陰陽師的日常

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今日の出来事

2006-01-17 21:52:21 | weblog
【今日の出来事】~映画を観た

タイトルを書いたらトラックバックがまだまだいっぱい来そうなので、タイトルははずすのである。ヒッチコックに同名の映画がある、夫婦で殺し屋をやっている人たちの映画である。

殺し屋というのは興味深い職業だ。
http://www2.kobe-u.ac.jp/~akehyon/korosiya.htmlに、「殺し屋百人に聞きました」という実態調査(いったいどうやってコンタクトを取ったのだろう?)が載っている。中には組合幹部をしている「殺し屋」さんもいらっしゃるようで、想像をかき立ててやまないものがあるのだけれど、伝統的に、映画にはよく出てくる。小説に出てくる「殺し屋」というと、ヘミングウェイの短編の『殺し屋』と、あとはローレンス・ブロックの連作短編“殺し屋ケラー”のシリーズしか思いつかないのだけれど、わたしが知らないだけでエンターテインメントにはきっといっぱいあるだろう。

テロリストというのは、思想信条に基づいて人を殺す。
けれども、殺し屋には思想信条というものはない。純粋に金のために殺人を請け負う、ちょうど郵便配達夫が郵便を配達するように、職業として殺人を犯す。

ここで問題になってくるのが、殺人を犯すのは間違いなく重罪であり、非常にハイリターンであるけれど、それ以上にハイリスクであることが予想される、ということなのである。
今日の社会で、金銭がそこまでのモチベーションになりうるのだろうか、とここまで書いて、こういう発想そのものが、いかに金銭とは縁のない生活を送っているかを物語るものでしかないことに気がついた。いわゆる「お金持ち」というのは、お金を増やすことがおそらく生き甲斐なのだろうし、そういう人は「お金を増やす」というのは、極めて強力なモチベーションであることは言うまでもない。

ただ、「お金を増やす」ことを人生最大の目標としている人は、おそらく「殺し屋」家業に足を踏み入れることはないだろう。あまりにリスクが高すぎるし、もっと割のいい仕事はいくらでもあるような気がする。

むしろ金銭というよりも、困難な任務を成し遂げ(つまり、殺人そのものよりも、生きて、しかも捕まらずに生還するということ)、それを可能にする技術を誇り、その世界で評価されることこそが殺し屋の報酬なのではあるまいか。

つまりこれは一種の「ものづくり」のよろこびに近いものである。

ただし、「ものをつくる」ことと、人を殺すことには、本質的に大きなちがいがある。
人を殺すというのは、おそらく精神的にものすごくきつい、自分の感情のある種の部分を殺さなくてはやっていけないことだからだ。「仕事のよろこび」ということと殺人の間には、本質的に相容れないものがあるような気がする。

この点、思想信条ゆえに殺しをするテロリストの場合、合理化・正当化は非常に容易なのである。逆に言うと、テロリストは自分の自由意志で殺すわけではないのに対して、殺し屋はその仕事を請け負うかどうかは自分の選択に委ねられる(わたしが好きな「錆びついた銃弾」という映画では、殺し屋を演じるフォレスト・ウィテカーは、女と子供は殺さない、というルールを自らに課している)。

つまり、殺し屋というのは、絶えず「引き裂かれている存在」なのではないか、ということを考えていたのだ。
これは、いつかまたもうちょっと考えてみたい。

いや、映画がものすごくつまらなかったので……。映画を観ながらこういうことをずっと考えてました。
途中、捕獲した「人質」が国家機密に絡んでいるのではないか、と微かに期待して、それが裏切られたときは、ほとんど泣きそうになってしまった。

ま、いいんですけどね。
「スーツを着た殺し屋」を見に行って、その目的は果たしたわけですから。


はてさて、しばらくはまだ忙しいんだけど、暇ネタばかりやるのも飽きてきたので、明日からまた翻訳を始めていきます。
文学的なものをやるのはさすがに余裕がないので、比較的軽めの、英語もそれほどむずかしくないものになると思います。って、これから探すんですが。

それじゃ、また。

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