あなたなら大工とセイウチ、どちらが好きですか?
これは『鏡の国のアリス』に出てくる、双子のトゥィードルディーとトゥィードルダムが暗唱する詩の話だ。(※全文訳はhttp://www.genpaku.org/alice02/alice02j.html#ch4で読むことができます。)
大工とセイウチが浜辺を散歩している。
セイウチはカキを散歩に誘い出す。最年長のカキはそれには乗らないが、若いカキたちはおめかしして足がないはずが靴まで履いて(!)いそいそと散歩についていく。
しばらく歩いたあと、大工とセイウチは石の上にこしかける。カキたちは待っている。
そこで「さあ親愛なるカキくんたちよ、よければ食事を始めよう」とセイウチは言う。
大工の方は、パンをもうひときれ、とか、バターを厚く塗りすぎた、というばかりでどんどんカキを食べていくのだが、
と涙を流しながら、カキを食べまくるのだ。
詩を聞いたアリスが、セイウチのほうがいい、カキをかわいそうに思ったから、と言うと、トゥィードルダムは、セイウチは大工よりたくさん食べた、ハンカチを口に当てて隠しながら、という。それを聞いてアリスはどちらがよりましか悩むのだが……という場面なのである。結局アリスは「どっちもずいぶんといやな連中で……」という結論に至るのだが、実際、同情もせず、ひたすらカキを食べまくる大工と、涙を流しながら、こっそり大工よりたくさん食べるセイウチと、どちらがいいか考える、というのも、不毛な話だろう。
ところがわたしたちはセイウチのようなことを日常的によくやっている。
昔、大学の寮にいるころ、裏庭に入りこんだ捨て猫に餌をやっていたところ、なつきだし、なついたのに気を許して畳敷きの部屋にあげたら、ノミだらけになって大変なことになった。すでに寮には二匹の猫がいたのだが、かわいそう、と言って、その猫をどうしても飼うと言い張った寮生が、バルサンだかダニアースだかを買ってきて、薫蒸を始めたとき、彼女は猫はかわいそうでも、ノミはかわいそうじゃないんだな、と、なんとなく奇妙な気がしたのだった。
わたしたちは一方で「かわいそう」と言いながら、平気でパクパク食べたり殺したりしているのだ。ただセイウチとちがっているのは、「かわいそう」と言っている相手と、殺したり食べたりしている相手がちがっている点だけだ。
ちょっと前にある作家が飼っていた猫が産んだ子供をつぎつぎに殺していた、とエッセイか何かに書いたとかで、ずいぶん問題になったらしい。わたしはそのことを人づてに聞いただけなので、なんとも言えないのだが、飼えない子猫を自分で殺す、というのは、ひとつの責任の取り方ではあると思う。アメリカで「猫が子を産んだなら、自分で飼うか、飼ってくれる人を捜すか、自分の手で溺死させなさい」と、子供向けの本か何かに書いてあるのを見て、ギョッとしたのだけれど、それでも、たしかに保健所などに連絡して、人に押しつけるよりはずっと筋が通っていると思ったのだった。
いまでは避妊・去勢手術を受けさせる方が一般的ではある。だが、昔、わたしの家にいた猫は、去勢手術のあと、死んでしまったことがあるので、それが最高の方法かと言われるとちょっとためらう気持ちがある。いまではそんなこともめったにないのかもしれないけれど。
食べることに関しては、たいていのわたしたちは大工のほうだ。できるだけ原型を想像させない肉や魚を、さらに原型を思い起こすことのないように、煮たり焼いたりして徹底的にもとの状態から変化させて、うまいうまいと食べている。
いくらベジタリアンだといっても、野菜を収穫するまでに、さまざまな「害」虫は殺しているはずだし、第一野菜だって「命」であることには変わりはない。
「かわいそう」という言葉は、自分以外の人に向けられた非難の一種だ。
「そんなことはかわいそう」という言葉が口元に浮かんでくるような場面に遭遇して誰かを非難したくなったら、わたしはセイウチじゃないのか、と考えることにしているのだ。
セイウチか大工か、どちらがいいか考えるのは不毛な話だが……わたしがカキだったら、セイウチにだけは喰われたくはないから。
これは『鏡の国のアリス』に出てくる、双子のトゥィードルディーとトゥィードルダムが暗唱する詩の話だ。(※全文訳はhttp://www.genpaku.org/alice02/alice02j.html#ch4で読むことができます。)
大工とセイウチが浜辺を散歩している。
セイウチはカキを散歩に誘い出す。最年長のカキはそれには乗らないが、若いカキたちはおめかしして足がないはずが靴まで履いて(!)いそいそと散歩についていく。
しばらく歩いたあと、大工とセイウチは石の上にこしかける。カキたちは待っている。
そこで「さあ親愛なるカキくんたちよ、よければ食事を始めよう」とセイウチは言う。
大工の方は、パンをもうひときれ、とか、バターを厚く塗りすぎた、というばかりでどんどんカキを食べていくのだが、
『かわいそうなきみたち』とセイウチ、
『心底同情してあげる』
セイウチ、嗚咽と涙に隠れつつ
選ぶはいちばん大きいカキばかり
ポケットからのハンカチで
涙流れる目を隠しつつ。ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』山形浩生訳
と涙を流しながら、カキを食べまくるのだ。
詩を聞いたアリスが、セイウチのほうがいい、カキをかわいそうに思ったから、と言うと、トゥィードルダムは、セイウチは大工よりたくさん食べた、ハンカチを口に当てて隠しながら、という。それを聞いてアリスはどちらがよりましか悩むのだが……という場面なのである。結局アリスは「どっちもずいぶんといやな連中で……」という結論に至るのだが、実際、同情もせず、ひたすらカキを食べまくる大工と、涙を流しながら、こっそり大工よりたくさん食べるセイウチと、どちらがいいか考える、というのも、不毛な話だろう。
ところがわたしたちはセイウチのようなことを日常的によくやっている。
昔、大学の寮にいるころ、裏庭に入りこんだ捨て猫に餌をやっていたところ、なつきだし、なついたのに気を許して畳敷きの部屋にあげたら、ノミだらけになって大変なことになった。すでに寮には二匹の猫がいたのだが、かわいそう、と言って、その猫をどうしても飼うと言い張った寮生が、バルサンだかダニアースだかを買ってきて、薫蒸を始めたとき、彼女は猫はかわいそうでも、ノミはかわいそうじゃないんだな、と、なんとなく奇妙な気がしたのだった。
わたしたちは一方で「かわいそう」と言いながら、平気でパクパク食べたり殺したりしているのだ。ただセイウチとちがっているのは、「かわいそう」と言っている相手と、殺したり食べたりしている相手がちがっている点だけだ。
ちょっと前にある作家が飼っていた猫が産んだ子供をつぎつぎに殺していた、とエッセイか何かに書いたとかで、ずいぶん問題になったらしい。わたしはそのことを人づてに聞いただけなので、なんとも言えないのだが、飼えない子猫を自分で殺す、というのは、ひとつの責任の取り方ではあると思う。アメリカで「猫が子を産んだなら、自分で飼うか、飼ってくれる人を捜すか、自分の手で溺死させなさい」と、子供向けの本か何かに書いてあるのを見て、ギョッとしたのだけれど、それでも、たしかに保健所などに連絡して、人に押しつけるよりはずっと筋が通っていると思ったのだった。
いまでは避妊・去勢手術を受けさせる方が一般的ではある。だが、昔、わたしの家にいた猫は、去勢手術のあと、死んでしまったことがあるので、それが最高の方法かと言われるとちょっとためらう気持ちがある。いまではそんなこともめったにないのかもしれないけれど。
食べることに関しては、たいていのわたしたちは大工のほうだ。できるだけ原型を想像させない肉や魚を、さらに原型を思い起こすことのないように、煮たり焼いたりして徹底的にもとの状態から変化させて、うまいうまいと食べている。
いくらベジタリアンだといっても、野菜を収穫するまでに、さまざまな「害」虫は殺しているはずだし、第一野菜だって「命」であることには変わりはない。
「かわいそう」という言葉は、自分以外の人に向けられた非難の一種だ。
「そんなことはかわいそう」という言葉が口元に浮かんでくるような場面に遭遇して誰かを非難したくなったら、わたしはセイウチじゃないのか、と考えることにしているのだ。
セイウチか大工か、どちらがいいか考えるのは不毛な話だが……わたしがカキだったら、セイウチにだけは喰われたくはないから。
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