その2.
ミセス・パールは暖炉の向こうに置いてある、ウィリアムの空っぽの椅子にちらりと目をやった。革張りの大きなアームチェアで、長年、夫が腰を下ろしたせいで、くぼみができている。背もたれのてっぺんの楕円状の黒っぽいしみは、夫が頭を載せていた跡だ。あのひとはいつもその椅子に腰かけて何か読んでいて、その向かいのソファでわたしはボタンをつけたり、靴下の穴をかがったり、あの人の上着に肘当てをつけたりしたんだわ。そしてときどき本から一対の目を上げて、わたしに視線を注ぐのよ。見張るような、奇妙なまでに冷たくて、まるで計算でもしているかのような視線を。あの目がどうにもいやでたまらなかった。氷のように冷たい、小さくて青い目。狭い目と目の間に、不機嫌を絵に描いたような深い縦皺が二本、刻まれていた。今になっても、この家にひとりで生活するようになって一週間が経つというのに、ときどきその目がまだそこにあるみたいに、落ち着かない気持ちになる。戸口や、空っぽの椅子や、夜の窓の外からわたしを目で追いかけているような。
ミセス・パールはのろのろとハンドバッグに手をつっこみ、眼鏡を取り出してかけた。それから手紙を高くかざして、背後の窓から差す遅い午後の日差しをたよりに、手紙を読み始めた。
(この項つづく)
ミセス・パールは暖炉の向こうに置いてある、ウィリアムの空っぽの椅子にちらりと目をやった。革張りの大きなアームチェアで、長年、夫が腰を下ろしたせいで、くぼみができている。背もたれのてっぺんの楕円状の黒っぽいしみは、夫が頭を載せていた跡だ。あのひとはいつもその椅子に腰かけて何か読んでいて、その向かいのソファでわたしはボタンをつけたり、靴下の穴をかがったり、あの人の上着に肘当てをつけたりしたんだわ。そしてときどき本から一対の目を上げて、わたしに視線を注ぐのよ。見張るような、奇妙なまでに冷たくて、まるで計算でもしているかのような視線を。あの目がどうにもいやでたまらなかった。氷のように冷たい、小さくて青い目。狭い目と目の間に、不機嫌を絵に描いたような深い縦皺が二本、刻まれていた。今になっても、この家にひとりで生活するようになって一週間が経つというのに、ときどきその目がまだそこにあるみたいに、落ち着かない気持ちになる。戸口や、空っぽの椅子や、夜の窓の外からわたしを目で追いかけているような。
ミセス・パールはのろのろとハンドバッグに手をつっこみ、眼鏡を取り出してかけた。それから手紙を高くかざして、背後の窓から差す遅い午後の日差しをたよりに、手紙を読み始めた。
親愛なるメアリー、この手紙は君だけに宛てたもので、私が逝ってから数日後に君の下に届くはずだ。
手紙に書いてあることを見て、驚かないように。私としては、ランディが私に何をしようとしているのか、どうして私が彼がやろうとしていることを承諾したのか、彼の理論と希望が何であるのか、といったことどもを君に説明するためのひとつの試みにすぎないのだから。君は私の妻であるのだし、こうしたことを知る権利がある。いや、まったくのところ、知っておかなければならないのだ。この数日間というもの、私は何とかしてランディのことを君に話そうとしてきたのだ。ところが君は頑として聞くまいという態度を崩さなかった。こうした態度は、すでに言ったように、きわめて愚かしいもので、しかもある意味、利己的な態度であるとさえ言えるだろう。
だが、君がそんな態度を取ったのも、何も知らなかったせいだろうし、もし一切合切を承知してさえいれば、即座に考え方を改めたにちがいないという確信が私にはある。だからこそ、私がもはや君のそばにおらず、君がいくぶん落ち着きを取り戻した今、君がこの手紙を通して私の言葉に注意深く耳を傾けることに同意してくれるだろうと思っているのだ。断言してもいいが、この話を聞けば、君の嫌悪感は跡形もなく消えて、その代わりに熱中することになるだろう。むしろ私がしたことを、いくばくかは誇りに思ってくれるのではないかとさえ思っている。
これを読み続けるあいだ、もし許せるものなら私のこの冷淡な書き方を許してほしい。だが、君にはっきりと伝えようと思えば、私にはこの書き方しか思い浮かばないのだ。最期のときが近づいて、感傷的な言葉があふれ出し始めるのは自然なことだ。日ごと、私の物思いは深さを増し、とりわけ夜になると特にそれがひどくなってしまう。なので自分の感情をしっかり見張ってでもいなければ、感情が手紙の端々にまであふれ出てしまいそうになる。
たとえば、君のことを書いておきたい。私にとって君はこれまでどれほど満足のいく妻であったか。もし時間があれば、そうして私にその力が残っていさえすれば、つぎにそのことを書き留めておくと約束しよう。
そうしてまた過去十七年間にわたって、そこで生活し、教鞭も執ってきたオックスフォードのことも書いておきたい。そこがどれほど栄光に満ちた場所であったか。そうしてできることなら、そのただなかで仕事ができたことが私にとってどれほど大きな意味があったかについても明らかにしておきたい。私が心から愛したあらゆるものや場所が、この陰鬱な寝室に横たわる私の脳裏に、たえず浮かんでくる。かつての日々と同じように明るく美しいのだが、とりわけ今日はどうしてか、いままでよりもさらにくっきりと見えてくるのだ。ウースター・カレッジの庭園の池の周りの小道、そこではかつて数学者ラブレースがよく散策したものだった。ペンブルク・カレッジの門。マグダレン・カレッジの塔から望む街西部の風景。クライストチャーチの大ホール。セント・ジョンズにある小さな石庭では、私は十二種類以上のホタルブクロを見つけたが、そのなかには稀種であり、なおかつかれんなC.ワルトシュタイナも含まれていた。……ほら、この通り。まだ話を始めてもいないのに、すでに罠に落ちてしまっている。だからいいかげん始めることにしよう。君が悲しんだり、不満に思ったりすることなくゆっくりと読めるように。そうすれば君の理解が妨げられることもないだろう。ここで約束してくれ。落ち着いて読むこと。読み始める前に、冷静で辛抱強い状態になるよう、感情を整えることを。
(この項つづく)