陰陽師的日常

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味の素の三段論法

2009-08-11 22:30:53 | weblog
いまでは「味の素」というと、メーカーの名前を指すことがほとんどだが、その昔、家庭には「味の素」というものがあった。お中元やお歳暮の季節には、食用油などと一緒に大きな赤い缶に入った味の素が届いていたし、台所には赤いキャップのついた小さな容器に入った味の素が置いてあった。当時はまだ「化学調味料」という言い方もされず、池田菊苗が昆布のうまみの素はグルタミン酸ソーダであることを発見し、それが味の素の素になった、ということが、子供向けの学習雑誌には書いてあった。何に使っていたのか、わたしはよく知らないのだが、醤油をかける前の白菜漬けのてっぺんに、白い味の素の粒が、ほんのちょっぴりのっていたことはよく覚えている。

それが、いまでは「化学調味料」ということで、すっかり敵役、「アミノ酸」とか「うまみ調味料」などと名前を変えても、肩身が狭くなってしまったようだ。逆にだしの素やインスタント食品には「化学調味料無添加」という言葉が麗々しく書いてあったりする。

ところで、「無添加」という表示は、よくよく考えてみると、不思議な表示である。
「添加物」に関して表示義務があるわけで、無着色にせよ、無添加にせよ、何も添加していないのだから、そんなことは書く必要がないのである。

おそらくこれは単にそういう事実のみを言っているのではあるまい。

 大前提:無着色・無添加のものは健康に良い
 小前提:このインスタント食品は無着色・無添加である
 結論:ゆえに、このインスタント食品は健康に良い

という三段論法の小前提の部分のみを取り出して、消費者に結論部分を導かせているのだ。

仮に、この三段論法の結論部分がパッケージに書いてあったとしよう。わたしたちの多くは「健康によい」とまで言うのは、言い過ぎだよ…と苦笑してしまうのではないか(でもないか。ダイエットに効く、とTVで言えば、あっという間に店頭から姿を消してしまうところを見ると、消費者の多くは、わたしが想像するよりはるかに信じやすいのだろうか?)。

ところが、必要のない事実言明を行うことによって、言わんとする結論を、消費者が自分で発見するよう促しているレトリックというのは、ずいぶん手の込んだやり方である。「味の素」こそいいつらの皮だ。

このように、ほんとうに言いたいことを隠して、小前提だけを言うことで効果をねらう、というレトリックは、わたしたちの身の回りにあふれている。
たとえば「誰それは某宗教団体の信者である」という言い方などはその顕著なもので、その「誰それ」を貶める、格好の手口である(「宗教団体」のほかに、ゲイ、ハゲ、女性であれば喫煙者、というのもあり)。そういうことを言う人は、「だって事実でしょ」と事実言明を装いながら、そんな人間は信用ならない、ということを言おうとしているのだ。そんな事実言明など、「化学調味料無添加」と一緒で、言う必要がないのだから。

さて、ほかにもよくあるレトリックに、大前提の省略、というのもある。

 小前提:彼は朝日新聞を読んでいる。
 結論:だからサヨクだ。

大前提にはもちろん「朝日新聞はサヨクだ」というのが来る。けれどもこれを言ってしまうと、朝日新聞がかならずしも「サヨク」ではないので(どう考えてもそうだ←別にわたしは朝日が特別好きなわけではないので、念のため。実は最近は新聞を読むのもたるくなってきていて、夕刊に月一で載る明川哲也の人生相談ぐらいしかまともに読んでいないような気がする)、ここに出てくる「彼」が「サヨク」であるためには別の論証が必要だ。けれども、大前提が隠されていることで、うっかり聞いていると、真に受けてしまうのだ。

とはいえ、日常的に、わたしたちはこの三段論法をきちんと話していることはない。

 大前提:人を手段として扱ってはいけない。
 小前提:A君は人である。
 結論:ゆえにA君を手段として扱ってはいけない。

などと三段論法にのっとって話をする代わりに、

「A君をお財布代わりにしちゃダメでしょ」

と言うのである。

不要な言葉は省略する。それがわたしたちの基本的な言葉の使い方だからだ。だが、いったい何が省略されているのか、逆に、本来なら言う必要のないことが言われているのはどうしてなのか、ときどき確かめてみることは必要なのかもしれない。

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