陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

“人のいやがることをしない”はモットーになりうるか

2007-09-21 23:04:10 | weblog
先日、サイトの"about"(このサイトについて)のページを書き直したときのこと。何を書こうかと考えて、自分のモットーを書いておこうと思った。「サルのように読み、鶏のように書く」というのは、冗談と思った人も多いかもしれないけれど、実はけっこう本気だったりするのである。モットーと考えて、最初に思いついたのがそれだ。笑わせようという気持ちがまったくなかったとはいえないけれど、基本はそれだ。いっぱい読んで、書く端から忘れちゃったって、その忘れても忘れても残っていくものを大切に育てていこうという、まあそんなところなのであるが、こんなふうに言うとすごくえらそうなので、この話はおしまいだっちゃ。

さて、モットーといって、ふと思いだしたことがあった。
その昔、英会話教室でバイトしていたときのことだ。生徒と講師のあいだで意志疎通が不可能になってしまった、というので、助っ人を頼まれたのである。それが「モットー」ということだった。

その生徒、といっても四十代の女性だったのだが、彼女のモットーは「人のいやがることをしない」ということで、何としてもそれを英語で言おうとしていたのだ。
たぶん、"Not to do what others don’t like to do."(ほかの人がきらうことをやらない)というあたりを言ったのだと思う。
ところが、英語ではこんな言い方がある。
"Do what others don’t like to do."(ほかの人がやりたがらないことをやりなさい)
つまり、こちらが言っているのは、夏の草むしりとか、トイレ掃除とか、人がやりたがらないようなことを進んでやりなさい、という意味である。
講師はてっきりそういうことを言おうとしているのだと思って、not は必要ない、と主張し、生徒の側はそうではない、と主張して、話の収集が着かなくなってしまったのである。

そこで考えたのだけれど、「ほかの人がわたしにしてほしくないことをやらない」と言ったらどうだろう、と考えて、"Not to do what others don't want me to." と言ってみたのだと思う(全部、鶏頭の記憶で書いているので、はなはだ心許ないのだが、おそらくこうであろうという推測を交えつつ書いているのである)。
すると、それを聞いたアメリカ人は、そんなのはばかげている、当たり前のことじゃないか、そんな当たり前のことはモットーにも何にもならない、と言い出して、いよいよ話はややこしくなったのだった。

ridiculous だとか silly とか、赤い顔をして繰りかえしていた講師の顔は覚えているけれど、それから先はどうなったか記憶にない。
確かに「ほかの人がわたしにしてほしくないこと」をやるのはいやがらせにちがいない。そういうことをやらないことに、一体どこに価値があるのか、と思ったのは、まったく不思議はないのだった。

いまさらながら、どういったらいいだろう、と考えて、こんな表現を思いついた。

"Not to do to others what you would not wish done to yourself."
(あなたがしてほしくないことはほかの人にもしてはいけません)

つまり、これは孔子の「おのれの欲せざるところを人に施すことなかれ」の英訳である。
そのとき、これを言っていたら、あの講師も、モットーにはならない、とは言わなかったのではあるまいか。

ところで、このことに関しては、伊藤整がおもしろいことを書いていた。伊藤整はキリスト教では「人にかくせられんと思うことを人に為せ」といい、儒教では「おのれの欲せざるところを人に施すことなかれ」という。ここに西洋と東洋のちがいを見て取る。
私は漠然と、西洋の考え方では、他者との組み合わせの関係が安定した時に心の平安を見出す傾向が強いこと、東洋の考え方では、他者との全き平等の結びつきについて何かの躇(ためら)いが残されていることを、その差異として感じている。我々日本人は特に、他者に害を及ぼさない状態をもって、心の平安を得る形と考えているようである。「仁」とか「慈悲」という考え方には、他者を自己のように愛するというよりは、他者を自己と同じには愛し得ないが故に、憐れみの気持をもって他者をいたわり、他者に対して本来自己が抱く冷酷さを緩和する、という傾向が漂っている。だから私は、孔子の「おのれの欲せざるところを人に施すことなかれ」という言葉を、他者に対する東洋人の最も賢い触れ方であるように感ずる。他者を自己のように愛することはできない。我らの為し得る最善のことは、他者に対する冷酷さを抑制することである、と。
(伊藤整「近代日本における「愛」の虚偽」『近代日本人の発想の諸形式』岩波文庫)

「西洋と東洋」の比較というのは、なかなか一概に言えるのか、たとえばイギリスとフランスとドイツとさらにロシア、あるいは東欧諸国、さらにはアメリカを西洋とひとくくりにできるのか、さらに東洋はどうだろう、インドはどちらになるのだろう、と考えだすといろいろ悩ましくなってくるのだが、ここではそこらへんはとりあえず置いておく。

ただ、「自分がしてほしいことを人にもしてあげなさい」は他者と自分を同じ、ということを前提としていて、「人のいやがることをしない」という言葉はそれを前提としていないか、というと、ちょっと考えてしまうのだ。だって「人のいやがること」というのは、やはり自分から類推するしかないから。ただ、わたしたちの心情としては、「自分がしてほしいことを人にもしてあげなさい」というより、「人のいやがることをしない」のほうがすんなりくるのも確かなのである。

日本語は否定形の方が多い、という言い方もあるのだが、やはりここでは伊藤のいうように、「他者に対する冷酷さを抑制」というのが正しいかどうかはともかく、そういう意味をこめたいな、と思うのである。

実は、わたしたちは「人のいやがることをしない」を自分のモットーというより、人に押しつけることの方が多いのではないか、という気がわたしは密かにしているのだ。
「人のいやがることをしちゃいけません」と親が子供に言う。
「「人のいやがることをしない」というのが、友だちの基本でしょう?」と、いやなことをしてきた相手をなじるときに言う。
どうもそんな局面で使われているような気がしてならないのだ。

むしろ、これは人に押しつけるのではなく、自分のモットーとして、「他者に対する冷酷さを抑制」するための自戒をこめて、モットーとしたいのである。
そういうふうに説明したら、アメリカ人も、馬鹿げているとはいわないのではないかと思うのだ。
そこまで英語で説明できるかどうかはわからないので、念のために考えておこう。