅れであることはわかっていたが、銃の発砲される音が聞こえてきても、足を休めようとはしなかった。ほんの少しおいて、二発の銃声が聞こえた。自分が足を止めているとも気がつかないまま、立ち止まると、少年は叫んだ。
「父さん! 父さん!」自分でも気がつかないままに、ふたたび走り出し、よろめいて、何かにつまずいて転んでも、それでも走るのをやめなかった。立ち上がり際に振り返り、肩越しに燃え上がる火を見、もはや目には見えてはいない木々のあいだを、あえぎ、すすり泣きながら走っていった。「父さん! 父さん!」
(※今日は疲れたのでここでおしまい。最後の最後はまた明日)
少年は自由になった。叔母さんが捕まえようとしたが、もう遅かった。少年はすり抜けると駆けだし、それを追いかけようとした母親は、つまずいて膝をつき、近い方の姉を呼んだ。「あの子をつかまえて、ネット! つかまえとくれよ!」
だがそれも遅かった。その姉(ふたりは同時に生まれた双子だったが、いまやふたりのどちらもが、家族の残り四人を合わせたよりも、生々しい肉や量感、重量といった印象を与えるのだった)は、椅子から立ち上がろうとすらせず、ただ振り返っただけだった。少年は、逃げだす瞬間、どんなことにも驚かされず、牛ほどの好奇心しか示さないこの若い女の体が、どれほど空間を満たしているか、驚きをもって眺めた。
部屋を抜け、家を出ると、薄もやの立ちこめる月明かりの道に出た。スイカズラの匂いがむせかえるようで、走る自分の足の下で、白っぽいリボンのような道がおそろしくゆっくりと伸びていく。やっと門に着くとそのままなかへ駆け込み、心臓も肺も早鐘を打っていたが足を緩めず、私道を抜け、灯りのついた屋敷の明るい玄関にきた。ノックもせず飛び込んだが、息があがって物も言えない。麻の上着を着た黒人の驚いた顔が目の前にある。いつ出てきたのかもわからなかった。
「ド・スペインさんを!」少年はあえぎながら叫んだ。「どこにいる?」
そのとき白人の男が廊下の先の白いドアから姿を現した。
「納屋が!」少年は叫んだ。「納屋が!」
「何だ?」白人の男は尋ねた。「納屋だって?」
「そうです!」少年が叫んだ。「火事になる!」
「こいつをつかまえるんだ」白人が怒鳴った。
だが今度も遅かった。黒人が少年のシャツをつかんだが、洗いざらしてすりきれた袖はすっぽり裂けてしまい、手には袖だけが残った。少年はドアからまた飛び出すと、私道を駆け抜けた。実際には、白人に向かって叫んでいるときでさえ、足を止めていなかったのだ。
後ろで白人が怒鳴っていた。「馬だ! 馬を引いてこい!」
その声を聞いて、とっさに庭を横切って、塀を乗り越えて道に出ようかと思ったが、庭のようすもわからないし、蔓のからまる塀の高さも見当がつかなかいので、危険を冒すのはやめることにした。私道を走り続け、脈打つ血も呼吸もうなり声をあげていた。不意に自分が道に出たことが、あたりは見えなくてもわかった。耳も聞こえなかったが、音が届く前に、駆けてくる馬がすぐそばに迫っていることはわかった。それでもなお、自分の気も狂わんばかりの悲しみとさしせまる危機を、ほんの一瞬でも先に繰り延べるために、なんとかして羽を見つけようとでもするように、彼は道を変えようとはしなかった。だがぎりぎりの瞬間、道端の雑草の生い茂る溝に飛び込んで身を潜め、馬が雷のような音を立てて通り過ぎていくのを見送った。
直後、星明かりを背に、恐ろしいシルエットが浮かび上がった。静かな初夏の夜空に、馬とそれに乗った人の影が見えているところに、突然激しい炎が立ち上ったのだ。高々と渦を巻く、この世のものとも思えないような火炎が音もなく星空を染めた。少年はとびあがって道に戻ると、また走り出した。もはや手遅れであることはわかっていたが、銃の発砲される音が聞こえてきても、足を休めようとはしなかった。ほんの少しおいて、二発の銃声が聞こえた。自分が足を止めているとも気がつかないまま、立ち止まると、少年は叫んだ。
「父さん! 父さん!」自分でも気がつかないままに、ふたたび走り出し、よろめいて、何かにつまずいて転んでも、それでも走るのをやめなかった。立ち上がり際に振り返り、肩越しに燃え上がる火を見、もはや目には見えてはいない木々のあいだを、あえぎ、すすり泣きながら走っていった。「父さん! 父さん!」
(※今日は疲れたのでここでおしまい。最後の最後はまた明日)
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