陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

フランク・ストックトン 「女か虎か」 その2.

2006-01-19 22:18:49 | 翻訳
 人々が残らず桟敷席に集結すると、王は進化に取り巻かれ、闘技場の一画にしつらえた、一段高くなった玉座に着いて、合図をする。すると、その真下の扉が開いて被疑者である臣下が円形劇場に出てくる。退路は断たれ、正面には、まったく同じ形をした隣り合うふたつの扉。その扉までまっすぐ歩き、一方を開くのが、審理に付された人間の義務であり、特権でもあるのだった。どちらの扉でも、望むままに開けてよい。いかなる手引きも干渉もなく、先にも言ったように、公平にして公正なチャンスに委ねられるのだ。

一方の扉を開ければ、飢えた虎、捕獲したなかでも、もっとも凶暴で残忍な虎があらわれて、瞬時に飛びかかり、犯した罪を罰するために、彼をずたずたに引き裂く。罪人が裁かれたそのとき、沈鬱な鉄の鐘は響きわたり、闘技場の外縁で待ち受ける、雇われの泣き女たちが大声で泣く。大勢の観衆は、若く麗しい、あるいは歳を経て敬われる人物が、おそるべき運命の手に落ちたことを知って、頭を垂れ、鉛の心を抱いて、悲しみつつ家路につくのである。

 だが、被疑者がもう一方の扉を開くと、そこからは女性が、王自らが由緒正しい臣下のうちより選んだ、被疑者の年齢や地位にもっともふさわしい女性があらわれ、彼が無実であることの報奨に、その場で結婚することになる。すでに彼が妻を娶り子を成していようが、自分で選んだ意中の女性と婚約していようが、そのようなことは問題にもならない。王はそのような下々の者どもの取り決めに、自分の懲罰や報奨の構想がさまたげられることなど、我慢ならないのである。

式典は、他の事例と同様、即刻この闘技場で執り行われる。玉座の下の扉がもういちど開いて、こんどは神父、それにつづいて一団の聖歌隊と少女舞踊団があらわれ、黄金の角笛で歓びの曲を鳴らし、調べに合わせて踊りながら歩を進め、並び立つ新郎新婦のところまで来ると、結婚式が速やかに、喜ばしく始まるのである。明るい真鍮の鐘が晴れやかに響きわたり、人々は歓びにあふれて歓声をあげる。無実の男は、花を撒く子供たちに先導されつつ、花嫁を我が家へと連れて帰るのである。

 これこそが裁きをつかさどる王の半ば野蛮の方法だった。非の打ちどころがないほど公平であることは明らかである。罪人は、どちらの扉から女性が出てくるのか、知りようがない。自分が選んだ扉を開ける、つぎの瞬間、貪り食われるか結婚させられるのか、いささかなりとも知る手だてはないのだ。場合によっては、一方の扉から虎があらわれ、また別の場合はそうではない。この法廷の決定は、公平であるばかりでなく、一点の曇りもないものであった。みずからの手で自身が有罪であることを選べば、瞬時に罰せられる。無罪であるなら、好むと好まざるとに関わらず、即座に報奨を受ける。王の闘技場の判決から逃れるすべはなかった。

 この制度は大変人気のあるものだった。この偉大な審判の日、集まってくる人々には、血塗られた虐殺の目撃者となるのか、華やかな結婚式に立ち会うことになるのか、いささかなりとも知ることはない。このわからなさ、という要素が、よそでは得られぬ興趣を添えるのだった。こうして民衆は楽しみ、喜び、この国の哲学者たちも、この企図に不公平であるという非難を投げかけることもできなかった。罪に問われた人物が、おのが手で一切を決することに、何の異論があろうや?

(この項つづく)


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