その12
ドーリーは運転席の反対側の最前列の席にすわっていた。フロントガラス越しに見晴らしのよい席だ。だからドーリーがただひとりの乗客、運転手を除いては、ただひとり、ピックアップトラックが間道からスピードも落とさずに飛びだしてきたのも、そのトラックの車体がぐらっと大きく揺れたかと思うと、日曜の朝のからっぽのハイウェイを目の前で横切り側溝に突っ込んだのも、何もかも目撃したのだった。それからさらに奇妙なものをまのあたりにしたのだ。トラックの運転手が宙を飛んだのである。一瞬のことだったが、ひどくゆっくりとした、ばかげたほど優雅な動きだった。そうしてハイウェイの反対側、舗装部分の縁の砂利が敷いてあるところに投げ出された。
ほかの乗客には、どうしてバスの運転手が突然、不快な急ブレーキをかけたのかわからなかった。最初、ドーリーが思ったのは、どうしてあの人、飛びだしたんだろう、ということだった。若い男、というかまだ男の子という感じだったが、きっとハンドルを握ったまま眠り込んでいたにちがいない。その男の子がどうしてトラックを飛びだして、あんなに優雅に宙を舞ったのだろう?
「このバスの真ん前の車が」と運転手が乗客に説明した。なんとか落ち着いて、はっきりと話そうとしていたが、声は驚きでふるえていた。恐れおののいているかのようなふるえがあった。「道路を横切って溝に突っこんだんです。できるだけ早く出発しますが、それまでどうかバスの外にお出にならないでください」
運転手の言葉が聞こえなかったかのように、あるいは役に立てる特別な資格があるかのように、ドーリーは運転手に続いてバスをおりた。運転手もそれをとがめたりはしなかった。
「この馬鹿野郎が」一緒に道を渡りながら、運転手は言ったが、その声には、いまは怒りといらだちしかなかった。「馬鹿なガキが。まったくこんな話があるか」
若い男は仰向けになったまま、両手両足を投げ出していた。ちょうど雪が降ったときに天使の型をつける人のように。雪の代わりに周囲にあるのは砂利だったが。目が半開きだった。まだほんとうに若くて、まだひげをそる必要もないのに、背ばかり伸びてしまった男の子だった。おそらく、運転免許さえ持っていないにちがいない。
運転手は自分の携帯で話していた。
「21号線のベイフィールドから南2キロほど行ったところです。道路の東側にいます」
男の子の頭の下、耳元のあたりから、ピンク色をした泡が少しずつ拡がっていく。どう見ても血のようではなく、なんだかイチゴジャムを作っているときにすくい取るあくのようだった。
ドーリーは男の子の横にしゃがんだ。胸に手を置いてみる。動いていない。かがんで耳を寄せた。男の子のシャツから、だれかがかけて間もないアイロンのにおいがする。
息をしていない。
けれどもなめらかな首に指先でふれると、脈は感じられた。
ドーリーは前に聞いたことを思い出した。ロイドが教えてくれたのだ。ロイドがその場にいないときに、子供が事故に遭った場合に備えて。舌だ。舌が喉の奥に落ちこんで、気道をふさいでしまうのだ。ドーリーは片手の指先を男の子の額に当て、もう一方の手の二本の指をあごの下に当てた。額を下げて、あごを持ち上げ、気道を確保する。軽く、ぐらつかないようにかたむけて。
自力呼吸していなければ、ドーリーが息を吹き込んでやらなければならない。
鼻をつまんで、大きく息を吸いこむと、自分の口を相手の口でぴったりふさぎ、息を吹きこんだ。二回吹きこんで、確認。二回吹きこんで、確認。
バスの運転手とはちがう男の声がした。通りかかったドライバーが車を停めたのだろう。
「この毛布を頭の下に入れた方がいいですか?」
ドーリーはきっぱりと首を横に振った。ほかにも思い出したことがあったのだ。被害者は動かしてはならない。脊髄を損傷してしまう恐れがあるから。ドーリーは少年の口をおおった。暖かく、生き生きとした皮膚を押す。息を吹きこみ、待つ。さらに息を吹きこみ、待つ。すると、湿気を含んだ空気がドーリーの顔をなでたような気がした。
バスの運転手が何か言ったが、そちらに目を遣る余裕はない。今度ははっきりと感じた。男の子の口から息がもれた。広げた手を男の子の胸にじかにのせると、最初のうち、自分の手が上下するのが、自分の手がふるえているせいなのか、そうではないのか、わからなかった。
そう、そうよ。
本物の呼吸だ。気道が開いたのだ。自力で呼吸している。この子は息をしているのだ。
「それをこの子にかけてあげて」ドーリーは毛布を持っている男に言った。「この子を暖かくしてあげなくちゃ」
「生きているのか?」バスの運転手が、ドーリーの方へ体をかがめた。
ドーリーはうなずいた。指先はふたたび脈を探りあてていた。おぞましいピンクのそれはもう流れてはいない。深刻なものではなかったのかもしれない。脳から出てきたようなものでは。
「お客さんひとりのために、バスはそのままにしておけないんだが」と運転手は言った。「もうすでに定刻からずいぶん遅れてしまってるから」
毛布を持ってきてくれたドライバーが言った。「行っていいよ。あとはぼくが引き継ごう」
静かに。静かにしてよ。ドーリーはそう言いたかった。この子の体が集中しなきゃならないんだから。息をするっていう大切な仕事をわからなくなってしまわないように、助けてあげなきゃいけないんだから、そのためには静かさが何よりも必要なような気がするの。
いまでは、ぎこちないけれど安定した呼気が、胸の内で快く、従順に続いている。がんばれ。がんばれ。
「お客さん、聞こえたでしょう? この人がここに残って、この坊やを見てくれるんだそうですよ」バスの運転手が言った。「救急車も出来るだけ早く、こっちに来るって」
「行ってちょうだい」ドーリーは言った。「救急車に一緒に乗せてもらって街へ行って、それから運転手さんを探して、夜、このバスが戻るときに乗って帰るから」
バスの運転手はドーリーの話を聞くために、腰をかがめなくてはならなかった。ドーリーは顔も上げず、さっさと行ってちょうだい、と言わんばかりの口調だった。まるで呼吸が何よりも大切なのは、自分自身であるかのように。
「ほんとにいいんですか」と運転手はたずねた。
いいんです。
「ロンドンへ行かなきゃならないんじゃないんですか?」
いいえ。
※後日手を入れてサイトにアップします。お楽しみに。
ドーリーは運転席の反対側の最前列の席にすわっていた。フロントガラス越しに見晴らしのよい席だ。だからドーリーがただひとりの乗客、運転手を除いては、ただひとり、ピックアップトラックが間道からスピードも落とさずに飛びだしてきたのも、そのトラックの車体がぐらっと大きく揺れたかと思うと、日曜の朝のからっぽのハイウェイを目の前で横切り側溝に突っ込んだのも、何もかも目撃したのだった。それからさらに奇妙なものをまのあたりにしたのだ。トラックの運転手が宙を飛んだのである。一瞬のことだったが、ひどくゆっくりとした、ばかげたほど優雅な動きだった。そうしてハイウェイの反対側、舗装部分の縁の砂利が敷いてあるところに投げ出された。
ほかの乗客には、どうしてバスの運転手が突然、不快な急ブレーキをかけたのかわからなかった。最初、ドーリーが思ったのは、どうしてあの人、飛びだしたんだろう、ということだった。若い男、というかまだ男の子という感じだったが、きっとハンドルを握ったまま眠り込んでいたにちがいない。その男の子がどうしてトラックを飛びだして、あんなに優雅に宙を舞ったのだろう?
「このバスの真ん前の車が」と運転手が乗客に説明した。なんとか落ち着いて、はっきりと話そうとしていたが、声は驚きでふるえていた。恐れおののいているかのようなふるえがあった。「道路を横切って溝に突っこんだんです。できるだけ早く出発しますが、それまでどうかバスの外にお出にならないでください」
運転手の言葉が聞こえなかったかのように、あるいは役に立てる特別な資格があるかのように、ドーリーは運転手に続いてバスをおりた。運転手もそれをとがめたりはしなかった。
「この馬鹿野郎が」一緒に道を渡りながら、運転手は言ったが、その声には、いまは怒りといらだちしかなかった。「馬鹿なガキが。まったくこんな話があるか」
若い男は仰向けになったまま、両手両足を投げ出していた。ちょうど雪が降ったときに天使の型をつける人のように。雪の代わりに周囲にあるのは砂利だったが。目が半開きだった。まだほんとうに若くて、まだひげをそる必要もないのに、背ばかり伸びてしまった男の子だった。おそらく、運転免許さえ持っていないにちがいない。
運転手は自分の携帯で話していた。
「21号線のベイフィールドから南2キロほど行ったところです。道路の東側にいます」
男の子の頭の下、耳元のあたりから、ピンク色をした泡が少しずつ拡がっていく。どう見ても血のようではなく、なんだかイチゴジャムを作っているときにすくい取るあくのようだった。
ドーリーは男の子の横にしゃがんだ。胸に手を置いてみる。動いていない。かがんで耳を寄せた。男の子のシャツから、だれかがかけて間もないアイロンのにおいがする。
息をしていない。
けれどもなめらかな首に指先でふれると、脈は感じられた。
ドーリーは前に聞いたことを思い出した。ロイドが教えてくれたのだ。ロイドがその場にいないときに、子供が事故に遭った場合に備えて。舌だ。舌が喉の奥に落ちこんで、気道をふさいでしまうのだ。ドーリーは片手の指先を男の子の額に当て、もう一方の手の二本の指をあごの下に当てた。額を下げて、あごを持ち上げ、気道を確保する。軽く、ぐらつかないようにかたむけて。
自力呼吸していなければ、ドーリーが息を吹き込んでやらなければならない。
鼻をつまんで、大きく息を吸いこむと、自分の口を相手の口でぴったりふさぎ、息を吹きこんだ。二回吹きこんで、確認。二回吹きこんで、確認。
バスの運転手とはちがう男の声がした。通りかかったドライバーが車を停めたのだろう。
「この毛布を頭の下に入れた方がいいですか?」
ドーリーはきっぱりと首を横に振った。ほかにも思い出したことがあったのだ。被害者は動かしてはならない。脊髄を損傷してしまう恐れがあるから。ドーリーは少年の口をおおった。暖かく、生き生きとした皮膚を押す。息を吹きこみ、待つ。さらに息を吹きこみ、待つ。すると、湿気を含んだ空気がドーリーの顔をなでたような気がした。
バスの運転手が何か言ったが、そちらに目を遣る余裕はない。今度ははっきりと感じた。男の子の口から息がもれた。広げた手を男の子の胸にじかにのせると、最初のうち、自分の手が上下するのが、自分の手がふるえているせいなのか、そうではないのか、わからなかった。
そう、そうよ。
本物の呼吸だ。気道が開いたのだ。自力で呼吸している。この子は息をしているのだ。
「それをこの子にかけてあげて」ドーリーは毛布を持っている男に言った。「この子を暖かくしてあげなくちゃ」
「生きているのか?」バスの運転手が、ドーリーの方へ体をかがめた。
ドーリーはうなずいた。指先はふたたび脈を探りあてていた。おぞましいピンクのそれはもう流れてはいない。深刻なものではなかったのかもしれない。脳から出てきたようなものでは。
「お客さんひとりのために、バスはそのままにしておけないんだが」と運転手は言った。「もうすでに定刻からずいぶん遅れてしまってるから」
毛布を持ってきてくれたドライバーが言った。「行っていいよ。あとはぼくが引き継ごう」
静かに。静かにしてよ。ドーリーはそう言いたかった。この子の体が集中しなきゃならないんだから。息をするっていう大切な仕事をわからなくなってしまわないように、助けてあげなきゃいけないんだから、そのためには静かさが何よりも必要なような気がするの。
いまでは、ぎこちないけれど安定した呼気が、胸の内で快く、従順に続いている。がんばれ。がんばれ。
「お客さん、聞こえたでしょう? この人がここに残って、この坊やを見てくれるんだそうですよ」バスの運転手が言った。「救急車も出来るだけ早く、こっちに来るって」
「行ってちょうだい」ドーリーは言った。「救急車に一緒に乗せてもらって街へ行って、それから運転手さんを探して、夜、このバスが戻るときに乗って帰るから」
バスの運転手はドーリーの話を聞くために、腰をかがめなくてはならなかった。ドーリーは顔も上げず、さっさと行ってちょうだい、と言わんばかりの口調だった。まるで呼吸が何よりも大切なのは、自分自身であるかのように。
「ほんとにいいんですか」と運転手はたずねた。
いいんです。
「ロンドンへ行かなきゃならないんじゃないんですか?」
いいえ。
The End
※後日手を入れてサイトにアップします。お楽しみに。
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