陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

メアリー・マッカーシー 『家族の友人』 その5.

2004-12-02 21:25:09 | 翻訳

 もちろん学生時代でも、最初から彼の性質には、何かをしつこく求めるようなところなどまったくなかった。抜きんでたい、輝きたい、だれよりも親しくなりたい、親友と呼ばれたい、だれよりも愛されたい、だれよりもオシャレでありたい、最高におもしろいヤツでありたい、そんな願いとは無縁だったのだ。ただそこにいるだけ、一緒にいるだけ、目立たない目撃者で十分だった。

どこの学校を出ていようと、エクセター(※私立の名門高校)であろうとP.S.12(※ブルックリンにある公立高校)であろうと、イェール大、アイオワ大、それともカーネギー工科大やシカゴ芸術大、 ハーヴァード・ビジネススクールであろうと、学生年鑑が編集されたとき、彼に引用句をつけてやろうとだれも思わないような学生だった。いま年鑑を開いてみれば、編集者が記念のコメントを入れ忘れて、彼の写真の下が空欄になっているのに気がつく。だがそれも、嫌われていたためではなく、彼のなかには焼けつくような渇望や鋭い観察力、集団に属する者が復讐のために刻印した、真のアウトサイダーであることを示す潜在的な不名誉(勉強好き、社会に無関心、エキセントリック、地質学の野外調査、野鳥観察会などという文言で用心深く隠されてはいるが)などというものはまったくなかったからである。

新入生勧誘の時期、彼はさほど気を揉むこともなければ、自信満々というわけでもなく、また無関心でもなかったために、結果的に多くの場合、期待していたところよりほんの少し良いフラタニティ・クラブに入会が認められた。みんなが興奮していたために彼が見落とされた場合でも、かならず救済措置がとられて、後に、一年生ではなく二年生で入会が認められることもよくあった。彼に与えられた「入会を歓迎します」の言葉は、早いときも遅いときもあったが、選ばれなかった者の間にささやかな動揺を引き起こさずにはおかなかった。というのも彼らは自分たちがまちがいなくフランシスよりは華やかであったり、見てくれが良かったり、金があったり、成績が良かったり、運動ができだり、酒が飲めたり、とにかく彼よりは価値があると考えていたからである。不可避的に、彼らは自分たちを侮辱するために、フランシス・クリアリィの入会が許されたのだと解釈する。いつ、いかなるときも、フランシス・クリアリィを選ぶのは、なにかを肯定するためではなく、それ以外のものを否定するためなのだ。

 それゆえに、わたしたちがいま話題にしている家族の問題で考えていくと、フランシス・クリアリィは夫にとってヒュー・コールドウェルの代役であるのに対して、妻にとってはフランシスの存在は、ヒュー・コールドウェルを完全に否定するためにあった。

グリニッジ・ヴィレッジの自室で、表面がでこぼこしたアームチェアに座っているコールドウェル氏は、自分がレイトン家に招待されなかったのは、亭主を昔からの騒々しい友だちに会わせまいとする嫌みな女房のせいだと考えて、みずからを慰める。だが、フランシス・クリアリィ――彼もまたジョン・レイトンの友だちで同い年――が立ち寄って、ちょうどレイトン家で開かれたカクテルパーティからの帰りがけだと話すのを聞くと、もはやコールドウェル氏がレイトンの女房の意図を見誤ることはない。排除されたのは、彼個人であり、フランシス・クリアリィをまじまじと見ては自問しないではいられない。
「こいつが持っていて、オレにないものというのは、いったいなんなんだろう」
それこそはまさしくレイトン夫人が意図したものにほかならなかったのである。

 この点に関して、読者はレイトン夫人にいったいどのような動機があったのだろう、と考えるかもしれない。いったいなんの理由があって、たいして知りもしない、もし彼がそう願ったとしても、ほんの些細な傷さえ与えることができないような人物を排斥するのだろう。
この疑問には、別の質問の形で答えるのが最良のようだ。
レイトン夫人の行動が不可解だ、そうまで言わずとも奇妙だ、と思う人間に、自分が妻の友だちがなぜ好きではないのだろうと自問させてみるのだ。
ほんとうに――というのも、彼はいつもそう自分に言い聞かせているからだが――妻の友だちがつまらないから、あるいは妻の悪いところを引き出すから、お金を浪費させるから、情事のことを考えさせるから、彼が知らない人やできごとを延々と話し続けるから、妻から金を借りるから、それとも妻の時間をあまりに奪うから、なのだろうか。それとも単に、率直に言って、夫はそうした人々に嫉妬しているのだろうか。

この説明もまた十分ではない。周囲を見回してみると、妻の友だちや親戚が家にいることを許さない夫が少なからずいるのだが、同じ人物が、妻の愛人に対しては、驚くほどの温情を見せたりするのである。また、妻の愛情をうんざりするもの、煩わしいものとして邪険に払いのけている夫もいるが、そうした夫たちは、にもかかわらず、あらゆる手段を用いて、妻がほかに愛情をそそぐ対象――いかなる観点から見ても――となるであろうもの、すなわち友だちとのつきあいを許すまいとする。
これは命令というよりも、羨望ではないのか。

疑い深い読者にも、妻と友だちの間に共通する資質があり、夫はその性質を持っていないということは認めてもらえるだろうか。この資質があったからこそ、最初は彼女に惹きつけられたのだが、夫はいまや妻の性格から、あらゆる痕跡を消し去ることにおそらくは成功しつつある。同じように、妻が若い詩人と結婚したのは、自分が知っていたどの男性とも彼が違っていたからだったのだが、その妻が、すぐに彼を広告業界に送り込むことに成功するか、最低限、神経症から立ち直らせて、その結果一年でひとつしか詩が書けないようなことにしてしまおうとするのである。

今日の競争社会にあって、愛とみなされているものは往々にして羨望であることが多い。
快活な女性と結婚する粘液質の夫は、ライバル企業を潰すためにその会社の株を買い占める実業家と同じ立場なのだ。最初は実業家も、ライバル企業がどうしても使用したい特許を持っているからだ、と自分を偽ろうとするのだが、すぐに、かつてそれほどまでに欲しかったその特許も、自分自身のプロセスと競っていただけだったことがわかってきて、特許も廃棄される運命にある。
自分のものでないものを所有することなど、結局、できはしない。
快活さや、金、尊敬を受けることも、才能も、結婚すれば自分自身のものにできるのではないかと思うのだが、後に気がついて驚くのは、自分の根本的な性質には受け入れることはできないということなのである。自分のものではないものをわたしたちはどうすることもできなくて、破壊する。快活さを削ぎ、金は使い、尊敬を受けるところは貶め、才能は霧散させる。この破壊作業を終えたとき、わたしたちは怒って見せることさえするのである――詩人の妻は彼がもう詩をかこうとしないと言って非難し、明るい娘の陰気な夫は集まりのなかで気の抜けたような彼女を叱責するのだ。

(この項続く)

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