陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

早く、短く

2010-09-27 22:43:01 | weblog
考えてみれば、ほんの数年前のことなのに、ひどく昔のことのように思えてしまうのだが、Eメールという言葉がまだ生きていたころの話だ。

そのころ、Eメールは感情的になりやすいので、一晩置いてから送信した方がよい、ということを何度か読んだことがある。なぜ感情的になりやすいかを説明する本も、何冊か出ていたような気がする。

ほんとうに感情的になるのかどうなのかは定かではないのだが、確かに、パソコンだと手書きよりも簡単に文章が作れるし、考えるのとほとんど時間差なく、文書成形が可能だ。そう考えていくと、頭の中から出てきて、まだ熱を持った状態のままの文章が、そのまま相手に届くのかもしれない。

手紙でも日記でもそうだが、夜中に書いたものを翌朝読み直すと、ワッ、ギャッと言いたくなる。なぜ前の晩にそんなものを平気で書いてしまうのかというと、やはり、ひとり、頭の中で、現実の介入も受けずにあれこれ考えていると、思考が暴走してしまうのだろう。そうして、一晩置いて、つまりは十時間ほどインターバルを置くことによって、「その文章を書いたわたし」と、「寝て起きたあとのわたし」は少しだけちがう人間になっている。だから、熱を持ったままの頭で読み返したときには決して気がつかない、思考や感情の暴走が、容易に見て取れるのだろう。

手書きより簡単なメールとなると、この暴走にも加速度がつくのだろうか。確かにわたしも、自分の頭の中であれこれと考えたあげく、すっかり暴走してしまい、そのままメールを出して恥ずかしい思いをした経験があって、以来、その面ではずいぶん慎重になった。単に自分の思考の暴走しやすさに気がついただけかもしれないが。

最近、メールの主流はパソコンから携帯に移ったのかもしれない。わたしは携帯をポチポチ打つのが苦手なので、携帯メールをほとんど使わないのだが、周囲を見ていると、普通なら電話をかけるようなところでも、メールを送っている。そうして、送ったと思うが早いか、着信音がなり、返信されているようすなのである。「一晩置く」どころではないのだ。

「明日の待ち合わせはどこでする?」
「図書館の前」

「今日はお疲れさま。ゆっくり休んで」
「ありがとう。じゃ、明日また」

こうしたメールのやりとりなら、瞬時の送信-返信で十分なのかもしれない。

だが、どうもこうしたやりとりに慣れていないわたしは(ええ、旧世代の絶滅危惧種なんでしょう)、なんだかな、と思うのである。

そんな短いやりとりなら、わざわざ文字を打たなくても、電話したらよくないか?
電話だと、そんな短いやりとりは、不可能かもしれないが。もう少しあれやこれや言わなければならない、それが面倒で、そんな短いやりとりになっているのかもしれない。

そもそも文章を書くということは、書きながら考え、自分の考えを文字にして確かめ、さらにそこから考えていくということだとわたしはこれまで思ってきた。だから、現実のリアリティの介入がなくなれば、この自分との対話がどんどん暴走してしまうことにもなるのだ。

ところが、フラッシュが瞬くようなメッセージが届き、それに条件反射のように答える。最近では「予測変換」なる機能まであるから、言葉を考えることすら必要ない。いくつかある中から、パッパッと選んでいくわけだ。

おそらく、こんな言葉をこんなふうに使っていたら、わたしたちの思考もずいぶん変わっていくだろう。「一晩置いて」なんてことが死語になる人は、あとで、ワッ、ギャッ、となるようなメールは送信しないですみそうではあるが。




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