陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

リリアン・ヘルマンについて その1.

2005-12-14 22:47:16 | 翻訳
以前、某所でこうした文章を書いたことがある。

十八歳でした。
漠然と父親と同じ道を歩んでいきたいとは思っていましたが、その一方で、親元を離れたくもありました。具体的にどうしたらいいのか、父親は身近過ぎるだけに、かえって聞くこともできず、まして学校の進路指導=受験指導の教官に、聞くべきことはもとより、言うべきことばもなかったのです。
溢れるような思いと、鬱屈を抱えていました。まったく根拠のない自信と野心、それと背中合わせの、自分になど何もできるはずがない、という卑屈な気持ちと。

そんなころ、学校の帰り、日課のようになっていた駅前の本屋に入りました。
新しく入った文庫を、何気なく手に取り、初めの、エピグラム風の一節を読み始めました。

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 カンヴァスに描かれた絵の、古くなった絵具が年月のたつうちに透明になってくることがある。すると、絵によっては一番はじめに描かれた線が見えてくる。女のドレスの下から樹が姿を現わし、子供の姿の向こうに犬が居り、一隻の大きな船が浮かんでいるのは、もはや大海原の上ではない。この現象はペンティメントと呼ばれる。描いた人間がもとの絵を「後悔」(リペント)し、心変わりしたということである。言い換えれば、昔抱いた考えは、後に変わることがあっても、また姿を現わし、再び現われてくるものだと言えるかもしれない。
    リリアン・ヘルマン『ジュリア』(原題 Pentimento)大石千鶴訳ハヤカワ文庫
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自分の、カンヴァス。
いくつもの色が重ねられた。
そうして、これからも重ねられていく。
そうしたのちに、古い線が浮かび上がってくるのか。いま抱えるこうした鬱屈も、あふれるような思いも、時のなか、消えるのではなく、“ペンティメント”として、ふたたび立ち現れてくるのか。

そうして、わたしは進路を決めました。たぶん、それはことば本来の意味での「進路」だったと思います。

それからいろいろあって、そのとき思った方向とはずいぶん違うほうへ来てしまいました。
けれども、ヘルマンが言ったように、古い線は、いまもわたしの絵の中に残っているのだと、そして、いま、このときにも重ねていく線も、色も、決して消え去ることはなく、残っていくのだと思います。

それ以前にも、そのあとにも、名作と呼ばれる本、世界を動かしたような本も、何冊も読みました。
そうした名作、傑作に較べれば、ささやかな本です。この書をめぐる毀誉褒貶も知りました。
それでも、「人生を変えた」というのは、ある意味で気恥ずかしくなるようなことばだけれど、そう問われてなにか一冊上げるとすれば、この本、この一節だと思います。


いささか感傷的なところがうっとうしくもあるのだが、これがわたしのリリアン・ヘルマンとの初めての出会いである(ただし最初に読んだのは十七歳の間違い)。

自分にとって重要な作家というのは、当然ひとりではないし、研究対象とする作家は、必ずしも好きである必要はない。ヘルマンはおそらくは二十世紀を代表する作家/劇作家ではないだろうし、文学史的に大きな意義を持つ作家であるとも言えない。

けれども、それは、たとえば好きになってしまう相手が、世界で一番ハンサムで、世界で一番カッコイイ、というわけではないにしても、そこには何かがあって、どうしようもなくひきつけられてしまう、というのと一緒なのだ。そのときだって、心の一部ではフォークナーとか、ナボコフとかのほうが、もっとずっとすごい作家だと思っていた。フローベールとか、トルストイとか、漱石とか、神様のように崇めている作家もいた。けれども、そうした作家を崇めることと、ヘルマンが好き、というのは、まったくちがうことなのだ。つまり、その作品を通して、自分に会う、という。

わたしとヘルマンはまるでちがう。生きた時代も、国も、育った環境も、いわゆる性格というものも、まるでちがう。それでもその作品を読むことによって、わたしはその中に自分自身を、そうして自分の声を見つけたのだ。

それからずいぶん歳月が過ぎ、翻訳と称するものもやるようになった。
そこで、もういちど、ヘルマンを読んでみたい、と思ったのだ。

冒頭のエピグラムの原文は以下のもの。

Old paint on canvas, as it ages, sometimes becomes transparent. When that happens, it is possible, in some pictures, to see the original lines: a tree will show through a woman's dress, a child makes way for a dog, a large boat is no longer on an open see. That is called pentimento because the painter "repented,"changed his mind. Perhaps it would be as well to say that old conception, replaced by later choice, is a way of seeing and then seeing again.
 That is all I mean about the people in this book. The paint has aged and I wanted to see what was there for me once, what is there for me now.'

わたしだったら、こんなふうに日本語にしてみたい。

カンヴァスに塗った古い絵の具は、歳月を経るうちにすきとおってくることがある。そうした変化が生じると、絵によっては最初に描かれた線が見えてくる。一本の樹が女のドレスごしに浮かび上がり、子供の姿は犬に場所を明け渡し、大きな舟は、もはや大海原を漂ってはいない。これがペンティメントと呼ばれるのは、画家が「後悔(リペント)」し、自分の考えを変えたからだ。このことは、おそらく、こうも言えるのかもしれない。かつて心に抱いたものは、その後、選択したものに置き換えられることがあったとしても、どうしても見えてくるし、これからのちもふたたび現れてくるのだ、と。
 この本のなかに現れる人々についてわたしが言いたかったのは、そういうことだ。この絵も歳月を経て、かつてそこに何があるとわたしが思ったのか、いまのわたしにとって、何があるのか、見てみたかったのだ。

明日からこの"Pentimento"から"Turtle"の章を訳してみる。
(この項続く)


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