陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ロアルド・ダール 「天国へ上る道」その4.

2007-09-15 22:41:02 | 翻訳
第四回


言葉を書ける手間さえ惜しんで、フォスター夫人は車から飛び降りると、空港ビルの正面入り口へと急いだ。空港内は大勢の人であふれかえり、そのほとんどは、がっくりと肩を落とした乗客たちが、チケットカウンターのまわりでじっとしているのだった。夫人は人をかきわけながら進み、係員に尋ねた・

「はい」と彼は答えた。「お客様の便はいま現在出発を見合わせております。ただ、あまり遠くにはいらっしゃらないでください。天候は間もなく回復するようですので」

夫人はあいかわらず夫が腰を下ろしたままでいる車に戻って、この知らせを伝えた。「ですけどね、あなた、どうかもうkらっしゃって」夫人は言った。「ここにいらっしゃってもしかたがないわ」

「そうしよう」夫は答えた。「運転手が戻れるようならな。君、戻れそうかね?」

「行けると思いますよ」運転手は答えた。

「荷物は出したんだな?」

「はい、さようでございます」

「ではあなた、ごきげんよう」フォスター夫人はそう言うと、身を車に寄せて、夫の白髪混じりのひげに覆われた頬に、軽くキスをした。

「じゃあ行ってきなさい。旅を楽しんでおいで」

車が行ってしまうと、フォスター夫人はひとりになった。

それからあと、その日は夫人にとって悪夢のような一日となった。できるだけ航空会社のカウンターに近いベンチに腰かけたまま、一時間、また一時間と過ぎていった。三十分おきに立ちあがってはまだ状況は変わらないかと係官に尋ねる。だが答えは決まって、もうしばらくお待ちください、霧は間もなく晴れるでしょう、ということだった。ついに夕方の六時を過ぎたところで、ついにスピーカーから、明朝十一時まで出発は延期されます、というアナウンスが流れてきたのだった。

フォスター夫人はこの知らせを聞いて、どうしたらいいかわからなくなった。ベンチに座ったまま、たっぷり半時間ほど、立ちあがることもできず、疲れてもうろうとした頭で、今夜どこに泊まったものかとあてどなく考えていた。空港を離れるのはいやだった。夫の顔など見たくもなかった。あのひとのことだから、きっと、どうにかしてわたしをフランスに行かせまいとするだろう、と思うと、身がすくんだ。ここでこのまま、ベンチにすわって一夜を過ごすほうがよほどましだわ。それが一番確実のように思えた。だが、そうするにはあまりに疲れすぎており、やがて、わたしのようなおばあさんがそんなことをするなんて、馬鹿げたふるまいにちがいない、と考え直した。そこでとうとう電話のところまで行って、家にかけたのだった。

夫はちょうどクラブへ行こうと家を出るところだったので、自分で電話に出た。夫人は状況を説明し、召使いはまだ家にいるかどうか尋ねた。

「みんなもう出かけたよ」夫は答えた。

「でしたらわたしは今夜、どこかに部屋を取ることにします。ですからわたしのことはどうかおかまいなく」

「何を馬鹿なことを言っておるのだ。ここにいつでも好きなだけ使える大きな家があるじゃないか」

「みんな出払ってしまったじゃありませんか」

「じゃあわたしがいてやろう」

「だって家にはもう食べるものもないんですのよ。ほんとうに何も」

「帰る前に何か食べてくればいい。分別のない女のようなことを言うな。なんでもかんでも、おまえはどうしてそんなくだらないことで大騒ぎをするのだ」

「その通りね。ごめんなさい。ここでサンドイッチでも食べて帰ります」

外は霧も少し晴れかけてはいたが、それでも長い距離を徐行運転で進まなければならず、62番街の屋敷に着いたときは、夜も更けていた。

帰ってきた音を聞きつけて、夫が書斎から出てきた。「やあ」書斎のドアのわきで夫が言った。「パリはどうだったかね?」

「明日、十一時に出発です。今度こそ間違いありません」

「霧が晴れたら、の話だ」

「もう晴れ始めています。風もでてきましたし」

「だいぶ疲れているようだな。さぞ気が揉めた一日だったんだろう」

「それはゆっくり過ごした、というわけにはいきませんでしたけど。ともかく、上がって休むことにします」

「明朝の車を頼んでおいてやったよ。九時に来る」

「あら、それはご親切に。今度はほんとうに、わざわざお見送りしていただかなくて結構ですのよ」

「ならやめておこう」夫はおもむろに言った。「見送るのはよすよ。だが途中、クラブにまわってわたしをそこで落としてくれたまえ」

夫人は夫に目をやったが、そのとき、夫の姿が自分から遠く隔たり、境界線の彼方に立っているように思えた。不意に小さくなり、はるか彼方に遠ざかって、もはや何をしようとしているのか、何を考えているのか、それどころかいったい何者なのかさえもわからなくなってしまったような気がした。

「クラブがあるのはダウンタウンですわ」夫人は言った。「空港へ行く方向じゃありません」

「時間なら十分あるだろうに。それとも君は私をクラブで落とすのが、気が進まないのかね?」

「とんでもない――もちろんおっしゃるとおりにいたします」

「それは結構。じゃ、明日の朝、九時に」

夫人は二階の寝室にあがると、その日一日ですっかりくたびれていたために、横になるやぐっすりと眠ってしまった。


(この項つづく)