陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

リリアン・ヘルマン 『亀』 その3.

2005-12-17 22:56:42 | 翻訳
 ハメットは数週間ほどカリフォルニアにいたので、わたしはひとりでほとんど毎日のように湖に出かけては、なんとかもういちど亀を見てやろう、と思っていた。ニューオリンズで過ごした子供のころのことがよみがえってくる。毎週土曜日になると、叔母と一緒にフレンチ・マーケットに行って、叔母がやっている下宿屋のまかないのために買い物をした。市場には親指のない肉屋がふたりいて、どちらも噛みつき亀をさばくときに食いちぎられたのだ。

 農場に戻ったハメットは、自分がかわいがっていた犬の脚がひどいことになっていたのを見て、驚くと同時に腹を立てた。前から湖に噛みつき亀がいるのは知っていたんだ、おまけにヘビもいる、だがこうなったら何とかしなくては、と言うと、いつものように徹底的な研究を始めたのだった。つづく数週間のうちに、亀を罠にかける方法を記した本や政府刊行物が何冊も送られて来、妙な小包までいくつも届いた。大きな金網の檻は、何かほかの用途のもののようだったが、ハメットはどう改造したらいいか決めるまで、何日も睨んでいた。あるいは、巨大な釣り針、特別に重い、頑丈な縄、ロープの結び方を記した本もあった。わたしたちは噛みつき亀の起源についても読んだけれど、わたしにはたいしたことは言ってないように思えた。曰く、進化することなく存続している最古の生物の種であると推測される、顎は強力で、的に対して大きな脅威となる、ひっくり返ると自分では何もできない、など。さらにわたしが見た亀がどうして木立のなかから現れたのかも説明してあった――毎年、春になると、メスは地上に産卵し、毎日その上に座って、孵った子亀が水に戻るのを見届ける危険を冒す、というのだ。

 ある日、おそらく一ヶ月ほどしてから――ハメットが何かを学ぼうと決意したら、急がせることなど、どうしたってできないのだった――、金網の檻や巨大な釣り針、魚の頭や数日前から日にさらしておいた鼻を突く切り身を持って、わたしたちは湖へ行った。わたしはいつものように飽き飽きしてきて、というのも、ダッシュ(※ハメットの愛称)が何をするにも時間をかけ、正確にやることが、もはや彼の一部となっていたからなのだが、湖畔の土手を散歩することにした。ハメットはその間も罠のなかに釣り針にひっかけた餌をしかけ、湖に漕ぎだすと、張り出した太い枝を見つけて、それに結わえつけた。

 湖の片方をすませてから、ハメットはわたしのところからは見えない南側に向かったころ、わたしは泳ぐことにしたのだった。浮き台に向かってゆっくり泳いでいると、かなり向こうでサッサフラスの太い枝が、水の上で大きく揺れている。浮き台に座ってそれを見ていると、枝が揺れているのは、ハメットが釣り針をくくりつけた太いロープを枝に結わえたからだとわかった。ハメットに大声で、亀はもうつかまったの、と聞くと、そんなにすぐにつかまえられるはずがない、と答えが返って来、わたしは、急いで来てよ、怖くて動けないんだから、もう四の五の言ってる場合じゃないのよ、と言い返した。

 ハメットは湖のカーブしているところをまわってくると、わたしを見てニヤッと笑った。

「こんなに早くから酔っぱらっちまったのか」

 わたしは揺れている枝を指さした。わたしのことなど忘れて、大急ぎでそちらに漕いで行った。綱をたぐりよせようとしているが、持ち上げるのが大変なようで、ボートに立ち上がってもういちど引っ張り、それからゆっくりと綱をおろしたのが見えた。浮き台までボートが戻ってきた。

「間違いなく亀だ。乗れよ。手伝ってくれ」

 わたしがオールを持ち、ハメットはボートに立って、木から綱を外した。綱がたいそう重かったので、船尾に繋ぎ留めようと移動したハメットは、うしろに倒れかかった。わたしが差し出したオールは、背骨をしたたかに打った。

 背中をさすりながらこちらを睨む。「おれが忘れないように言ってくれ」と言いながら、綱を船尾に結びつけた。

「忘れないように何を言ったらいいの?」

「おれに助けはいらない。もう長いことそう言おうと思っていた」

 岸に着くと、ロープをはずしたハメットは、地面の上を引っ張っていった。サルードと一緒のときに見かけたのより大きな亀が捕まえられている。頭をひゅっと突き出したので、わたしは後ろへ飛びすさった。ダッシュは身をかがめて尻尾をつかまえ、仰向けにひっくり返した。

「針がうまくいったんだ。このまま捕まえておける。家まで戻って車を取ってきてくれ」

「あなたひとりっきりにしておけないわ。あんなもの、ひとりでどうにかしようなんて……」

「行くんだ。亀は女じゃない。おれは大丈夫だ」

 わたしたちはリア・バンパーに亀をくくりつけると、砂ぼこりの舞う1キロ半の道のりを引きずって家に戻った。ダッシュは物置に斧を取りに行き、一緒に長くて太い棒を持ってきた。亀をもういちどひっくり返すと、棒をわたしにあずけ、こう言った。

「できるだけ後ろへ下がるんだ。棒を伸ばして、亀が食らいつくのを待て」

 わたしが言われたとおりにすると、亀が食いつき、斧が振り下ろされた。けれどもうまくいかない。亀がダッシュの腕に気がついて、素早く頭を引っ込めたからだ。わたしたちは五、六回やってみた。暑い日で、わたしが汗をかいているのはそのためだと思ったけれど、ともかく、ハメットが何かをやろうとしてうまくいかないときは、わたしはどうしたって心穏やかではいられないのだった。

「もう一回やってみよう」

 わたしが棒を出したが、亀は食いついてこない。それから食いついてきたのだが、ちょうどそのとき、わたしは棒を持ち直そうとして、手を下げていたのだった。亀は棒を離すと、わたしの手めがけて、見たこともない速さで飛びかかってきた。後ろへ飛び退いたとき、棒がわたしの脚に当たって、青あざを作った。ハメットは斧を下に置くと、わたしから棒を取り上げ、頭をふった。「あっちで横になったほうがいい」

 あっちへ行くつもりはない、と言うわたしに、ハメットはどこでもいいから行ってくれ、目の前から消えてくれ、と言う。どちらもするつもりがないわ、亀を斧で殺すことができなかったから、わたしに当たってるだけなんでしょ、とわたしは言い返した。

「撃つことにした。だが、腹が立っているのはそのせいじゃない。どうしたらいいか話し合ったほうがよさそうだ。君とおれとは。ずっとそう思ってたんだ」

「いま話せばいいわ」

「いや、いまは忙しい。どこかに行ってくれ」

(この項続く)


-----【今日の雑感】-----

塾の講師である学生が起こした事件について、思ったことなど書いてみようかと思う。

正直、今回の場合、最悪の形で起こったわけだけれど、何らかの事件がそのうち起こるとは思っていた。

思い起こせばわたしが初めて塾で教えたとき、前任者は生徒の頭をよく殴ったり小突いたりしていた、という話を小学生たちから聞いたことがある。引き継ぎで一度会っただけだけれど、小柄な、ミニスカートのかわいい、そんなことをしそうにもない女の子(当時わたしより年上だったけれど)だったから、ちょっと驚いた。ノートを見ても、どう考えてもまともな授業をしていたとは言い難い。なんだかな、と思った記憶がある。

学生のバイトというのは、学校の教師の能力に差がある以上に差がある。研修があったり、ガイドラインがあったりするにせよ、個々人の能力と資質に委ねられている部分が相当にある。当然、能力もなく資質もなく、さらに経験さえ乏しい学生が、大勢教壇に立っている。

当時に較べて、いまは塾もずいぶん淘汰されているから、おそらくは能力や資質の評価も、厳しいものになってはいるだろう。管理の側も、いつも授業を見て評価するわけにもいかない。生徒からの評価もひとつの基準になっている。

一方で、この生徒からの評価というのも、もちろん非常に微妙なものだ。評価をする側は自分の理解の及ぶ範囲でしか、相手を評価できない。自分より幼く、社会経験も少ない教えられる側からの評価が、万全のものではないことは、本人はわきまえておかなければならないし、当然、管理者の側も理解しているだろう。

ここでよくわからないのは、なんでたかだか小学生の評価に、そこまで度を失うか、ということなのである。
批判されれば、それを反省して、自分の軌道を修正するか、そうするまでもない、的はずれの批判(難癖)である、と無視するか。そのどちらかで良いではないか。なぜ、そのくらいのことで、そこまで追いつめられてしまうのだろう。

なんというか、ダメ出しをされたくない、嫌われたくない、悪く思われたくない、という気分が強すぎるような気がする。
なんでそうなっちゃうんだろう。

自分のやったことなしたことは必ず評価の対象となる。
プラスの評価ばかりではない。マイナスの評価を受けて、初めて自分の軌道の修正もできるのだし、足りない点も見えてくるはずだ。なぜ、たったそれだけのことがわからないのだろう。なぜ、いまのこれだけの自分をありのままに見極めながら、もっと自分を伸ばしていく、ということが考えられないのだろう。

わたしにはよくわからない。



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