その昔とある質問サイトにこんな質問が出ていたことがある(議論と見なされて削除されてしまって、いまはもう影も形もないから検索してもムダ。それをいいことに、記憶だけで書いている)。
簡単に要約すれば
「文学なんて役に立たないものを、なんで読まなきゃならないの?」
ということだった。
例によって、説教ありーの、体験談ありーの、いろんな回答が寄せられてはいたけれど、この、ある種FAQとも言えるべき質問に、だれもこう問い返した人はいなかった。
「なんで読まなきゃならないとあなたは思ってるの?」
そうなのだ。
わたしはスキーというものをやったことがなくて(寒いのがキライなのだ。あんな寒いところで鼻水を垂らすことが楽しいなんて正気の沙汰ではない、と思っている)、おそらくこれからもやらないと思うけれど、「スキーなんて雪国に住んでるわけでもない人間が、なんでやらなきゃいけないの?」なんていう質問を、人に向かってしてみようとは思わない。やりたくなければやらなかったらいい。それだけの話だ。
だが、文学にたいするこうした質問、あるいはちょっと知恵のつき始めた中学生くらいがよくする「学校の勉強なんて役にたたないのに、なんでやらなきゃならないの?」という質問は、実は自分がやりたくない、という意思表明なのである。そう意思表明したいんだけど、なんだかそうすると肩身が狭いような気がする、コンセンサスを得られそうもない。
ことばを換えれば、世間には文学を読まなければならない(勉強をしなければならない)という規範があるようだけど、それってどうよ、と規範の根拠を求めているわけである。
規範とまではいかないにせよ、確かに「本は読むべきだ」という暗黙の了解事項はあるのかもしれない。そのなかでも、文学だ。文学だよ、なんだかずいぶん立派そうじゃありませんか。
これを歴史的に見てみると……、なんて始めると、また大変なことになるので、ここではしません。ただ、ほんとに読んだ方がいいの? 読むとどういいの? ということは、いちど考えておいた方がいいような気がする。
学生の頃、家庭教師のアルバイト先で、そこの家のお母さんに「ウチの子、本、読まないんです」と相談されたことがある。「別に読みたくなきゃ読まないでいいんじゃないですか」(あ、結論、書いちゃった)、と答えるわたしに、「だって、本、読む子は文章題とか有利っていうじゃないですか」と言われたときは、思わず「はぁ?」と聞き返してしまったものだった(あー、こういう態度は嫌われてたんだろうなぁ。まだ青かったなぁ……)。
ともかくここからわかるのは、ここんちのお母さんが本を楽しんで読む習慣のない人で、実際に読んで楽しいと思ったこともない、ということだ。自分が読みもしないものを、子どもに読ませようというのもなんだかな、だし、本=文章題に有利、っていうのはねぇ……。ずいぶん汎用性のない根拠を持ち出してきたもんだ。
まぁ結論も書いちゃったことだし、言ってしまうと、そんな規範なんか実際にあるわけではないし、当然のことながら、なんの根拠もない。こうした「暗黙的な社会の了解ごと」を、ひとつひとつ「ほんとうにそうなのか」と考えていくことは、すごく大切だと思うし、おもしろいことだ。だけど、いまここで書こうと思ってるのは、そういうこととはちょっとちがう。だから、ここでは、「本は読みたい人だけが読めばいい」ということにして、先へ進める。
本を読むことは、義務なんかじゃない。
逆に、読むことができる人だけが、その楽しみを味わうことができる特権なのだ。
どうだ、うらやましいだろう……、じゃなくて。
ここでいいたいのは、「読む」というのは、スキーや鉛筆を削ることと同様、一種のスキルである、ということなのだ。読むことを愉しむことができる人というのは、読む習慣がない人に較べて、すでにある程度のスキルを持っていることは言うまでもない。
それでも、小説は理屈ではない、いいと感じることができればそれで十分、解釈や分析など必要ない、というのはほんとうだろうか。ああ、おもしろかった。良かった。感動した。じゃ、つぎ、で、ほんとうにいいんだろうか。
「わずか六冊かそこらの本をよく知っているだけで、ひとはどんな学者にもなれるものです」
いまから百年以上前に、フロベールは彼の愛人への手紙の中でそう語っている、と、ウラジーミル・ナボコフは『ヨーロッパ文学講義』の冒頭で紹介している。
ちょっと六冊だけじゃいやだけど、要はそれくらい、一冊の本をすみずみまで、ナボコフのことばを借りれば「思いやり深く、けっして急ぐことなく丁寧に、詳細に扱う」ことが必要なのではないか、そうして、そのためには、「読み」のスキルを高めていくことが必要なのではないか、ということなのである。
この『ヨーロッパ文学講義』で、まずナボコフは、「良き読者」になるためには、どうあるべきか、つぎの中から答えを四つ選べ、としている。
あなたはどれを選びますか?
(この項続く)
簡単に要約すれば
「文学なんて役に立たないものを、なんで読まなきゃならないの?」
ということだった。
例によって、説教ありーの、体験談ありーの、いろんな回答が寄せられてはいたけれど、この、ある種FAQとも言えるべき質問に、だれもこう問い返した人はいなかった。
「なんで読まなきゃならないとあなたは思ってるの?」
そうなのだ。
わたしはスキーというものをやったことがなくて(寒いのがキライなのだ。あんな寒いところで鼻水を垂らすことが楽しいなんて正気の沙汰ではない、と思っている)、おそらくこれからもやらないと思うけれど、「スキーなんて雪国に住んでるわけでもない人間が、なんでやらなきゃいけないの?」なんていう質問を、人に向かってしてみようとは思わない。やりたくなければやらなかったらいい。それだけの話だ。
だが、文学にたいするこうした質問、あるいはちょっと知恵のつき始めた中学生くらいがよくする「学校の勉強なんて役にたたないのに、なんでやらなきゃならないの?」という質問は、実は自分がやりたくない、という意思表明なのである。そう意思表明したいんだけど、なんだかそうすると肩身が狭いような気がする、コンセンサスを得られそうもない。
ことばを換えれば、世間には文学を読まなければならない(勉強をしなければならない)という規範があるようだけど、それってどうよ、と規範の根拠を求めているわけである。
規範とまではいかないにせよ、確かに「本は読むべきだ」という暗黙の了解事項はあるのかもしれない。そのなかでも、文学だ。文学だよ、なんだかずいぶん立派そうじゃありませんか。
これを歴史的に見てみると……、なんて始めると、また大変なことになるので、ここではしません。ただ、ほんとに読んだ方がいいの? 読むとどういいの? ということは、いちど考えておいた方がいいような気がする。
学生の頃、家庭教師のアルバイト先で、そこの家のお母さんに「ウチの子、本、読まないんです」と相談されたことがある。「別に読みたくなきゃ読まないでいいんじゃないですか」(あ、結論、書いちゃった)、と答えるわたしに、「だって、本、読む子は文章題とか有利っていうじゃないですか」と言われたときは、思わず「はぁ?」と聞き返してしまったものだった(あー、こういう態度は嫌われてたんだろうなぁ。まだ青かったなぁ……)。
ともかくここからわかるのは、ここんちのお母さんが本を楽しんで読む習慣のない人で、実際に読んで楽しいと思ったこともない、ということだ。自分が読みもしないものを、子どもに読ませようというのもなんだかな、だし、本=文章題に有利、っていうのはねぇ……。ずいぶん汎用性のない根拠を持ち出してきたもんだ。
まぁ結論も書いちゃったことだし、言ってしまうと、そんな規範なんか実際にあるわけではないし、当然のことながら、なんの根拠もない。こうした「暗黙的な社会の了解ごと」を、ひとつひとつ「ほんとうにそうなのか」と考えていくことは、すごく大切だと思うし、おもしろいことだ。だけど、いまここで書こうと思ってるのは、そういうこととはちょっとちがう。だから、ここでは、「本は読みたい人だけが読めばいい」ということにして、先へ進める。
本を読むことは、義務なんかじゃない。
逆に、読むことができる人だけが、その楽しみを味わうことができる特権なのだ。
どうだ、うらやましいだろう……、じゃなくて。
ここでいいたいのは、「読む」というのは、スキーや鉛筆を削ることと同様、一種のスキルである、ということなのだ。読むことを愉しむことができる人というのは、読む習慣がない人に較べて、すでにある程度のスキルを持っていることは言うまでもない。
それでも、小説は理屈ではない、いいと感じることができればそれで十分、解釈や分析など必要ない、というのはほんとうだろうか。ああ、おもしろかった。良かった。感動した。じゃ、つぎ、で、ほんとうにいいんだろうか。
「わずか六冊かそこらの本をよく知っているだけで、ひとはどんな学者にもなれるものです」
いまから百年以上前に、フロベールは彼の愛人への手紙の中でそう語っている、と、ウラジーミル・ナボコフは『ヨーロッパ文学講義』の冒頭で紹介している。
ちょっと六冊だけじゃいやだけど、要はそれくらい、一冊の本をすみずみまで、ナボコフのことばを借りれば「思いやり深く、けっして急ぐことなく丁寧に、詳細に扱う」ことが必要なのではないか、そうして、そのためには、「読み」のスキルを高めていくことが必要なのではないか、ということなのである。
この『ヨーロッパ文学講義』で、まずナボコフは、「良き読者」になるためには、どうあるべきか、つぎの中から答えを四つ選べ、としている。
1.読者は読書クラブに属するべきである。
2.読者はその性別にしたがって、男主人公ないし女主人公と一体にならなければならない。
3.読者は社会・経済的観念に注意を集中すべきである。
4.読者は筋や会話のある物語のほうを、ないものより好むべきである。
5.読者は小説を映画で観ておくべきである。
6.読者は作家の卵でなければならない。
7.読者は想像力をもたなければならない。
8.読者は記憶力をもたねばならない。
9.読者は辞書をもたなければならない。
10.読者はなんらかの芸術的センスをもっていなければならない。
あなたはどれを選びますか?
(この項続く)
そして、逃げます(ぉぃ)
で、必要そうなものから並べてみました。
7.読者は想像力をもたなければならない。
8.読者は記憶力をもたねばならない。
9.読者は辞書をもたなければならない。
10.読者はなんらかの芸術的センスをもっていなければならない。
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1.読者は読書クラブに属するべきである。
4.読者は筋や会話のある物語のほうを、ないものより好むべきである。
3.読者は社会・経済的観念に注意を集中すべきである。
2.読者はその性別にしたがって、男主人公ないし女主人公と一体にならなければならない。
6.読者は作家の卵でなければならない。
5.読者は小説を映画で観ておくべきである。
7.8.は「良い悪い」抜きで「読む」行為の必須条件かなと。
9.普通に考えたら必要でしょうね。
10.いまひとつ曖昧だけど動かしているとココにきた。
1.良きことだと思うけど、それはまた別の愉しみ方では。
4.筋のないものといえばポエム? ポエムが否定されるなんてことはないでしょう。
3.愛は二の次?そんなぁ。
2.読むべき本が限られるのは違うでしょう。
6.書く才能は次元の違う話だと思う。
5.映画化されてないと……逆は聞くけどねぇ。
で、7.8.9.10。
これでいいです。これが私の読み方です。(←開き直りの準備)
消去法で考えて「そんなことしなくちゃいけないのなら、良き読者にならなくてもいいや」というのは、1、2、3、6、9、10なので、これらを除外。
4.読者は筋や会話のある物語のほうを、ないものより好むべきである。
これは私の好みと合致します。
5.読者は小説を映画で観ておくべきである。
テレビで観て、本を買うというのはよくあります。結末がわかっていると安心するのでお勧めです。
7.読者は想像力をもたなければならない。
ただし、作者より想像力が優れている場合は、読んだあと腹が立ちます。
8.読者は記憶力をもたねばならない。
これは逆です。記憶力はないほうがよいです。同じ本を何度読んでも笑えるから。しかし、記憶力のないおかげで今まで同じ本を何度買ったことやら・・・。あ、だから良い読者なのか・・・。
というわけで、私の回答は 4・5・7・8です。
ナボコフがあげたのは、7.8.9.10の四つです。
だけど、人間の行動って、なんであれ、ほかのことと無関係にはありえない。まずそのひとがいて、そのさまざまな現れとして、いろんな行動があるわけです。
だから、わたしはどれが正しい、としたって、そのひととつながっていく意見であれば、それ、変だよ、なんて思わないし、ちがうんじゃない、みたいなことは言えませんし、言いたくありません。
ただ、そのひととつながっていない意見、これがきっと正解だろうな、とか、こういっておいたほうがいいな、みたいな(もちろんそれだってそのひとの現れなんだけど)そういうのは、なんかちがうな、と思うけれど。
ゆふさん、お久しぶりです。
遊びにいらしていただけたんですね。ブログまで閉鎖なさったんで、どうしていらっしゃるかな、とずっと気にかかってたんです。見ていただいて、うれしいです。お元気そうで、何よりです(けど、逃げんじゃねぇよ、って言っていい?)。
また遊びに来てくださいね。
helleborusさん、回答どうもありがとうございます。
ナボコフ先生も、地下でさぞお喜びだと思います。
>7.8.は「良い悪い」抜きで「読む」行為の必須条件かなと。
これは確かにそのとおり。ただ、想像力についても、ナボコフは二種類あると言ってます。
このことについては、ちょっと今日書けないんで、明日追加します。
arareさん、arareさんらしいエスプリに満ちた回答、どうもありがとうございます。
>これは逆です。記憶力はないほうがよいです。同じ本を何度読んでも笑えるから。しかし、記憶力のないおかげで今まで同じ本を何度買ったことやら・・・。あ、だから良い読者なのか・・・。
には、笑ってしまいました。
だけど、子どものころって、どれだけはっきり覚えていても、同じところでやっぱり笑ってませんでした?
同じ冗談を三回聞かされると、腹が立ちますが、上質のユーモアは、何回読んでも心が温かくなります。
また、楽しい書きこみ、よろしくおねがいします。