陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

シャーウッド・アンダーソン 『手』 その1.

2005-06-01 19:00:02 | 翻訳
今日からしばらくシャーウッド・アンダーソンの連作短編のひとつ『手』の翻訳を掲載します。
原文はhttp://bartleby.school.aol.com/156/2.htmlで読むことができます。

『ワインズバーグ・オハイオ』、オハイオ州の架空の町、ワインズバーグに住むさまざまな人の人生模様を描いた連作短編の、その第一作に当たるのが『手』です。この『手』はどんな物語を語ってくれるのでしょうか。


シャーウッド・アンダーソン 『手』 その1.



オハイオ州ワインズバーグにほど近い峡谷の縁に、一軒の小さな木の家がある。その家のこわれかけたヴェランダに、太った小柄な老人が、落ちつかなげに、行きつ戻りつしていた。目の前に広がる原っぱ、老人がクローバーの種を撒いたのだが、黄色いカラシ菜ばかりがはびこったその原っぱの向こうには、街道があって、畑から帰るいちごつみ人夫を満載した荷馬車が通っていくのが見えた。いちごつみ人夫は若い男や娘たちで、笑ったり、大声をあげたりで、かまびすしい。青いシャツをきた少年が、荷馬車から飛び降りると、ひとりの娘を自分のほうに引き寄せようとしたのだが、娘のほうは、キャッ、と叫んで、金切り声でではねつけた。少年の足が地面を蹴ると、土埃が雲のようにたなびいて、沈んでゆく太陽を覆った。広い野原を渡って、細い少女の声が届いた。
「おーい、ウィング・ビドルボーム、髪の毛を梳かしなさい、眼のなかに入りそうよ」有無を言わせぬその調子に、禿頭の男は、神経質そうな小さな両手で、もつれた前髪をかき上げでもするように、剥き出しの白い頭を撫で上げた。

 ウィング・ビドルボームは、いつもいつも怖ろしい疑念に怯え、苛まれていて、ここに住むようになってから二十年にもなるというのに、自分が町の一員だとはとうてい思えないのだった。ワインズバーグの住人のなかで親しくしているのは、ひとりしかいない。ジョージ・ウィラード、ニュー・ウィラード・ハウスの主人であるトム・ウィラードの息子とだけは、友情のようなものを築いていた。ジョージ・ウィラードは『ワインズバーグ・イーグル』紙の記者で、ときどき夕方になると、街道を歩いて、ウィング・ビドルボームの家にやってくる。いま落ちつかなげに手を動かしつつヴェランダを行ったり来たりしながら、老人は、ジョージ・ウィラードが今夜もやって来て、一緒に過ごしてくれたら良いのだが、と思っていた。いちごつみ人夫をのせた荷馬車が行ってしまうと、丈の高いカラシナが繁る原っぱを横切って、柵によじのぼり、不安げな面持ちで、道の向こう、町の方向をうかがった。そこに立ってしばらく手をこすってみたり、道の左右をきょろきょろとうかがったりしていたのだが、やがて不安に耐えかねて、大急ぎで家に戻ると、ふたたびポーチを行ったり来たりし始めた。

 ウィング・ビドルボームは、二十年このかた町の住人にとって、謎の人物だったのだが、ジョージ・ウィラードがいるだけで、気後れも陰気なところもなりを潜めて、疑心暗鬼の海の底から浮かび上がり、世間を眺めることができるのだった。若い新聞記者と一緒なら、昼日中のメイン・ストリートに思い切って出かけもするし、自分の家のおんぼろのポーチをおおまたで行ったり来たりしながら、夢中になってしゃべったりもした。低く、震える声も、甲高く騒々しくなる。曲がった背も、まっすぐになる。釣り師の手で川に戻された魚が体をくねらせながら泳いでいくように、無口なビドルボームが、長年の沈黙の間、胸のうちに溜まりに溜まった思いをなんとか言葉にしようと、必死になって喋り始めるのだった。

(この項続く)

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