陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ものを食べる話 その1.

2006-03-03 22:28:17 | 
おなかがすいて、ものを食べる。
のどが渇いて、水を飲む。
食べたり、飲んだり、というのは、わたしたちの生存の根幹に関わる行為だ。

けれども、それだけではない。生存のために必要な水分や栄養を補給するためだけに、わたしたちは食べたり飲んだりしているわけではない。

ところが先日、“ウイダーinゼリー”のほうが、栄養のバランスがとれているし、ダイエットにもなる。三食それでもかまわない、といっている人の話を聞いた。

もちろんこういうことは、その人の生活のありかた全般と密接に関連するものだから、一概にどうのこうの、ということはいえない。

ただ、やはりこう思ってしまうのだ。
燃料補給なら、それでかまわないのかもしれない。けれども、食べたり、飲んだり、という行為は、欠乏を満たすためだけのものなんだろうか?

本のなかに出てくる「食べたり、飲んだり」を見ながら、そのことを少し考えてみたい。

まずは、宇宙食のような“ウイダーinゼリー”からの連想で、未来の食事を見てみよう。
1.未来の食事

 小さなテーブルに座り、トウモロコシのクリーム煮をフォークで食べる。フォークとスプーンは与えられるけれど、ナイフは決して与えられない。肉料理のときは、あらかじめ切り分けられて出される。まるでわたしが手をうまく使えないか、歯に支障があるかのように。でも、どちらにも障害はない。だからこそ、ナイフを与えられないのだ。
(マーガレット・アトウッド『侍女の物語』斉藤英治訳 新潮社)

『侍女の物語』の舞台は近未来。

 それは、大統領が暗殺されて国会が機銃掃射され、軍隊が非常事態宣言をするという異変の後に起こった。その時点では、彼らはそれをイスラム教の狂信者たちの仕業だと言っていた。
 落ち着いてください、と彼らはテレビで言った。事件は完全に鎮圧されました、と。

こうして、聖書を字義通りに実践する宗教的な独裁国家が誕生したのだが、その世界では女性には一切の自由が剥奪されている。極端な出生率の低下のために、女性は子供を産むための道具であり、妊娠可能な「わたし」(オブフレッド=フレッドの所有物の含意)は、「侍女」として、「司令官」の家に派遣されている。

貨幣は廃止され、支給されたトークンで、物品と引き替える。
干からびたロールパン、萎びたドーナツ。

わたしは思い出す。シタビラメ、ハドック、メカジキ、ホタテガイ、マグロ。詰め物入りの焼いたロブスター、脂っこいピンク色のサーモン・ステーキ。それらがみな鯨のように絶滅するなんて考えられるだろうか?……昔このブロックのどこかにアイスクリームのお店があった。店の名前は思い出せない。……アイスクリームはダブルでも買えたし、ほしければチョコレートの粉を振りかけてもらえた。

こうした一切の食べ物は記憶に刻まれたものでしかない。

何度も出てくるこの作品の「現在」の食事の場面は、いずれも上記のようなものである。主人公の置かれた状況、ひとりで、飼料のように食事を与えられるのだ。

「わたし」は何を食べて、何を引き替えにいって、何をしたかを事細かにつづっていく。

でも、わたしは悲しく、ひもじく、惨めなこの物語を、逸脱が多く遅々として進まないこの物語を語りつづける。結局のところ、わたしはこの物語をあなたに聞いてもらいたいから。わたしは同様に、チャンスさえあれば――わたしたちが会えるか、あなたが逃亡するかすれば――あなたの物語も聞いてみたい。未来か、天国か、牢獄か、地下か、どこか他の場所で。とにかく、それはここでないことだけは確かだ。あなたに何かを語りかければ、わたしは少なくともあなたを信じることになる。あなたがそこにいることを、つまりはあなたの存在を信じることになる。我話す、故に汝在り。

隠れ家での生活を余儀なくされたアンネ・フランクの日記にも似た、この「侍女の物語」は、生きた証を刻みつけるために、このように記される。「何を食べたか」とは、生きる証でもあるのである。それがたとえ「トウモロコシのクリーム煮」のようなものであっても。

(この項つづく)


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