陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

リリアン・ヘルマン 「亀」 その1.

2005-12-15 22:38:32 | 翻訳
五時に眼が覚めたわたしは、二、三時間、釣りをすることにした。霧がたちこめる美しい朝、ボートを漕いで釣り船まで行き、そこからマーサズ・ヴィンヤード島に沿って、波の高いウェスト・チョップ岬まで進む。タシュムー湖に向かって北上していると、ヒラメの群れが泳いでいく、静かだが、潮の流れの速い場所を見つけた。わたしは釣り糸を二本垂らして、コーヒーを入れた。ひとり釣り船に乗って、陽の光があたりを照らすまで、ほかの船の影も見えないあいだは、決まって子供のように幸せな気持ちでいっぱいになる。

一時間ほどのあいだに、ヒラメを9匹とヘレンがチャウダーにほしがりそうなカンダイを2匹釣ったので、家に戻って仕事をする前に泳ぐことにした。釣り船は波の高い岬の方へ流されていたが、こんなことは初めてではなく、わたしも十分に用意はしていた。1㎏ほどの石を長いロープで結わえ、それを持って船の梯子を降りて引っ張っていき、その近くで泳ぐようにするのである。

自分が泳いでいるのではなく、信じがたいほどの速さで流されている、これまで見たこともないような潮流に巻き込まれていることに気がつくまで、どのくらいの時間が過ぎただろうか。釣り船も、もちろんわたしと一緒に流されていたが、沖へと向かう高い風が、釣りをしていた場所から、深い海の方に押し流していた。わたしにはどうすることもできない。船まで泳ぐこともできなかったし、激しい潮流に抗することもできなかったのだ。

そのあとしばらくのことは、ほとんど記憶がない。ただ、あおむけになったまま、恐怖というのは必ずしも言われているようなものではないことを理解したのを除けば。しばらくわたしは身体がこわばってしまって、波が顔を洗うに任せていた。そのうち身体が動くようになると、潮に流されて自分がどこへ行くのか、なんとか知ろうとした。けれども頭を持ち上げようと身体をひねると、こんどは沈んでしまい、ふたたび浮かび上がったときには岸が見えないことなど、どうでもよくなってしまった。水というものが、これまで生きてきたあいだずっと、自分そのものであったように思え、惨めったらしくもがくこともなく、静かに逝くだけの意識がはっきりしているのなら、こういう死に方も悪いものではないなと考えていたのだ。

しばらくして――それがどのくらいあとなのかよくわからないのだけれど――ウェスト・チョップの桟橋の杭に頭がぶつかったので、わたしは腕をのばして柱に回し、わたしたち三人のことを、何もかも思い出したのだった。あの亀が死んで四日後に交わした会話のなかで、わたしがハメットに言った言葉だ。「あなたたちはわかりあったんだわ。亀はなにがあっても生き抜いたのだし、あなたもそう。だけど、わたしはどうなのかしら」

 ハメットが答えなかったので、わたしは夜になってからもういちど聞いてみた。「わからない」とハメットは答えた。「そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。ぼくが意見を言ったところで、それが何になる?」

 杭につかまったまま、死んでから二十六年がたつ亀のことを、死んで五年になる人間と話していたのだった。

(この項つづく)

----【今日の悩み相談】-----

地味に、社会の片隅でひっそりと生きているわたしだが、それでもつながりのある場所はいくつかあるので、それぞれから忘年会の誘いがある。忘年会はなんとしても楽しくやりたい、という人と、一応、つきあいだから、と言いながら、それなりに楽しむ人と、そういうことがめんどくさいが、参加する以上は楽しもうとする人と、参加したくないのに嫌々参加した、という人と、参加しない人に分かれるような気がする。

小さな楽しみというのは、生きていくうえでありがたいものだけれど、どうしても楽しみたい、とは思わない。楽しみというのは、不意に訪れるもので、自分から見つけに行くようなものではないような気がするから。

純粋に、そういう場を楽しめる人がうらやましい。普段とうってかわって、どうにも手がつけられなくなるほど自分を解放できる人がいるのだけれど、アルコールが入ると、開放的になるよりも先に、脳貧血を起こしてしまうわたしは、いつもウーロン茶片手に、嫌々参加した、というふうに見えなければいいな、と思っている。八方美人のつもりではないのだけれど(もちろん八方がつかないほうのそれでもないけれど)、座を白けさせるやつにもなりたくない。そこらへんがむずかしい。

おまけに何度か出るうちに、だんだんコツをつかんできたころ、その年が終わり、また飲み会とは縁のない生活が続き、一年たったころには、去年せっかくつかみかけていたコツも、ふたたびすっかり忘れて、またゼロからのスタートだ。毎年この時期になると「賽の河原」という言葉を思い出すわたしなのだった。

何かいい方法はないでしょうか。


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2 コメント

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anytime anywhere (helleborus)
2005-12-17 15:47:47
飲めない私も飲み会はいつも気重です。飲みつぶれて寝てしまう人を真似てみたいと思うものの、飲んでもいないのに開始早々から寝るなんて許されないし。盛り上がりが足らんなと誰かが言えば、『神輿担いでいるわけじゃあるまいし……』と密かに思いつつ。

でも、飲み会を楽しめないのは、お酒が飲めないことより会話が弾まないことのほうに、よるところ多い気がします。異性、芸能、スポーツ界、流行、その辺に関心がないと、ふられた話を居合い抜きで切り落とすことに。



> 何かいい方法はないでしょうか。



共通の話題を持たない人が場を席巻する話題を提供した例を二つ紹介します。

一つ目は手品。手品というより箸袋や硬貨を使った小手先の技でした。簡単に見破られたり実演に失敗したりするほうがウケるので、練習不十分でOKでしょう。

二つ目はクイズ。比較的簡単な頭の体操的なものが好評でした。たとえば「5リットルと3リットルのバケツ2つで、ちょうど4リットルを量りだすには?」というような問題。

「13枚ある硬貨の中の1枚が贋物である。贋物は本物と重さが異なる(重いか軽いかは不明)。秤を使って贋硬貨を探し出せ。ただし秤は3回しか使えないものとする」

という難しい問題が出された時は、皆が黙りこくってしまい、その飲み会は静かに時間だけが流れていました。

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どんなときもコミュニケーション (陰陽師)
2005-12-18 08:11:38
伝えるべき情報というのが決まったコミュニケーションというのは、ある意味、簡単なものです。いわゆる「コード・モデル」ってやつですね。荷物のやりとりにたとえられることも多い。情報が送り手と受け手の間でやりとりされる。



けれども多くのコミュニケーションというのは、そうではない。

ポール・グライスという人がいるんですが、この人はコミュニケーションというのは、何かを伝えようとするだけではなく、伝えようとしている意図も同時に伝えようとしているものだ、と言ったわけです。



事実、わたしたちは日常的にその双方をコミュニケーションとして発信しているし、受信もしてもいる。発せられた言葉の背後に、「この人はいったいどう思ってこういうことを言っているんだろう」と思うし、さらには、この人はどんな人なんだろう、という推論をたえず行っている。



だから、同じことをしても、同じことを言っても、受け手が感じる印象というのは、「だれがするか」「いつ、どんな情況でそれをするか」によってまったく異なってくるんです。



忘年会という「場」が設定されるのも、ただ集まってお酒を飲むためではなく、普段とちがう場を設定し、飲んだり、食べたり、という行為を共有することによって、より深くお互いを理解し、そうすることで、いっそうコミュニケーションを円滑にしていこう、仕事なり、共同作業なり、さらにうまく進むようにしていこう、という目的があるのだと思います。



ですから、そういう場面で、自分のこういう場は苦手だ、という私的な感情を明らかにするというのは、あまり望ましくない行為であると思うのです。だから、本当は家に帰って静かに(ときに、あまり静かでない)音楽を聴いたり、本を読んだりできたら、どれほどいいだろう、と思っても、楽しくなさそうに振る舞ったりはしたくない。



やはりそこにジレンマがあるわけです。



実際には、わたしは相手さえ話をしてくれれば大丈夫です。共通の話題などなくても、知らないことを知るのはいつだって楽しいことだし、内心、鬱陶しいと思っている相手でも、聞くべきことはあるだろうし、自分の私的な感情を少し高いところから眺めることもできます。ああ、自分はこういうところで鬱陶しいと思うんだなぁ、と発見するのは、それはそれで楽しいことです。だから、そういう場が始まってしばらくのあいださえ、うまくやりすごせれば、たいていどうにかなってるわけです(すでに今年もふたつ、これで乗り切りました)。



手品とクイズを拝見しましたが、これは相当人徳がなくちゃ不可能だと思いました。上でも言ったように「だれがやるか」「場の空気はどうか」が問題なわけで、こんなことを「なにげに」(誤用)できちゃう人、というのは、別の意味でスゴイ! と感心します。

確かに、場は席巻するだろうけど、そんな畏れ多いこと、わたしはできそうもありません。



書き込み、ありがとうございました。
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