陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

自分以外の人と暮らすということ

2010-04-18 23:40:34 | weblog
先日、阪急電車をおりて、JRまで歩いていたときのこと。
改札の手前のあたりで、すぐ真後ろからくどくどとしゃべり続ける男の声が聞こえてきた。

しゃべるというのは正確ではない。そういうことをするもんじゃない、そんな考え方がダメなんだ、と、一方的に相手をなじっているのだ。おそらく自分の子供に説教しているのだろうが、あんなふうに頭ごなしに言うものではない、子供は萎縮するか、反抗心を募らせるだけだ…いやいや、何も知らないのに、そんなことを考えちゃいけないな、などと考えるともなしに考えながら歩いているうちに、その声の主が隣の自動改札機を抜けていくのが目に入った。

ふつう、大人が大人に向かってそんな調子で叱責したりするものではないから、てっきり大人と子供だとばかり思っていたのだが、それは中年の男女の二人連れ、おそらく夫婦か、それに類する関係であるらしかった。というのも、一方的に言われ続けている女性は、もうすっかりそれに慣れっこになっていて、あきらめとも疲労ともつかないような顔で、ほとんど聞いてすらいないようだったからだ。

いまはちょうど梅田は工事中で、JRに向かうルートも制限されている。狭い通路をのろのろと進んでいくしかない。おかげでその執拗な声をずっと聞きながら歩いていく羽目になった。人混みの中、決して大声ではないのだが、ひどく耳障りな、意地の悪い声がとぎれることなく続いていく。そちらを振り返って確かめる頭も、いくつも見えた。それでも男の方はそれが目に入らないのか、あるいは逆に周囲の人にも聞かせたいという気持ちがあったのかもしれない。決してなじるのをやめようとしなかった。

自分がなじられているわけではなくても、その声を聞くだけで、気持ちは滅入ってくる。こんな人と果たして生活ができるものだろうか。まるで『死の棘』の中で、ひたすらトシオを責めるミホではないか。

いやいや、何も知らないのに、そんなことを考えるのも滑稽な話だ。ふたりの間には簡単には言えないような歴史があるのかもしれないし、たまたま気に障ることが直前に起こっただけなのかも。

自分の頭の中で、あれこれ考えたり、うち消したりをしているうちに駅に着き、いつのまにか男の声は聞こえなくなっていた。だが、改札を抜け、電車に乗ってからも、身近な人をなじり続ける人のことが頭を去らなかった。

わたしたちはふつう、他人に対しては、批判するにせよ、怒りをぶつけるにせよ、「限度」ということを考える。相手の反応によっては、怒りの火に油が注がれることになることもあるかもしれないし、もう顔も見たくないと、そのまま席を立って、二度と会わなくなるかもしれないが。

ところが家族となると、しかも、自分が正しく相手が間違っている、という情況の下では、家族、相手のため、という意識が、抑えるということを忘れさせてしまうのかも。

そんなことを考えていたら、まったく逆の小説を思い出してしまった。

庄野潤三の短編小説に、『プールサイド小景』という作品がある。
水泳部の選手たちが練習を続ける公営プールの隅で、父親とふたりの小学生が水遊びをしている。夕方になると奥さんが犬を連れてやってきて、家族は連れだって帰路に就く。その後ろ姿を見ながら、コーチの先生は

(あれが本当に生活だな。生活らしい生活だな。夕食の前に、家族がプールで一泳ぎして帰ってゆくなんて……)

と考えるのだ。

ところが青木氏(ふたりの子供のお父さんである)は会社の金を使い込んで、クビになってしまっているのだ。どうやらその使い込みには、女性がからんでいるらしい。
クビになったことで突然、毎日が休暇になった青木氏を喜んだのは子供たちで、父親を引っ張ってプールに連れて行った。青木夫人は、(なんていう人なんだろう!)と心につぶやいたりもするのだが、これまで聞いたこともなかった青木氏の、仕事に対する気持ちを聞くうち、

  いったい自分たち夫婦は、十五年も一緒の家に暮らしていて、その間に何を話し合っていたのだろうか?

と思うようになる。

やがて青木氏はふたたび勤めに行くようになる。
静かな生活は、こうしてまた軌道に戻っていく。

だが、この静けさと平和は何だろう。
声を荒げても不思議のない場面でも、青木氏も、青木夫人も、面と向かって決して相手を批判することはない。思いは内へ内へとかえっていく。まるで家庭生活を続けていくためには、強い意思の力が必要だ、といわんばかりに。

家庭生活とは、こんなにもむずかしい、綱渡りのようなものなのだろうか。
そうなのかもしれない。

そんなことを考えていたら、つぎにはこんな夫婦を思いだした。森鴎外の『じいさんばあさん』である。

この作品では、人もうらやむような仲の良い老夫婦の姿が描かれる。
人の生活はいかにも隠居らしい、気楽な生活である。爺いさんは眼鏡を掛けて本を読む。細字で日記を附ける。毎日同じ時刻に刀剣に打粉を打って拭く。体を極めて木刀を揮る。婆あさんは例のまま事の真似をして、その隙には爺いさんの傍に来て団扇であおぐ。もう時候がそろそろ暑くなる頃だからである。婆あさんが暫くあおぐうちに、爺いさんは読みさした本を置いて話をし出す。二人はさも楽しそうに話すのである。


「さも楽しそうに話す」のには理由がある。その理由は、短い短篇だから、ぜひ読んでもらいたいのだが、これを読むと、夫婦というのにはある程度の距離が必要なのかもしれない、という気がしてくる。

自分が正しいと思い込むと、家族の中での独裁者になってしまう。
維持することに必死になると、たとえお互いが繊細な心遣いを見せていたにしても、どこか息苦しくなってしまう。

こうあるべき、という理想を掲げて、相手をその枠にはめようとするのではなく、なりゆきにまかせながら、相手に対しては礼儀を忘れない。
そんなことができるのなら。
そんな日々を続けていけたら。

それは人とつきあう上で、誰もが心がける、あたりまえのことなのだろうが。


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