陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サキ「セルノグラツの狼」(前編)

2008-09-15 23:09:36 | 翻訳
今日からサキの第二弾 "The Wolves of Cernogratz" をお送りします。
原文は
http://haytom.us/showarticle.php?id=89で読むことができます。



「セルノグラツの狼」

(前編)

「この館には古い言い伝えみたいなものはないのかい?」コンラッドは妹に聞いた。ハンブルグで手広く商売をやっているコンラッドではあるが、いかにも現実的な一族のなかで、ただひとり、詩人の心を持っていたのだった。

 グルーベル男爵夫人は小太りの肩をすくめた。

「こういう古い地所にはどこにだって言い伝えはあるものよ。そんなもの、でっちあげるのはちっともむずかしくないし、お金だってかからないし。ここは館のだれかが死ぬと森の獣たちが一晩中遠吠えするらしいわ。そんなものを聞かされるのはぞっとするでしょうね」

「なんだか不気味だけどロマンティックな話だな」ハンブルクの商人が言った。

「ともかくね、そんな話は嘘っぱちよ」男爵夫人は得意げに言った。「わたしたちがここを買ってから、何も起こってないっていうのが何よりの証拠。お義母さまが去年の春に亡くなったとき、みんなで耳をすましていたんだけど、遠吠えなんか聞こえなかったもの。ただのお話。お金をかけずに館に箔をつけようとしてるのよ」

「言い伝えは奥様のお話どおりではありません」と言ったのはアマリーという白髪の家庭教師だった。だれもがあっけにとられてそちらを振りかえった。この家庭教師は常日頃、食事中も静かでつんととりすましていて、誰かが話しかけでもしないかぎりは、自分から口を開くこともない。また、わざわざ家庭教師ふぜいと話をしようという者もいなかった。それが今日に限ってにわかに雄弁になったのである。おどおどとした早口で、まっすぐ前を向いたまま、特にだれに対してというでもなく、話を続けたのだった。

「この館でだれかが亡くなったというだけで、遠吠えが聞こえるということはございません。セルノグラツ一族の者が館で亡くなろうというときに、狼は近隣から集まって来て、森のはずれでいまわの際に遠吠えを始めるのです。この界隈の森をねぐらにしている狼のつがいは、ふたつかみっつといったところでしょうが、森番の話では、そのときばかりはずいぶん大勢の狼が姿をあらわし、物陰をうろつきまわっては鳴き交わすのだそうです。狼の遠吠えが始まると、館や村や近在の農家の犬も怯えたり怒ったりして吠え出します。そうして、その人の魂が死にかけた体からとうとう離れていくとき、荘園の木が一本、めりめりと倒れるのです。そうしたことが起こるのは、セルノグラツ一族の者が、この館で死ぬときだけ。よそものがここで亡くなったところで、むろんのこと狼は遠吠えなどいたしませんし、立ち木が倒れることもございません。ええ、ほんとうに」

 最後の言葉を口にしたときの声には、つっかかるような、見下すといってもいいような響きがこもっていた。栄養の行きわたる、飾り立てた男爵夫人は、みすぼらしい年寄りじみた女をにらみつけた。ふだんは分相応にしているくせに、急にどうしたっていうの、あのぶしつけな物言いはいったい何よ。

「フォン・セルノグラツ家の言い伝えにずいぶんお詳しいのね、シュミット先生」とげとげしい声でそう言った。「学問がおありとはうかがってましたけれど、門閥のことにもお詳しいとは知りませんでした」

 アマリーが前触れもなくべらべらとしゃべり出したことをあてこすった男爵夫人だったが、その返事を聞いていっそう驚かされることになった。

「わたくしはセルノグラツ一族の出でございます」年老いた女が答えた。「だからこそ一族の言い伝えも知っております」

「フォン・セルノグラツ家の人だって? あなたが!」一斉に疑いの言葉が口にされた。

「一族が没落いたしましたせいで、わたくしはそこを出て、教師の仕事を始め、一緒に名前も変えました。この方がふさわしかろうと思ったのでございます。ですが、祖父は子供時代の大半をこの館で過ごしましたし、父もここの話はずいぶん聞かせてくれました。ですからもちろん一族の言い伝えやあれこれの昔話は存じております。何もかもを失って、残ったのは思い出だけ、ということになりますと、その思い出はことのほか大切に胸に抱くようになるものでございます。男爵様にお仕えするようになりましたとき、まさか昔一族の過ごした館へ来ることになろうとは夢にも思っておりませんでした。どこかほかの場所であれば、とずいぶん思ったものでございます」

 アマリーが言葉を切ると、座は静まりかえった。やがて男爵夫人が一族の歴史より、もっと差し障りのない話題を持ち出した。だが、その後、年寄りの家庭教師が静かに席を立ち、仕事に戻っていくと、みなはあざけったり、信じられないと言い合ったりしたのだった。

(この項つづく)


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