横光利一の『機械』という短篇は、非常におもしろい作品である。
登場人物の五人、ネームプレート製造工場の主人とその細君、私という語り手、私の同僚軽部、さらに途中から雇われた屋敷は、まるで五つの歯車のように決して止まらない。
「主人が狂人ではないのかとときどき思った」と言いながら、その数行あとでは「凡そ何事にでもそれほどな無邪気さを持っている」という。さらに「主人も若いときに人の出来ないこの仕事を覚え込」み、「赤色プレート製法」を考案して特許を持っているらしい。にもかかわらず「主人は金銭を持つと殆ど必ず途中で落してしまう」し、金には無欲恬淡で「こういうのをこそ昔は仙人といったのであろう」。最初は「自然に細君がこの家の中心になって来ているのだ」と言っているのに、「家の中心」は主人にある、とも言う。
このように「主人」ひとりを取ってみても、回る歯車ごとく、片時もその評価は定まることがない。
同じことが主人の妻にも私にも軽部にも屋敷にも言える。
私は工場の最下層の仕事をあてがわれている、という部分もあれば、中心ともいう。
軽部は主人公をスパイと考えて、監視を続けながら、同時に自分も主人の赤色プレート製法の秘密をねらっている。さらに屋敷も加わって、いったい誰がスパイなのか、誰が誰を監視しているのか、誰が誰に危害を加えようと思っているのかわからない。
そういうことを記述するのはこんな文体である。
1.私は思う
2.主人がそんな重大なことを他人に洩らして良いのだろうか
3.主人は私を信用している
4.私は信用されていることを感謝せずにはいられない。
5.主人が周囲に勝ち続けるのは、人を信用するせいではないか
6.人を信用できる底抜けの馬鹿に、自分はなることはできない
7.その点が主人の豪い理由だろう
8.だから私は主人の研究の手助けをさせてほしいと心底から礼を言った
9.自分も心底から礼を言われるような人間になりたいとこのときから思った
これだけのことがふたつの文章に盛り込んである。主語はぐるぐると動き、私の見方も変わっていく。
たえず揺れ動き、かたときも定まらない気持ちにしたがって、相手のとらえ方も移り変わり、そうした自分の気持ちを反映する行動が、今度は相手の気持ちと行動に影響をあたえていく。片時も定まることはなく、誰もが決して像を結ばない。
わたしたちはこれを読み、筋を追いながら、何とか「私」がだれか、理解しようとする。どんな人間なのか、何がしたいのか、主人が好きなのか、軽蔑しているのか、尊敬しているのか。スパイなのか、軽部を出し抜こうとしているのか、軽部を軽蔑しているのか、怖れているのか。「そうではないか」と思ったとたん、つぎの文章で裏切られる。
同時に、この「町工場」は人間社会の縮図だろう、とか、この歯車のような関係は、わたしたちの心理と他者との関係だろう、とかと、物語の寓意を読み取ろうとする。読み取った、と思ったのもつかのま、ほんとうにそうなのだろうか、と疑問が生じる。この「赤色プレート製法」というのは? クロム液は何を意味している? 意味は決して確定しない。
『動物農場』がスターリン政権下のソ連の寓話としか読めず、ここではスターリンはナポレオンという豚として描かれ、より強烈なイメージとなり、わたしたちはこの作品を読むことで、はっきりとスターリンの愚かしさをわかったように思う。
『機械』は何らかの寓話であるような気がする。だが、その向こうにある現実がわからない。同時に、この物語のなかの世界もわからない。二重にわからなくなってくるのである。
だが、これこそがわたしたちの世界のありようではないのか。
自分の行動の理由も、ほんとうは自分でさえ特定しがたい。その行動にどういう意味があるか、振り返って行動と意味を結びつけようとする端から、様々なことが起こり、あるいは自分の気持ちも揺れ動き、ほどけていくのではあるまいか。
従来からこの作品は「心理主義」として評価されてきたのだが、伊藤整は弁証法であると評価した(伊藤整って、やっぱり頭がいいなあ)。
この弁証法的という指摘はなかなか魅力的なのだけれど、この言葉を使うとどうしても、より高次なものへと向かう、という意味が生まれてきてしまうように思う。「人間関係の実在は道徳と人格を押しつぶす」と伊藤は言うのだけれど、この「機械」が登場する前の時代にあっては、人々は道徳的に、人格も押しつぶされないで、生き生きとしていたのだろうか。あるいは、「なんらかの新しい道徳」が設定されれば、わたしたちのこの歯車のように入れ替わり、移り変わる役割も、人格も、行動の意味も、定まってくるのだろうか。そうではないと思うのである。むしろ、歯車、互いが互いの歯とかみ合って、永遠にまわりつづける歯車というのが、わたしたちの「実在」ではないのか。
いまのわたしたちから見るならば。
これすらも、確定しがたいのだが。
結局、あらゆる文学というのは、無限に考えられる寓意を持った寓話なのではあるまいか。そうして、「機械」という短編小説は、何よりもそのことを教えてくれる作品ではないかと思うのである。
(明日この項、最終回)
登場人物の五人、ネームプレート製造工場の主人とその細君、私という語り手、私の同僚軽部、さらに途中から雇われた屋敷は、まるで五つの歯車のように決して止まらない。
「主人が狂人ではないのかとときどき思った」と言いながら、その数行あとでは「凡そ何事にでもそれほどな無邪気さを持っている」という。さらに「主人も若いときに人の出来ないこの仕事を覚え込」み、「赤色プレート製法」を考案して特許を持っているらしい。にもかかわらず「主人は金銭を持つと殆ど必ず途中で落してしまう」し、金には無欲恬淡で「こういうのをこそ昔は仙人といったのであろう」。最初は「自然に細君がこの家の中心になって来ているのだ」と言っているのに、「家の中心」は主人にある、とも言う。
このように「主人」ひとりを取ってみても、回る歯車ごとく、片時もその評価は定まることがない。
同じことが主人の妻にも私にも軽部にも屋敷にも言える。
私は工場の最下層の仕事をあてがわれている、という部分もあれば、中心ともいう。
軽部は主人公をスパイと考えて、監視を続けながら、同時に自分も主人の赤色プレート製法の秘密をねらっている。さらに屋敷も加わって、いったい誰がスパイなのか、誰が誰を監視しているのか、誰が誰に危害を加えようと思っているのかわからない。
そういうことを記述するのはこんな文体である。
私はいかに主人がお人好しだからといってそんな重大なことを他人に洩して良いものであろうかどうかと思いながらも、全く私が根から信用されたこのことに対しては感謝をせずにはおれないのだ。いったい人というものは信用されてしまったらもうこちらの負けで、だから主人はいつでも周囲の者に勝ち続けているのであろうと一度は思ってみても、そう主人のように底抜けな馬鹿さにはなかなかなれるものではなく、そこがつまりは主人の豪いという理由になるのであろうと思って私も主人の研究の手助けなら出来るだけのことはさせて貰いたいと心底から礼を述べたのだが、人に心底から礼を述べさせるということを一度でもしてみたいと思うようになったのもそのときからだ。ためしに一度整理してみよう。
1.私は思う
2.主人がそんな重大なことを他人に洩らして良いのだろうか
3.主人は私を信用している
4.私は信用されていることを感謝せずにはいられない。
5.主人が周囲に勝ち続けるのは、人を信用するせいではないか
6.人を信用できる底抜けの馬鹿に、自分はなることはできない
7.その点が主人の豪い理由だろう
8.だから私は主人の研究の手助けをさせてほしいと心底から礼を言った
9.自分も心底から礼を言われるような人間になりたいとこのときから思った
これだけのことがふたつの文章に盛り込んである。主語はぐるぐると動き、私の見方も変わっていく。
たえず揺れ動き、かたときも定まらない気持ちにしたがって、相手のとらえ方も移り変わり、そうした自分の気持ちを反映する行動が、今度は相手の気持ちと行動に影響をあたえていく。片時も定まることはなく、誰もが決して像を結ばない。
わたしたちはこれを読み、筋を追いながら、何とか「私」がだれか、理解しようとする。どんな人間なのか、何がしたいのか、主人が好きなのか、軽蔑しているのか、尊敬しているのか。スパイなのか、軽部を出し抜こうとしているのか、軽部を軽蔑しているのか、怖れているのか。「そうではないか」と思ったとたん、つぎの文章で裏切られる。
同時に、この「町工場」は人間社会の縮図だろう、とか、この歯車のような関係は、わたしたちの心理と他者との関係だろう、とかと、物語の寓意を読み取ろうとする。読み取った、と思ったのもつかのま、ほんとうにそうなのだろうか、と疑問が生じる。この「赤色プレート製法」というのは? クロム液は何を意味している? 意味は決して確定しない。
『動物農場』がスターリン政権下のソ連の寓話としか読めず、ここではスターリンはナポレオンという豚として描かれ、より強烈なイメージとなり、わたしたちはこの作品を読むことで、はっきりとスターリンの愚かしさをわかったように思う。
『機械』は何らかの寓話であるような気がする。だが、その向こうにある現実がわからない。同時に、この物語のなかの世界もわからない。二重にわからなくなってくるのである。
だが、これこそがわたしたちの世界のありようではないのか。
自分の行動の理由も、ほんとうは自分でさえ特定しがたい。その行動にどういう意味があるか、振り返って行動と意味を結びつけようとする端から、様々なことが起こり、あるいは自分の気持ちも揺れ動き、ほどけていくのではあるまいか。
従来からこの作品は「心理主義」として評価されてきたのだが、伊藤整は弁証法であると評価した(伊藤整って、やっぱり頭がいいなあ)。
横光が「機械」で使った描写法に対して、私は弁証法的な書き方という名をつけても不当ではない、と考えている。ひとつの存在、それに対立して現れる別の存在、その二つの間に生まれる力の関係のバランス、さらに別な存在や事件が加わることで、バランスの実体が変わっていく。すなわち人格を中心とする永続的実在の否定である。そしてこの点において「機械」という現象は心理主義的であるよりも弁証法的であり、または心理主義であることにおいて弁証法的である。人間関係の実在は道徳と人格を押しつぶすというこの考え方は、極めてニヒリスティックである。この作品における認識は、まさに当代の日本の社会の人間の実体に肉薄したものであった。そしてなんらかの新しい道徳を設定しない限りこの認識の不安は耐えがたいものなのである。(伊藤整『作家論』筑摩書房)
この弁証法的という指摘はなかなか魅力的なのだけれど、この言葉を使うとどうしても、より高次なものへと向かう、という意味が生まれてきてしまうように思う。「人間関係の実在は道徳と人格を押しつぶす」と伊藤は言うのだけれど、この「機械」が登場する前の時代にあっては、人々は道徳的に、人格も押しつぶされないで、生き生きとしていたのだろうか。あるいは、「なんらかの新しい道徳」が設定されれば、わたしたちのこの歯車のように入れ替わり、移り変わる役割も、人格も、行動の意味も、定まってくるのだろうか。そうではないと思うのである。むしろ、歯車、互いが互いの歯とかみ合って、永遠にまわりつづける歯車というのが、わたしたちの「実在」ではないのか。
いまのわたしたちから見るならば。
これすらも、確定しがたいのだが。
結局、あらゆる文学というのは、無限に考えられる寓意を持った寓話なのではあるまいか。そうして、「機械」という短編小説は、何よりもそのことを教えてくれる作品ではないかと思うのである。
(明日この項、最終回)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます