陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「いや」なことは「いや」と言ってもいい

2007-09-29 22:10:15 | weblog
「いじめ」で自殺した、といった報道があるたびに、なんともいえない、やりきれない気持ちになる。まったく死ぬ必要がないことで、人が死ぬのはたまらない。

どうして誰かに相談しなかったんだ、というのは簡単だ。
けれど、心の柔らかな部分を踏みつけにされるような経験をした人は、穴に閉じこもるしかない。穴に閉じこもって、身を隠そうとする。ところがいくら閉じこもっても、なお押し入り、さらに殴りつけ、踏みつける人間たちがいる。そうなると、世界はそうした人間と、自分だけになる。逃げ場がなくなった人間は、自分を守るために自分の心を凍りつかせる。そうやって、殴りつけられ、蹴りつけられる恐怖を凍らせる。何も感じなくなることで、自分を守ろうとする。
そんなふうにして、彼、または彼女は穴の奧にたったひとり、閉じこめられる。閉じこめるのも自分だし、閉じこめられるのも自分だ。そこから出してやれるのは、自分しかいない。だから、まわりでどれほど呼びかけても、そこには届かない。

そこまで行く前に、覚えていてほしい。
されたくないことは「いや」と言っても良いのだ。
自分にとって「いや」な現実は、変えることができるのだ。

いまの子は我慢を知らない、と、昔から言い古されたせりふがある。
わたしたちのころも、そう言われていた。
そう言っている人間も、そう言われてきた。

一方で、「我慢せよ」という。
「あなたのためを思って言っている」という人がいる。
「たとえいまいやでも、将来、きっとよかったと思える日がくる」という人がいる。
そういうことを言われ続けていたら、やがて自分で自分を検閲するようになる。
いやだけど……でも。

親を失望させたくない。
先生に「良い子」だと思われたい。
周囲に「いやなやつ」と思われたくない。

そう考えて、いやなことをごまかしているうちに、ほんとうは何が「いや」で、何が「いやでない」のかわからなくなってくる。「いやなこと」と「いやでないこと」の分節が、自分でできなくなってくる。

そういう状態にある子供たちが、何かの拍子にいじめる側といじめられる側に分かれ、いったん固定されたその役割が、自動的につぎの行為を誘発し、とめどもなくなってくることは、何の不思議もない。

もしかしたら、それは我慢できることかもしれない。それは我慢しちゃいけないことかもしれない。
その判断は、いまの自分にはできないかもしれないのだ。
だから、もしなんだか変だ、と思ったら、まず、「いや」と言ってみる。
一度、「いや」と言ったら、つぎはもう少し、言いやすくなるから。
そのつぎは、さらに、もう少し。

それが耐えられる「いや」か、我慢した方がいい「いや」か、口に出してみればわかってくる。

人をきらいになってもいい。人にきらわれてもいい。
きらいな人間とは一緒にいなくていい自由だってある。
きらわれた人間に、好きになってもらう必要はない。
人が好きになるのが自然な感情のように、きらいになるのもまた自然な感情なのだから。
人を好きになるのに理由がないように、きらうのも、きらわれるのも、理由なんてないのだから。

「いや」なことは「いや」という自由が、きみにはあるのだから。

「そう考えない自由が私にあるのだ」

 その言葉が、わたしはとても好きだ。マルクス・アウレーリウスの言葉だ。西暦121年生まれのマルクス・アウレーリウスは、誰であるよりもまず、みずからはげます人だった。その『自省録』は、ごつごつとぶっきらぼうで、簡潔な言葉のいっぱい詰まったふしぎな本で、どんな本もおもしろく思えないような日には、その本を一冊もって、街に出る。…

「ここで生きているとすれば、もうよく慣れていることだ。またよそへゆくとすれば、それはきみののぞむままだ。また死ぬとすれば、きみの使命を終えたわけだ。そのほかには何もない。だから、勇気をだせ」
(長田弘『記憶のつくり方』晶文社)