陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

あなたのなかの「子供」―描かれた子供たち 2.

2007-01-27 23:05:51 | 
2.出会った子供

日常でもわたしたちはさまざまな場面で子供に出会っている。それでも、電車の中でやかましかったり暴れたりしない限りは、多くの場合、子供の存在が意識に上る以前に行き過ぎてしまう。
騒いだり暴れたりするなど、よくよくのケースをのぞけば、そこにいても気がつくこともない。

ところが子供と一緒に歩いてみれば、子供は、いち早くよその子供に目を留めているのに気がつく。意識して、ちらちら見合い、行き過ぎても振り返ってみている。

どうしてわたしたちは子供に気がつかないのだろう。

こんな経験はないだろうか。
犬を新しく飼うようになって、散歩につれて行く。
それまで見慣れた景色がまったくちがって見えるし、世の中にはこんなに大勢の人が犬を飼っていたとは夢にも思わなかった。
つまり、こんなふうに、わたしたちは半ば無意識のうちに、自分に関係あるもの-関係のないもの、というフィルターを通して外界を見ている。関係ないものは、意識がすくいあげないのだ。

となると、どうやらわたしたちは多くの場合、「子供」は関係がないものになってしまったらしい。

それでも、散歩をしていたら、途中で子供に出くわすこともある。

川端康成の『掌の小説』のなかにある「バッタと鈴虫」もそんな話である。
主人公が夕刻、散歩をしていると、子供たちがバッタ取りをしている。

そんななか、語り手の注意を引いたのは、ひとりの男の子だ。
その子は皆から少し離れてバッタを捕っている。

やがて彼は「バッタ欲しい者いないか!」と言う。みんなが集まっても、なおのことその言葉を繰りかえしたわけは、彼にはほんとうは目指す相手がいたからだ。そうして、そこでバッタではなく、ひそかに隠し持っていた鈴虫を、「バッタだよ」と念を押しながら、目指す女の子に渡す。
そうか! と私は男の子がちょっと憎くなると共に、始めてこの時男の子のさっきからの所作が読めた我が愚しさを嘆いたのである。更に、あっ! と私は驚いた。見給え! 女の子の胸を、これは虫をやった男の子も虫をもらった女の子も二人を眺めている子供達も気がつかないことである。
 けれども、女の子の胸の上に映っている緑色の微かな光は「不二夫」とはっきり読めるではないか。
川端康成『バッタと鈴虫』『掌の小説』(新潮文庫)

暗闇の中、提灯に書いた名前が相手の胸に映る。幻想的な光景であるが、当の子どもたちは気がつかない。気がつくのは、大人である主人公だけである。

ここでは、大人である主人公は、自分がアウトサイダーであること、子供たちの世界の外側にいる存在であることを知っている。だからこそ、彼らには気がつかないものが見える。

もし、主人公が子供の世界のなかにいたら、この幻想的な光景もそれと知ることはできない。一緒になって驚いたり、喜んだり、口惜しがったりするはずだ。
ここではすでに子供の世界にはいない、大人の目がある。

すでに自分はその世界にいないがゆえに、日常では気がつくこともない。
そうして、気がつくときは、その世界は一種のファンタジー、幻想的であり、夢のようでもある「お話」の世界なのである。

(この項つづく)


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