一昨日の話の続きなのだが、確かに、ときどき「自分は頭が良い」と主張する人はいる。まあ、あからさまにそう言う人は、あまり賢そうには見えないので(笑)、実際には三段論法の小前提をいうわけだ。曰く、どこそこの大学を出た、センター試験で××点を取った、偏差値がどれだけあった、自分のIQはどれだけある……。
そんな話はいずれも
大前提:偏差値が75以上ある人は頭が良い
小前提:わたしは偏差値が75だった
結論:わたしは頭が良い
の小前提なのだが、実際に彼もしくは彼女が主張したいのは結論部なのである。
ところで、「頭が良い」というのは、いったいどういうことだろう?
わたしたちはしばしば、誰それは頭が良いとか、有名大学出身らしいが頭の良さはそれほどでもない、とかと口にする。中には、頭の良さと、大学出か否かは関係ない、という人とか、勉強をやらなくったって頭が良い人は良い、とか、まあいろんなバリエーションがあるのだが、どうもわたしたちは「頭の良さ」という言葉で一定の意味が伝えられると考えているらしい。
だが、ほんとうに、たとえば液体が「酸性かアルカリ性か」というように、人間の「脳」が「頭の良い脳」「頭の悪い脳」という具合に分かれているのだろうか(ここでは病気や外傷による脳の損傷は除くものとする)。あるいは ph の濃度を測るように、「頭の良さ」を測ることができると考えているのだろうか。
確かに偏差値や試験の点数、あるいはIQなど、「客観的な指針」はあるにはあるけれど、どうも、ここでもわたしたちは原因と結果を取り違えているような気がするのだ。
たいてい学生時代の偏差値や点数を口にする人は、いま本人が納得する地位にはいないことが多い。いまのステイタスが自分にふさわしいと思っていないから、自分がふさわしいと認める過去の実績を口にする。
だが、わたしたちが目にするのは、現在の彼や彼女の地位であり仕事ぶりである。過去の数値を口にされても、わたしたちは説得されない。
逆に、わたしたちが「頭が良い」と思うのはどんなときなのだろう。
たとえば、水際立った仕事ぶりを見せる人がいる。雑然としたさまざまな数値を統計へとまとめあげ、さらにそれをグラフ化し、綜合することによって、それ自体では意味のない情報の断片が、みごとな分析へとまとめあげられている。わたしたちはそうした報告書を見て、ほれぼれし、つぶやく。
「ああ、あの人は頭が良いなあ」
あるいは。
これまで誰も思いつきもしなかったアイデアを出す人がいる。みんな、それを聞いて、目からウロコが落ちる思いだ。ああ、こんな考え方があるなんて、夢にだに思わなかった。すばらしいアイデアだ。「ああ、あの人はほんとうに頭が良いなあ」
つまり、「頭の良さ」という「何ものか」が水際だった仕事をさせたり、誰も思いつきもしないアイデアを思いつかせたりするのではなく、わたしたちはある種の行為の特徴をとらえて、「頭が良い」というカテゴリーに分類しているのである。
当然ながら、この「頭が良い」のカテゴリーは、かなり幅が広い。しかもその人が生活する環境によって、何をそこに加えるか、差が生じる。たとえばアフリカのサバンナで生活する人びとにとっての頭の良さは、複雑な微分方程式を苦もなく解くことではなく、風に潜む獣のにおいを察知することかもしれない。わたしたちは「頭の良さにもいろいろある」と言うけれど、「頭の良さ」がいろいろあるわけではなく、わたしたちはさまざまな行為を「頭が良い」カテゴリーに分類していく、というだけの話なのである。
確かに、人の能力は同じではない。生まれつき走るのが速い人、練習すればするだけどこまでもタイムを縮めることができる人、足の遅い人、練習しても一向にタイムが縮まない人、短距離が得意な人、中距離が得意な人、トラックを走っているときは、凡庸なタイムしか出せないのに、マラソンになると恐るべき強さを発揮する人。
「走る」という一事をとってみても、ちょっと考えただけで、わたしたちの能力はこんなにも差がある。能力の優劣ばかりではない。生まれた場所、育った環境にも優劣がある。けれども、間違いなく言えることは、その優劣が、そのまま人間の優劣になるわけではない、ということだ。
誰もが親から受け継いだ資質や、生まれ落ちた環境が定めた自分のままではいられない。経験を積みながら、自分を作っていくしかない。自分がある面では人より優れていると思えば、さらに新しい場へ移って、そこで自分を試してみる。すると、そこには自分よりはるかに優る人がいるだろう。確かにそれは苦い経験ではあるけれど、そのとき人は、もっと優れた人を知る経験でもあり、自分の視野を広げ、経験を深めていく機会でもある。そうやって、もう一度、自分を組み立て直していくしかない。
もし仮に、人間に優劣があるとしたら、自分を組み立て直さなければならない時期にそれをせず、過去のある出来事を後生大事に握りしめ、ことあるごとに水戸黄門の印籠のごとく「小前提」とふりかざす、そんな生き方ではないかとわたしは思うのだけれど、どうだろうか。
そんなふうに考えていくと、「頭が良い」とか「悪い」とかというのは、およそどうでもいいことのように思えてくる。
そんな話はいずれも
大前提:偏差値が75以上ある人は頭が良い
小前提:わたしは偏差値が75だった
結論:わたしは頭が良い
の小前提なのだが、実際に彼もしくは彼女が主張したいのは結論部なのである。
ところで、「頭が良い」というのは、いったいどういうことだろう?
わたしたちはしばしば、誰それは頭が良いとか、有名大学出身らしいが頭の良さはそれほどでもない、とかと口にする。中には、頭の良さと、大学出か否かは関係ない、という人とか、勉強をやらなくったって頭が良い人は良い、とか、まあいろんなバリエーションがあるのだが、どうもわたしたちは「頭の良さ」という言葉で一定の意味が伝えられると考えているらしい。
だが、ほんとうに、たとえば液体が「酸性かアルカリ性か」というように、人間の「脳」が「頭の良い脳」「頭の悪い脳」という具合に分かれているのだろうか(ここでは病気や外傷による脳の損傷は除くものとする)。あるいは ph の濃度を測るように、「頭の良さ」を測ることができると考えているのだろうか。
確かに偏差値や試験の点数、あるいはIQなど、「客観的な指針」はあるにはあるけれど、どうも、ここでもわたしたちは原因と結果を取り違えているような気がするのだ。
たいてい学生時代の偏差値や点数を口にする人は、いま本人が納得する地位にはいないことが多い。いまのステイタスが自分にふさわしいと思っていないから、自分がふさわしいと認める過去の実績を口にする。
だが、わたしたちが目にするのは、現在の彼や彼女の地位であり仕事ぶりである。過去の数値を口にされても、わたしたちは説得されない。
逆に、わたしたちが「頭が良い」と思うのはどんなときなのだろう。
たとえば、水際立った仕事ぶりを見せる人がいる。雑然としたさまざまな数値を統計へとまとめあげ、さらにそれをグラフ化し、綜合することによって、それ自体では意味のない情報の断片が、みごとな分析へとまとめあげられている。わたしたちはそうした報告書を見て、ほれぼれし、つぶやく。
「ああ、あの人は頭が良いなあ」
あるいは。
これまで誰も思いつきもしなかったアイデアを出す人がいる。みんな、それを聞いて、目からウロコが落ちる思いだ。ああ、こんな考え方があるなんて、夢にだに思わなかった。すばらしいアイデアだ。「ああ、あの人はほんとうに頭が良いなあ」
つまり、「頭の良さ」という「何ものか」が水際だった仕事をさせたり、誰も思いつきもしないアイデアを思いつかせたりするのではなく、わたしたちはある種の行為の特徴をとらえて、「頭が良い」というカテゴリーに分類しているのである。
当然ながら、この「頭が良い」のカテゴリーは、かなり幅が広い。しかもその人が生活する環境によって、何をそこに加えるか、差が生じる。たとえばアフリカのサバンナで生活する人びとにとっての頭の良さは、複雑な微分方程式を苦もなく解くことではなく、風に潜む獣のにおいを察知することかもしれない。わたしたちは「頭の良さにもいろいろある」と言うけれど、「頭の良さ」がいろいろあるわけではなく、わたしたちはさまざまな行為を「頭が良い」カテゴリーに分類していく、というだけの話なのである。
確かに、人の能力は同じではない。生まれつき走るのが速い人、練習すればするだけどこまでもタイムを縮めることができる人、足の遅い人、練習しても一向にタイムが縮まない人、短距離が得意な人、中距離が得意な人、トラックを走っているときは、凡庸なタイムしか出せないのに、マラソンになると恐るべき強さを発揮する人。
「走る」という一事をとってみても、ちょっと考えただけで、わたしたちの能力はこんなにも差がある。能力の優劣ばかりではない。生まれた場所、育った環境にも優劣がある。けれども、間違いなく言えることは、その優劣が、そのまま人間の優劣になるわけではない、ということだ。
誰もが親から受け継いだ資質や、生まれ落ちた環境が定めた自分のままではいられない。経験を積みながら、自分を作っていくしかない。自分がある面では人より優れていると思えば、さらに新しい場へ移って、そこで自分を試してみる。すると、そこには自分よりはるかに優る人がいるだろう。確かにそれは苦い経験ではあるけれど、そのとき人は、もっと優れた人を知る経験でもあり、自分の視野を広げ、経験を深めていく機会でもある。そうやって、もう一度、自分を組み立て直していくしかない。
もし仮に、人間に優劣があるとしたら、自分を組み立て直さなければならない時期にそれをせず、過去のある出来事を後生大事に握りしめ、ことあるごとに水戸黄門の印籠のごとく「小前提」とふりかざす、そんな生き方ではないかとわたしは思うのだけれど、どうだろうか。
そんなふうに考えていくと、「頭が良い」とか「悪い」とかというのは、およそどうでもいいことのように思えてくる。
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