陰陽師的日常

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フランク・ストックトン 「女か虎か」その1.

2006-01-18 22:05:49 | 翻訳
今日からフランク・ストックトン原作の短編「女か虎か」の翻訳をお送りします。
原作はhttp://www.classicshorts.com/stories/tiger.html
で読むことができます。

* * *

女か虎か


 今を去ることはるか昔、あるところに半ば未開の王がいた。王の想念たるや、はるか彼方で国境を接するラテンの国々のおかげで、いくぶんなりとも洗練され、鋭くはなっていたものの、残る半分は、いまだ大仰、けばけばしく、しかも放埒なもので、いかにも野蛮なその王らしいものであった。度を超して気まぐれで、それでいてだれも抗えぬほどの権力を持っていたので、思うがまま、さまざまな気まぐれを実行に移した。

王は他と心を通わせるということがなかった。しかも王自身が得心しないかぎりは決して執り行うことをしない。王家の者、まつりごとに連なる者、ことごとくが、命じられたとおりにつつがなく動いているかぎり、穏やかで温厚な王であった。だがひとたび、些細な悶着が起こったり、命に外れる者があれば、王の機嫌はなおのこと良くなる。委曲を糺し、平らかならざる箇所をならすことほど、王を喜ばせるものはなかったのである。

 王の野蛮さを半ば失わせた借り物の思想のうちに、大衆闘技場というものがあった。そこでは人間的かつ獣的な勇気ある行為が披露され、臣民の精神を洗練し、教化するというのである。

 だが、ここでも王の華やかで野蛮な気まぐれは、自己主張を止めないのだった。王の闘技場は建設されたが、それは人民に、死にゆく剣士の叙事詩を聞かせるためでもなければ、信仰と飢えた獣の顎が闘った、避けがたい成り行きを見せるためのものでもなく、人民の蒙を開き、精神を高めることに、はるかにふさわしい目的を持ったものだった。

この巨大な円形競技場は、観客席が囲み、神秘的な丸天井、見えないところにある通路をしつらえた、詩的な正義を遂行する場であったのだ。そこにあっては罪は罰せられ、徳は報いられる。それも公平にして清廉潔白なチャンスによって。

 ひとりの臣民が、王の興味を引くに十分なほどの重大な罪に問われると、おふれが出される。しかじかの日に、王の競技場において、被疑者なにがしの命運は決する、と。その建造物は、まさに王の競技場という名にふさわしいものであった。形状や図面は遠い国からの借り物ではあったが、その目的は、この王の頭脳より出でたものであったからである。全身どの部分を取っても王であった彼は、自分が忠誠を誓う伝統など認めず、気まぐれの充足の方をはるかに好み、ひとりひとりの人間の思考と行動のありように、自らの野蛮な理想から豊かに育った枝を接ぎ木しようとしたのである。

(この項つづく)


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