第三回
執事がそう答えたとき、ドアが開いてフォスター氏が玄関ホールに現れた。立ったまま、つかのま妻の顔をじっと見つめたので、妻の側も見返した――小柄だが、きびきびとした老人で、豊かな顎髭はやした顔は、アンドリュー・カーネギーの古い写真に驚くほどよく似ていた。
「さて、と。あの飛行機に乗ろうと思えば、そろそろ出かけた方が良かろう」
「ええ、そうですわ、あなた。もう準備はすっかり整っているんですのよ、車も待ちかねてますわ」
「結構」そういうと、首を傾げて夫人の顔をまじまじと見つめた。その首の傾げ方には独特のものがあって、小刻みに小さく素早く揺するのである。そうやったまま組み合わせた手を、胸の当たりまで持ち上げていたものだから、どこか立ちあがったリスのようにも見えた――セントラル・パークからやってきた敏捷で賢い、年取ったリス。
「ウォーカーがあなたのコートを持ってきてくれましたわ。お召しになって」
「すぐいくよ」彼は言った。「ちょっと用足しに行ってこよう」
夫人は待った。背の高い執事が隣でコートと帽子を手に立っている。
「ウォーカー、わたし間に合うかしら?」
「ご心配いりません、奥様」執事は答えた。「きっと大丈夫でございますよ」
やっとフォスター氏が戻ってきたので、執事がコートを着せかけた。フォスター夫人は外へ急ぎ、ハイヤーのキャデラックに乗り込んだ。そのあとからやってきた夫の方は、屋敷の階段をゆっくりとおりながら、途中で止まって空を眺めたり、朝の冷たい空気をかいだりしている。
「少し霧があるな」妻の隣に腰をおろしながら言った。「いつもここらより空港の方が霧は濃いからな。飛行機が運航中止になったとしても、驚くにはあたらんね」
「そんなこと、おっしゃらないで。お願いですから」
ふたりはロング・アイランドの橋を渡り終わるまで、口を開くこともなかった。
「召使いのことはすべてわたしが手配しておいたからな」フォスター氏は言った。「みんな今日のうちに出ることになっておる。六週間分の給料の半分はもう払ってやったし、ウォーカーには、途中で戻ってほしいようなことがあれば電報を打つと言っておいたよ」
「わかってますわ」夫人は答えた。「ウォーカーからも聞いてますから」
「わたしは今夜からクラブへ行くよ。クラブに泊まるのもいい気分転換になるだろう」
「そうですわね、あなた。わたしもお手紙、差し上げますわ」
「家の方にもときどきは不都合がないか確かめたり、手紙を取りに行ったりすることにしよう」
「だけど、ほんとうはずっとウォーカーにいてもらって、様子を見てもらったほうがよかったんじゃなくて?」夫人はおずおずと聞いてみた。
「馬鹿馬鹿しい。そんな必要などない。第一、そうなれば給料を全額払わねばならん」
「そうですわね。もちろん」
「おまけにおまえには見当もつかんだろうが、連中ときたら屋敷に自分だけとなるといったい何を始めるものやらわからんのだ」フォスター氏はきっぱりと申し渡すと、葉巻を取りだして、銀のカッターで端を切り、金のライターで火をつけた。
夫人は膝掛けの下で手をきつく組んで、車のシートに静かに座っていた。
「お手紙、くださる?」夫人は尋ねた。
「書くかもしれん。だが、どうかわからん。何か特別なことが起こりでもしたら別だが、わたが筆無精ということは、おまえも知っておるだろう」
「わかってますわ、あなた。だから、あまりお気になさらないで」
車はクイーンズ・ブールヴァード沿いを走っていく。アイドルワイルドがある低湿地に近づくにつれて、霧はしだいに濃くなり、車は速度を落とさないわけにはいかなくなった。
「あら大変!」フォスター夫人は声をうわずらせた。「これじゃほんとうに間に合いっこないわ。いま何時かしら」
「さわぐんじゃない」老人は言った。「もうそういう問題じゃない。これでは飛行中止だろうよ。こんな天候で飛べるものか。わざわざ行きたがるおまえの気が知れんね」
確信はなかったが、ふと、夫の声に、いままで聞いたことのないような響きが混ざっているのを聞いたように思った。髭の下の表情がどんなふうに変わったのか、見極めることもできない。口元だけでもわかればいいのに。これまでにもなんどもそう思ってきたのだった。夫の目は、怒っているときをのぞけば、何の色も浮かばない。
「もちろん」夫は続けた。「万一飛ぶようなことがあっても、確かにおまえは正しいよ――もう間に合わんだろう。もうあきらめたらどうだ」
夫人は顔を背けて、窓の外の霧の向こうに眼をこらした。進につれて、霧はいっそう濃くなり、道路の縁と、向こうに広がる草地の境目をなんとか見分けるのがやっとだ。夫がまだ自分の方を見ていることはわかっていた。ふたたび夫にすばやく目を走らせると、自分の左目の隅、ぴくぴくと引きつっている箇所を、夫がじっと見ていることに気がついて、ぞっとするような思いがした。
「さて、どうする?」夫は言った。
「どうする、って何をどうするんですの?」
「飛行機が飛んだにしても、間に合うはずがない。こんな霧のなかでは早く走れるわけがないんだから」
そのまま夫は何も言わなくなった。車の徐行は続く。黄色いライトで目の前の道路を照らし、それでやっと進んでいるのだった。さまざまなライト、白いものもあれば黄色いのもあるライトが霧の中からいくつも現れたが、その向こうには、とりわけ大きく明るく輝くライトがずっと見えていた。
不意に運転手は車を停めた。
「ほら言わんこっちゃない」フォスター氏は大きな声をだした。「立ち往生だ。こうなるだろうと思っていたよ」
「そうじゃありません」運転手が振り返った。「着きました。空港です」
(この項つづく:空港についた夫人はどうなるのでしょう)
※音楽堂のレビューの項を追加しました。マニアックなログですが、Dream Theater の "Constant Motion" を書いています。You Tubeでも聴くことができるんですが、これはシングルカット版みたいで、ずいぶんカットしてある。シングル版だと、ふつうの曲になっちゃってて、うーん、って感じです。オリジナルはすごい。すごいけど、何を書いてるか意味不明かもしれません)
執事がそう答えたとき、ドアが開いてフォスター氏が玄関ホールに現れた。立ったまま、つかのま妻の顔をじっと見つめたので、妻の側も見返した――小柄だが、きびきびとした老人で、豊かな顎髭はやした顔は、アンドリュー・カーネギーの古い写真に驚くほどよく似ていた。
「さて、と。あの飛行機に乗ろうと思えば、そろそろ出かけた方が良かろう」
「ええ、そうですわ、あなた。もう準備はすっかり整っているんですのよ、車も待ちかねてますわ」
「結構」そういうと、首を傾げて夫人の顔をまじまじと見つめた。その首の傾げ方には独特のものがあって、小刻みに小さく素早く揺するのである。そうやったまま組み合わせた手を、胸の当たりまで持ち上げていたものだから、どこか立ちあがったリスのようにも見えた――セントラル・パークからやってきた敏捷で賢い、年取ったリス。
「ウォーカーがあなたのコートを持ってきてくれましたわ。お召しになって」
「すぐいくよ」彼は言った。「ちょっと用足しに行ってこよう」
夫人は待った。背の高い執事が隣でコートと帽子を手に立っている。
「ウォーカー、わたし間に合うかしら?」
「ご心配いりません、奥様」執事は答えた。「きっと大丈夫でございますよ」
やっとフォスター氏が戻ってきたので、執事がコートを着せかけた。フォスター夫人は外へ急ぎ、ハイヤーのキャデラックに乗り込んだ。そのあとからやってきた夫の方は、屋敷の階段をゆっくりとおりながら、途中で止まって空を眺めたり、朝の冷たい空気をかいだりしている。
「少し霧があるな」妻の隣に腰をおろしながら言った。「いつもここらより空港の方が霧は濃いからな。飛行機が運航中止になったとしても、驚くにはあたらんね」
「そんなこと、おっしゃらないで。お願いですから」
ふたりはロング・アイランドの橋を渡り終わるまで、口を開くこともなかった。
「召使いのことはすべてわたしが手配しておいたからな」フォスター氏は言った。「みんな今日のうちに出ることになっておる。六週間分の給料の半分はもう払ってやったし、ウォーカーには、途中で戻ってほしいようなことがあれば電報を打つと言っておいたよ」
「わかってますわ」夫人は答えた。「ウォーカーからも聞いてますから」
「わたしは今夜からクラブへ行くよ。クラブに泊まるのもいい気分転換になるだろう」
「そうですわね、あなた。わたしもお手紙、差し上げますわ」
「家の方にもときどきは不都合がないか確かめたり、手紙を取りに行ったりすることにしよう」
「だけど、ほんとうはずっとウォーカーにいてもらって、様子を見てもらったほうがよかったんじゃなくて?」夫人はおずおずと聞いてみた。
「馬鹿馬鹿しい。そんな必要などない。第一、そうなれば給料を全額払わねばならん」
「そうですわね。もちろん」
「おまけにおまえには見当もつかんだろうが、連中ときたら屋敷に自分だけとなるといったい何を始めるものやらわからんのだ」フォスター氏はきっぱりと申し渡すと、葉巻を取りだして、銀のカッターで端を切り、金のライターで火をつけた。
夫人は膝掛けの下で手をきつく組んで、車のシートに静かに座っていた。
「お手紙、くださる?」夫人は尋ねた。
「書くかもしれん。だが、どうかわからん。何か特別なことが起こりでもしたら別だが、わたが筆無精ということは、おまえも知っておるだろう」
「わかってますわ、あなた。だから、あまりお気になさらないで」
車はクイーンズ・ブールヴァード沿いを走っていく。アイドルワイルドがある低湿地に近づくにつれて、霧はしだいに濃くなり、車は速度を落とさないわけにはいかなくなった。
「あら大変!」フォスター夫人は声をうわずらせた。「これじゃほんとうに間に合いっこないわ。いま何時かしら」
「さわぐんじゃない」老人は言った。「もうそういう問題じゃない。これでは飛行中止だろうよ。こんな天候で飛べるものか。わざわざ行きたがるおまえの気が知れんね」
確信はなかったが、ふと、夫の声に、いままで聞いたことのないような響きが混ざっているのを聞いたように思った。髭の下の表情がどんなふうに変わったのか、見極めることもできない。口元だけでもわかればいいのに。これまでにもなんどもそう思ってきたのだった。夫の目は、怒っているときをのぞけば、何の色も浮かばない。
「もちろん」夫は続けた。「万一飛ぶようなことがあっても、確かにおまえは正しいよ――もう間に合わんだろう。もうあきらめたらどうだ」
夫人は顔を背けて、窓の外の霧の向こうに眼をこらした。進につれて、霧はいっそう濃くなり、道路の縁と、向こうに広がる草地の境目をなんとか見分けるのがやっとだ。夫がまだ自分の方を見ていることはわかっていた。ふたたび夫にすばやく目を走らせると、自分の左目の隅、ぴくぴくと引きつっている箇所を、夫がじっと見ていることに気がついて、ぞっとするような思いがした。
「さて、どうする?」夫は言った。
「どうする、って何をどうするんですの?」
「飛行機が飛んだにしても、間に合うはずがない。こんな霧のなかでは早く走れるわけがないんだから」
そのまま夫は何も言わなくなった。車の徐行は続く。黄色いライトで目の前の道路を照らし、それでやっと進んでいるのだった。さまざまなライト、白いものもあれば黄色いのもあるライトが霧の中からいくつも現れたが、その向こうには、とりわけ大きく明るく輝くライトがずっと見えていた。
不意に運転手は車を停めた。
「ほら言わんこっちゃない」フォスター氏は大きな声をだした。「立ち往生だ。こうなるだろうと思っていたよ」
「そうじゃありません」運転手が振り返った。「着きました。空港です」
(この項つづく:空港についた夫人はどうなるのでしょう)
※音楽堂のレビューの項を追加しました。マニアックなログですが、Dream Theater の "Constant Motion" を書いています。You Tubeでも聴くことができるんですが、これはシングルカット版みたいで、ずいぶんカットしてある。シングル版だと、ふつうの曲になっちゃってて、うーん、って感じです。オリジナルはすごい。すごいけど、何を書いてるか意味不明かもしれません)