ときどき見かける、決して重いようには見えない連れの女性のハンドバッグを持って歩いている若い男性がいるが、あれはいったいどういうことなのだろう。
1.あなたを大切にしてあげる、という女性に向けたアピール(もちろん本心は不明だから “アピール”なのである)
2.自分はガールフレンドに箸より重いものは持たせまいと考える男である、という世間に向けたアピール
3.これはおれが出資したバッグだから、ある意味ではおれのものでもある、という女性に向けたアピール
4.おれはこんなブランド品を彼女に買ってやることができるほど財力があるのだ、という世間に向けたアピール
5.女性用ハンドバッグが実は好きでたまらない。だから実は手にするチャンスをうかがっている。
一方、ハンドバッグを相手に持たせている女性というのも、どんなつもりでそんなことをさせているのだろう。
A.あなたが持ちたいというなら、そうしてください、わたしはなんでもあなたの言うことを聞きます、という男性に向けたアピール
B.わたしの大切なものが入っているバッグをあずけるほどあなたを信頼しているから、という男性に向けたアピール
C.わたしはこれからも箸より重いものは持つ気がないから、しっかり荷物は持ってね、という男性に向けたアピール
D.わたしはこんなにも彼氏に大切にしてもらってるのよ、という世間に向けたアピール
E.実は、ハンドバッグを始め、荷物を持つのがいやでたまらない
この行為を「何らかのアピール」と見ると、ここらへんの理由が考えられるのではあるまいかと思ったのだけれど(もちろん冗談も含めて)、わたしが偏屈なせいで、何か重要な点を見落としているような気もする。気がつかれた方はぜひご指摘お願いします(愉快なのも大歓迎)。
ここらへんは善し悪しではなく純粋にその人の嗜好の問題だと思うのだが、わたしは基本的に他の人に自分のものをふれられることがあまり好きではない。別に、エンピツ貸して、本貸して、という場面を指しているわけではなく(こういうときは喜んでお貸しします)、そうではなくて、ああ、こう書きながら自分がひどく狭量で偏屈な人間のような気がしてくるのだけれど、つまりは自分からすすんで差し出すものでないかぎり、私物を他の人にあまりふれてほしくないと思っているわけだ。これは手をつなぐ、腕を組む、ハグする、という身体に関わることでも一緒なのだけれど(あくまでも自分からすすんで差し出すときは別です←結局、わがままということか?)。
だから、どれだけ大荷物だろうが自分で持つことにしている、というか自分が持てる量というのはたいてい見当がつくので、自分が持てない荷物を抱えて苦労するような経験は、幸いにしてこれまではない。形状にもよるが、20kgくらいまでなら大丈夫。米袋なら、三つは……ムリかな。
何はともあれ、こういうおおざっぱな言い方は多少どうかとは思うのだが、それでも言ってしまえば、1970年代の空気を吸って育ったわたしたちの世代にとって、少なくともわたしの周囲では、「男女平等」というのは、その内実はどうであれ、ひとつの重要なルールだったように思う。
女だからという理由で差別されることがあってはならない。
このことは表裏として、女だからという理由で、楽をしたりいい思いをしたりすることがあってはならない、という、当時の女の子たちを縛る禁忌を含んでいたように思う。だからこそ「ぶりっこ」というのは、最大の非難であり、侮蔑だったのではあるまいか。
一般的に言う力仕事を経験しなくてはならない場面は多くはなかったが、椅子だの机だの本だのを運ぶようなときも、力のある男子と同じだけは運べないにしても、自分に可能な量は運ぶ、というのが暗黙の了解だった。あくまでもわたしの目を通した感じ方ではあるのだが、「女だから」という扱いをする人間も、それを期待する人間もあまりいなかったように思う。もちろん力仕事と水仕事とがあれば、水仕事の方にまわるようなことはあったが、トータルに考えて、どちらか一方が楽をするようなことはならないよう、なんとなくみんな自分からそんなふうに動いていたように思う。
自分の行動を決めるときも、「甘え」かそうでないかは、ひとつの判断基準だった。
男性ばかりではない、女性であろうと、周囲の誰かの好意をあらかじめあてにしておいて、それを前提としたところで自分の行動を計画していく、というのは、非常によろしくない、甘ったれた考え方だと思っていた。
ただ、少しずついろんなことが見えてくるようになるにつれて、さまざまなことを「甘え」と言ってしまうことにためらう気持ちが強くなってきた。
わたし自身が「女であることに甘えている」という批判を何度か受けたということもある(ちなみに女性から)。まったくそういう自覚はなかったのだが、そういう人からみれば「それこそが問題」で、「男性上位的なイデオロギーにどっぷりと浸っている」から、まったく気がつかないのだそうだ。
わたしの行動を「女であることに甘えている」と解釈してしまうのも、「別のイデオロギーにどっぷりと浸っていてそのことに気がつかないせいだ」という可能性もありますよ、と指摘してあげようかと思ったが、指摘してもあまりいいことはなさそうだったので、やめておいた(なにしろわたしは人間が練れているのである(含嘘))。
なんというか、「甘え」と言ってしまえば、何もかもが甘えなのだ。
わたしたちのコミュニケーション自体が「相手はわたしの言うことを聞いてくれるはず」「相手はわたしの言うことを理解しようとしてくれるはず」「お互い、わかりあえるはず」という、相手の好意を前提としているのだから。「甘え」だといえば、これほどの甘えもないのである。
たとえば誰かに対する批判的な言辞を述べる。悪口を言う。そういうことが言えるのも、相手がそれを受け入れてくれるということを前提としているからこそなのだ。相手がそれで腹を立てたり、ものすごい仕返しをしてきたり、殴りかかってきたりしないということに「甘え」ているからこそ、そういうことができる。
その最たるものが、「それは甘えだ」と他人に対して言うときだろう。
自分は相手ではない。相手の置かれた状況もなにもほんとうにはわからない。それを、わかりあう努力もせず、相手の事情を聞いて相互了解に至る前に、勝手にコミュニケーションをうち切り、「甘えだ」という一言の下に切って捨てるのだから。
あるいは、冗談を言う。大げさな言い方をする。
「もう、ここに来てくださらないと、わたし、病気になっちゃいますからね」
この言葉は、“そのくらい自分にそこに来てほしいのだ”と相手が理解してくれることを前提としている「甘え」だ。相手が理解してくれなければ、これはただの嘘になってしまう。相手は自分の気持ちをわかってくれる、と安心しているからこそ、こういうことも言える。
レトリックだって、アレゴリーだってそうだ。相手が言葉通りにしか受けとってくれなければ、レトリックもアレゴリーも成立しない。相手はもう一歩踏みこんで、自分の言葉を読み取って(聞き取って)くれるにちがいない、ということを前提としている。
人と話をして、この人はこういう人だと思う。だから、つぎのことを言って、その理解が正しいかどうか確かめてみる。そういうことができるのも、たとえその「理解」が、相手からしてみれば「誤解」であったとしても、おそらく相手は「誤解だ」と腹を立てて席をたってしまわないだろうと思っているから、「自分はあなたのことをこのように理解したのだけれど……」ということができる。あるいは、それをもとに、何らかの提案をすることができる。たとえその「理解」が相手と一致しなくても、やり直せる、修正できるとわかっているからこそ、そういうことも言える。
甘えのないコミュニケーションというのは、どのようなものだろう。
まず、相手が自分の話を聞きたがっているかどうかわからないのだから、まずそこに「甘え」ないよう、了解を取らなければならない。
「これから約三分にわたってわたしはあなたに話をするつもりですが、かまいませんか?」
それから、“このことは相手がすでに知っているはず”という前提に「甘え」ないよう、伝達すべき情報は遺漏のないように、あらゆることを伝えなければならない。場所も北緯・東経から始めた方がいいかもしれない。
いや、そんな七面倒な話を三分間相手が辛抱して聞いてくれるということに「甘え」てはならない……。
となると、いったい何をどう言えばいいのだ?
土居健郎は『甘えの構造』のなかで、「甘え」とは日本人特有の感情だと定義しているが、ほんとうにそうなのだろうか。土居の言うように、甘え=他人への依存、というのが、日本人に特有の心的傾向なのだろうか。
わたしには、言葉を尽くして語り合えばかならず共通認識に至る、という西洋流のコミュニケーションの根本にも、現れはちがっていても、「相手は理解してくれるにちがいない」という依存があるように思うのだが。
情報を伝達する、気持ちをつたえあう、わかりあおうとする、そうしたことはすべて「甘え」を含んでいる。つまり、自分が自分でない相手とつきあおうとする限り、どこかで依存しないわけにはいかないのだ。
問題なのは、「甘える」ことではなく、互いに、甘えあえるような関係を、一時的ではなく、長期に渡って築いていくということではないのだろうか。
何か、これだけ書いて、あまりに当たり前のことしか言えないことに、自分でも情けなくなってくるのだけれど。
彼女がハンドバッグを持ってもらっていて彼氏に甘えているのか、彼女のハンドバッグを持たせてもらっている彼氏の方が彼女に甘えているのか、わたしにはよくわからない。ただ、そういうことができる関係というのは、したいのにできない関係よりはずっといい。したくもないのにしているのであれば、それはそれで困ったことだが。
とはいえ、わたしはハンドバッグは自分で持ちたい。相手によっては、米袋なら持ってもらうかもしれないけれど。
(※このログは昨日書いていたら、ちがうほうに迷い込んでしまって、結論をつけそこなったので、今日、書き直してアップしました。
サイト、さっき見てみたら30031でした。どなたか30000番踏まれたのに気がついた方、いらっしゃいましたら教えてください。わたしからのささやかな贈り物をしたいと思います。二葉亭も明日か明後日にはアップできそうです)
1.あなたを大切にしてあげる、という女性に向けたアピール(もちろん本心は不明だから “アピール”なのである)
2.自分はガールフレンドに箸より重いものは持たせまいと考える男である、という世間に向けたアピール
3.これはおれが出資したバッグだから、ある意味ではおれのものでもある、という女性に向けたアピール
4.おれはこんなブランド品を彼女に買ってやることができるほど財力があるのだ、という世間に向けたアピール
5.女性用ハンドバッグが実は好きでたまらない。だから実は手にするチャンスをうかがっている。
一方、ハンドバッグを相手に持たせている女性というのも、どんなつもりでそんなことをさせているのだろう。
A.あなたが持ちたいというなら、そうしてください、わたしはなんでもあなたの言うことを聞きます、という男性に向けたアピール
B.わたしの大切なものが入っているバッグをあずけるほどあなたを信頼しているから、という男性に向けたアピール
C.わたしはこれからも箸より重いものは持つ気がないから、しっかり荷物は持ってね、という男性に向けたアピール
D.わたしはこんなにも彼氏に大切にしてもらってるのよ、という世間に向けたアピール
E.実は、ハンドバッグを始め、荷物を持つのがいやでたまらない
この行為を「何らかのアピール」と見ると、ここらへんの理由が考えられるのではあるまいかと思ったのだけれど(もちろん冗談も含めて)、わたしが偏屈なせいで、何か重要な点を見落としているような気もする。気がつかれた方はぜひご指摘お願いします(愉快なのも大歓迎)。
ここらへんは善し悪しではなく純粋にその人の嗜好の問題だと思うのだが、わたしは基本的に他の人に自分のものをふれられることがあまり好きではない。別に、エンピツ貸して、本貸して、という場面を指しているわけではなく(こういうときは喜んでお貸しします)、そうではなくて、ああ、こう書きながら自分がひどく狭量で偏屈な人間のような気がしてくるのだけれど、つまりは自分からすすんで差し出すものでないかぎり、私物を他の人にあまりふれてほしくないと思っているわけだ。これは手をつなぐ、腕を組む、ハグする、という身体に関わることでも一緒なのだけれど(あくまでも自分からすすんで差し出すときは別です←結局、わがままということか?)。
だから、どれだけ大荷物だろうが自分で持つことにしている、というか自分が持てる量というのはたいてい見当がつくので、自分が持てない荷物を抱えて苦労するような経験は、幸いにしてこれまではない。形状にもよるが、20kgくらいまでなら大丈夫。米袋なら、三つは……ムリかな。
何はともあれ、こういうおおざっぱな言い方は多少どうかとは思うのだが、それでも言ってしまえば、1970年代の空気を吸って育ったわたしたちの世代にとって、少なくともわたしの周囲では、「男女平等」というのは、その内実はどうであれ、ひとつの重要なルールだったように思う。
女だからという理由で差別されることがあってはならない。
このことは表裏として、女だからという理由で、楽をしたりいい思いをしたりすることがあってはならない、という、当時の女の子たちを縛る禁忌を含んでいたように思う。だからこそ「ぶりっこ」というのは、最大の非難であり、侮蔑だったのではあるまいか。
一般的に言う力仕事を経験しなくてはならない場面は多くはなかったが、椅子だの机だの本だのを運ぶようなときも、力のある男子と同じだけは運べないにしても、自分に可能な量は運ぶ、というのが暗黙の了解だった。あくまでもわたしの目を通した感じ方ではあるのだが、「女だから」という扱いをする人間も、それを期待する人間もあまりいなかったように思う。もちろん力仕事と水仕事とがあれば、水仕事の方にまわるようなことはあったが、トータルに考えて、どちらか一方が楽をするようなことはならないよう、なんとなくみんな自分からそんなふうに動いていたように思う。
自分の行動を決めるときも、「甘え」かそうでないかは、ひとつの判断基準だった。
男性ばかりではない、女性であろうと、周囲の誰かの好意をあらかじめあてにしておいて、それを前提としたところで自分の行動を計画していく、というのは、非常によろしくない、甘ったれた考え方だと思っていた。
ただ、少しずついろんなことが見えてくるようになるにつれて、さまざまなことを「甘え」と言ってしまうことにためらう気持ちが強くなってきた。
わたし自身が「女であることに甘えている」という批判を何度か受けたということもある(ちなみに女性から)。まったくそういう自覚はなかったのだが、そういう人からみれば「それこそが問題」で、「男性上位的なイデオロギーにどっぷりと浸っている」から、まったく気がつかないのだそうだ。
わたしの行動を「女であることに甘えている」と解釈してしまうのも、「別のイデオロギーにどっぷりと浸っていてそのことに気がつかないせいだ」という可能性もありますよ、と指摘してあげようかと思ったが、指摘してもあまりいいことはなさそうだったので、やめておいた(なにしろわたしは人間が練れているのである(含嘘))。
なんというか、「甘え」と言ってしまえば、何もかもが甘えなのだ。
わたしたちのコミュニケーション自体が「相手はわたしの言うことを聞いてくれるはず」「相手はわたしの言うことを理解しようとしてくれるはず」「お互い、わかりあえるはず」という、相手の好意を前提としているのだから。「甘え」だといえば、これほどの甘えもないのである。
たとえば誰かに対する批判的な言辞を述べる。悪口を言う。そういうことが言えるのも、相手がそれを受け入れてくれるということを前提としているからこそなのだ。相手がそれで腹を立てたり、ものすごい仕返しをしてきたり、殴りかかってきたりしないということに「甘え」ているからこそ、そういうことができる。
その最たるものが、「それは甘えだ」と他人に対して言うときだろう。
自分は相手ではない。相手の置かれた状況もなにもほんとうにはわからない。それを、わかりあう努力もせず、相手の事情を聞いて相互了解に至る前に、勝手にコミュニケーションをうち切り、「甘えだ」という一言の下に切って捨てるのだから。
あるいは、冗談を言う。大げさな言い方をする。
「もう、ここに来てくださらないと、わたし、病気になっちゃいますからね」
この言葉は、“そのくらい自分にそこに来てほしいのだ”と相手が理解してくれることを前提としている「甘え」だ。相手が理解してくれなければ、これはただの嘘になってしまう。相手は自分の気持ちをわかってくれる、と安心しているからこそ、こういうことも言える。
レトリックだって、アレゴリーだってそうだ。相手が言葉通りにしか受けとってくれなければ、レトリックもアレゴリーも成立しない。相手はもう一歩踏みこんで、自分の言葉を読み取って(聞き取って)くれるにちがいない、ということを前提としている。
人と話をして、この人はこういう人だと思う。だから、つぎのことを言って、その理解が正しいかどうか確かめてみる。そういうことができるのも、たとえその「理解」が、相手からしてみれば「誤解」であったとしても、おそらく相手は「誤解だ」と腹を立てて席をたってしまわないだろうと思っているから、「自分はあなたのことをこのように理解したのだけれど……」ということができる。あるいは、それをもとに、何らかの提案をすることができる。たとえその「理解」が相手と一致しなくても、やり直せる、修正できるとわかっているからこそ、そういうことも言える。
甘えのないコミュニケーションというのは、どのようなものだろう。
まず、相手が自分の話を聞きたがっているかどうかわからないのだから、まずそこに「甘え」ないよう、了解を取らなければならない。
「これから約三分にわたってわたしはあなたに話をするつもりですが、かまいませんか?」
それから、“このことは相手がすでに知っているはず”という前提に「甘え」ないよう、伝達すべき情報は遺漏のないように、あらゆることを伝えなければならない。場所も北緯・東経から始めた方がいいかもしれない。
いや、そんな七面倒な話を三分間相手が辛抱して聞いてくれるということに「甘え」てはならない……。
となると、いったい何をどう言えばいいのだ?
土居健郎は『甘えの構造』のなかで、「甘え」とは日本人特有の感情だと定義しているが、ほんとうにそうなのだろうか。土居の言うように、甘え=他人への依存、というのが、日本人に特有の心的傾向なのだろうか。
わたしには、言葉を尽くして語り合えばかならず共通認識に至る、という西洋流のコミュニケーションの根本にも、現れはちがっていても、「相手は理解してくれるにちがいない」という依存があるように思うのだが。
情報を伝達する、気持ちをつたえあう、わかりあおうとする、そうしたことはすべて「甘え」を含んでいる。つまり、自分が自分でない相手とつきあおうとする限り、どこかで依存しないわけにはいかないのだ。
問題なのは、「甘える」ことではなく、互いに、甘えあえるような関係を、一時的ではなく、長期に渡って築いていくということではないのだろうか。
何か、これだけ書いて、あまりに当たり前のことしか言えないことに、自分でも情けなくなってくるのだけれど。
彼女がハンドバッグを持ってもらっていて彼氏に甘えているのか、彼女のハンドバッグを持たせてもらっている彼氏の方が彼女に甘えているのか、わたしにはよくわからない。ただ、そういうことができる関係というのは、したいのにできない関係よりはずっといい。したくもないのにしているのであれば、それはそれで困ったことだが。
とはいえ、わたしはハンドバッグは自分で持ちたい。相手によっては、米袋なら持ってもらうかもしれないけれど。
(※このログは昨日書いていたら、ちがうほうに迷い込んでしまって、結論をつけそこなったので、今日、書き直してアップしました。
サイト、さっき見てみたら30031でした。どなたか30000番踏まれたのに気がついた方、いらっしゃいましたら教えてください。わたしからのささやかな贈り物をしたいと思います。二葉亭も明日か明後日にはアップできそうです)