今日からリリアン・ヘルマンの『ペンティメント』のなかからもうひとつの短編、『ジュリア』を訳していきます。少し長いので、12日~二週間ほどかかるかと思います。少しずつ読みたくないという方は、二週間ぐらいしてまたのぞきに来てみてください。
ここではほとんどの名前は変えてある。もはや差し支えなどないのかもしれないけれど、列車に乗っていた太った娘はまだケルンで生活しているはずだし、いまなお、ドイツ人が早期のナチス反対勢力を、どこまで好ましいと思っているかよくわからないからだ。さらに考慮すべきは、ジュリアのお母様は生きていらっしゃるし、おそらくはジュリアの娘も生きているはずだ。娘の父親もサンフランシスコにいることはほぼまちがいない、とわたしは思っている。
* * *
1937年に『子供たちの時間』と『来るべき日々』を書き上げたのち、わたしはモスクワ演劇祭に招かれた。これまでこの旅行について書いたことはあったけれど、途中通っていったベルリンの部分はいつも省いてきた。というのもジュリアのことを書けるような気がしなかったからだ。
ドロシー・パーカーと夫のアラン・キャンベルも同じ年の八月にヨーロッパに行くことになっていたので、わたしたちは古色蒼然たるノルマンディー号にともに乗り込み、船旅を楽しんだ。もっともキャンベルは、人の良いふりをしながら、女性的な悪口を言い募るので、それには決まってうんざりさせられたものだったけれど。
パリに着いてからも、まだわたしはモスクワに行こうかどうしようか迷っていた。そこでぶらぶらしながら、ジェラルドとサラのマーフィ夫妻に初めて会ったり、スペインからやってきたヘミングウェイに会ったり、リング・ラードナーの息子ジェイムズ――間もなく国際旅団に加わり、数ヶ月後にはスペインでその生涯を終えることになる――に会ったりして楽しい日々を過ごしていたのだ。
わたしはマーフィ夫妻がすっかり気に入ってしまった。以前からあこがれてはいたし、興味もあったのだけれど、わたしから見て、上の世代に属するような人には思えなかった。ふたりは、おそらくカルヴィン・トムキンスがその伝記で言っているとおりの人々なのだろう(※カルヴィン・トムキンスは『優雅な生活が最高の復讐である』というタイトルで、このふたりの評伝を書いた)。ふたりの生き方には一種の様式美があった。ジェラルドはウィットに富み、サラは気品があって、しかも賢く、その夏は、息子をふたりとも亡くしたばかりだったにも関わらず、優雅で堂々とした物腰を失ってはいなかったのだ。けれどもわたしたちのつきあいも長い年月を経るうち、ほかの人たちが考えているほど申し分のないカップルではなく、何の問題も抱えていないというわけでもないのだ、と、わたしは思うようになる。終わりを迎えることになる――つまり、わたしたちの交際が途絶える、つまり、ジェラルドが亡くなる数年前、ということだ――よりかなり前に、ふたりの生活は、そのスタイルにがんじがらめになっているのではないか、と思うようになっていた。ライフスタイルというのは、それに意義を認める人にとっては大きな歓びにもなるのだろうが、ライフスタイルが要求する厳格なルールを受け入れ、それに従って生活する人々が、それに見合うだけの代償を、つねに得ているとは思えないのだ。
その夏のパリにはほかにも大勢の、有名人や大金持ちがおり、ドッティ(※ドロシーの愛称)はそうした人々に招かれて、ディナーや郊外での昼食会、また、やりもしないテニスや、泳ぎもしないプールに出かけていた。そのときも、それからのちも、みんながドッティのご機嫌をとろうとするのを、わたしはおもしろく眺めていた。彼女の礼儀正しさは、いささか度が過ぎていて、ある種、取ってつけたようでもあり、それは多くの場合、自分がおだててほしい、と思ったまさにそのとき、おべっかを使ってくる連中に対する軽蔑や嫌悪を隠そうとするためのものだったので、わたしは見ていて飽きなかったのだ。酔いの回ったドッティの礼儀正しさは度を超して馬鹿丁寧になり、ところがそうなったときの彼女の口調は滑稽かつ辛辣なもので、彼女自身が、そうしてわたしもそう思っていたのだが、もうだれも自分を仲間に入れることができるなどとは夢にも思わなくなってしまうだろう、と思っていたようだ。ところがそれはちがっていた。人々は仲間に入れられると思ったし、実際、何年もにわたってそうし続けたのである。だが、人々が受け入れたのは、彼女の人生のほんの一部だけで、最後には自分の道の途上で、ひとりきり、息絶えたのである。
(この項つづく)
リリアン・ヘルマン
ジュリア
ジュリア
ここではほとんどの名前は変えてある。もはや差し支えなどないのかもしれないけれど、列車に乗っていた太った娘はまだケルンで生活しているはずだし、いまなお、ドイツ人が早期のナチス反対勢力を、どこまで好ましいと思っているかよくわからないからだ。さらに考慮すべきは、ジュリアのお母様は生きていらっしゃるし、おそらくはジュリアの娘も生きているはずだ。娘の父親もサンフランシスコにいることはほぼまちがいない、とわたしは思っている。
* * *
1937年に『子供たちの時間』と『来るべき日々』を書き上げたのち、わたしはモスクワ演劇祭に招かれた。これまでこの旅行について書いたことはあったけれど、途中通っていったベルリンの部分はいつも省いてきた。というのもジュリアのことを書けるような気がしなかったからだ。
ドロシー・パーカーと夫のアラン・キャンベルも同じ年の八月にヨーロッパに行くことになっていたので、わたしたちは古色蒼然たるノルマンディー号にともに乗り込み、船旅を楽しんだ。もっともキャンベルは、人の良いふりをしながら、女性的な悪口を言い募るので、それには決まってうんざりさせられたものだったけれど。
パリに着いてからも、まだわたしはモスクワに行こうかどうしようか迷っていた。そこでぶらぶらしながら、ジェラルドとサラのマーフィ夫妻に初めて会ったり、スペインからやってきたヘミングウェイに会ったり、リング・ラードナーの息子ジェイムズ――間もなく国際旅団に加わり、数ヶ月後にはスペインでその生涯を終えることになる――に会ったりして楽しい日々を過ごしていたのだ。
わたしはマーフィ夫妻がすっかり気に入ってしまった。以前からあこがれてはいたし、興味もあったのだけれど、わたしから見て、上の世代に属するような人には思えなかった。ふたりは、おそらくカルヴィン・トムキンスがその伝記で言っているとおりの人々なのだろう(※カルヴィン・トムキンスは『優雅な生活が最高の復讐である』というタイトルで、このふたりの評伝を書いた)。ふたりの生き方には一種の様式美があった。ジェラルドはウィットに富み、サラは気品があって、しかも賢く、その夏は、息子をふたりとも亡くしたばかりだったにも関わらず、優雅で堂々とした物腰を失ってはいなかったのだ。けれどもわたしたちのつきあいも長い年月を経るうち、ほかの人たちが考えているほど申し分のないカップルではなく、何の問題も抱えていないというわけでもないのだ、と、わたしは思うようになる。終わりを迎えることになる――つまり、わたしたちの交際が途絶える、つまり、ジェラルドが亡くなる数年前、ということだ――よりかなり前に、ふたりの生活は、そのスタイルにがんじがらめになっているのではないか、と思うようになっていた。ライフスタイルというのは、それに意義を認める人にとっては大きな歓びにもなるのだろうが、ライフスタイルが要求する厳格なルールを受け入れ、それに従って生活する人々が、それに見合うだけの代償を、つねに得ているとは思えないのだ。
その夏のパリにはほかにも大勢の、有名人や大金持ちがおり、ドッティ(※ドロシーの愛称)はそうした人々に招かれて、ディナーや郊外での昼食会、また、やりもしないテニスや、泳ぎもしないプールに出かけていた。そのときも、それからのちも、みんながドッティのご機嫌をとろうとするのを、わたしはおもしろく眺めていた。彼女の礼儀正しさは、いささか度が過ぎていて、ある種、取ってつけたようでもあり、それは多くの場合、自分がおだててほしい、と思ったまさにそのとき、おべっかを使ってくる連中に対する軽蔑や嫌悪を隠そうとするためのものだったので、わたしは見ていて飽きなかったのだ。酔いの回ったドッティの礼儀正しさは度を超して馬鹿丁寧になり、ところがそうなったときの彼女の口調は滑稽かつ辛辣なもので、彼女自身が、そうしてわたしもそう思っていたのだが、もうだれも自分を仲間に入れることができるなどとは夢にも思わなくなってしまうだろう、と思っていたようだ。ところがそれはちがっていた。人々は仲間に入れられると思ったし、実際、何年もにわたってそうし続けたのである。だが、人々が受け入れたのは、彼女の人生のほんの一部だけで、最後には自分の道の途上で、ひとりきり、息絶えたのである。
(この項つづく)
gooブログで主に映画について書いておる者です。昨日映画「ジュリア」についての紹介記事をアップしたが、その中に陰陽師さんの親サイト「ghostbuster's book web.」から、「ペンティメント」の一文を引用させていただきました。
遅まきながら、ご報告させていただきます。
「ジュリア」についてネットを調べていて偶然辿り着いたわけですが、昔読んだ「ワインズバーグ・オハイオ」が最初に出てきたので嬉しくなりました。
読み逃げになると思いますが、またお邪魔します。
リンクをはってくださって、ありがとうございました。
邦訳の『ジュリア』(原題「ペンティメント」)は、長らく品切れ状態で、読みたくても読めない状況ですし、ひとりでも多くの方に、ヘルマンを知って欲しい、読んでいただきたいと思っていました。だから、こんなふうに読んでくださって、しかも紹介してくださって、とてもうれしく思っています。
わたしもヘルマンを最初に知ったのは、映画だったんです。
あの、低い声で最初に語られるエピグラムから始まって、最後まで一気に引き込まれていきました。
不器用そうなジェーン・フォンダが列車で運ぶところはドキドキしましたし、ナチス・ドイツが跋扈しているときに、反ナチ活動をしていたヴァネッサ・レッドクレーヴ゛が窓から放り投げられるシーンはほんとうに怖かったのを覚えています。ナチの支配下にある緊張感をよく伝えていた映画でした。
わたしたちは、軍事独裁政権下にある人びとの日常がどんなものか、知ることはできないわけです。けれども、よくできた映画を観ることは、その緊張感と苦しさの一端を味わうことができる。その経験は、いまのわたしたちには貴重なものではないでしょうか。
「ジュリア」とか「ミッシング」とか、そうした意味での怖い映画はいくつかありますけれど、ときどきそうした経験をして、いまの自分がどんなものを享受しているのか、知っておくことは大切だと思います。
もちろん、それだけでなくて、とってもよくできた話だと思うんですけどね。
読んでくださって、そうして、書き込みしてくださって、どうもありがとうございました。
また何かの折りにはよろしくお願いします。