昨日、そんなに知りもしない朝青龍のことを書いてしまったので気になって、いろいろ検索していくつかニュースを読んでみた。なるほど、そういうことなのか、と、いくつか思うことはあったけれど、書くほどのことを思ったわけではないから、そのことはさておいて。
思わず笑ってしまったのはこの見出し
「のんき高砂親方「私もツルツル」」
こういうのがスポーツ新聞のレトリックなのかもしれないのだが、この文章には非常に鮮明な意図がある。つまり、その人の言葉、公式なコメントではなく、不用意に洩らした言葉尻をとらえて、読み手をある方向に引っぱっていこうとする意図である。つまりその引っぱっていく先は、「そんなことをしている場合ではないだろう」である。
スポーツ新聞ばかりではない、新聞には「そんなことをしている場合ではないだろう」という結論に導こうとする記述に満ちている。
ある事件が起こった。そのとき関係者(責任者)Aは××をしていた。
「そんなことをしている場合ではないだろう」
そうしてAの責任を問う文章が続くわけだ。
新聞には投書欄というのもあって、そこでは実際にそうはっきり書いてあったりもする。
プロの書き手は「そんなことをしている場合ではないだろう」を読み手に見つけさせるために書かないが、一般人は、ついそう書いてしまう、というだけの違いだ。
それでも、あえて言ってしまえば、批判しようとする意図さえあれば、どんな行動をなんだって批判の対象になる。何をとらえても「そんなことをしている場合ではないだろう」と言えるのである。だからこれを書くのはものすごく簡単だ。
しかも書くと正しいことをしているような気がする。
だが、こういうのを見るたびに、わたしはなんだかな、と思うのである。
じゃ、高砂親方が温泉に行ったことが、あなたにどういう被害をもたらしたんですか?
中学生のころ読んだ星新一のショートショート(いまこう書きながら筒井康隆かもしれない、という気持ちがひしひしとしている)に、こういうのがあった。
誰かが感じている「公憤」を晴らしてくれる機関ができた。
日頃、社会的なさまざまな不正に我慢できないN氏は、そこへ出かけてさまざまな「公憤」を訴えた。細かいストーリーは忘れたのだが、その機関の職員は、その「公憤」が、実は私憤に過ぎないことをひとつずつ明らかにしていく。結局、N氏には「公憤」などなかった……。
その議論の細かいところを覚えていればもっと良かったのだが、ともかく中学生のわたしは、確かにわたしたちが正義感と呼んでいるものの大部分は、個人的なねたみとか、不満とか、そうしたものなのだな、としみじみ思ったことを覚えている。まだニーチェのいうルサンチマンという言葉も知らなかったころの話だ。
わたしたちが、自分が責任をとることのできる組織や範囲で不正が行われている場合、つまり、自分が何らかのかたちで当該者である場合は、不正は重大な問題である。それについて解決すべく努力しなければならない、なんてことはまったく書くまでもない、当たり前のことなのである。
だが、それを人に向けるときは、十分に注意が必要だ。
その人間が負わされている条件というのは、それぞれに応じてまったく異なるということだ。ある行動が良いか悪いかという判断も、その条件に応じて決まってくるもののはずなのである(この部分は昨日書いたことのコピペだ)。もっと簡単に言えば、人のことはわからない。
たとえ関係なくても、直接には被害はなくても、不正を許せない、と思う。
その気持ちのどこかに、「あいつら、いい思いをしやがって」という気持ちはないか?
「公憤」晴らし機関は、受け付けてくれるだろうか。
同時に思うのは、たとえ自分のことであっても「そんなことをしている場合ではないだろう」と言えるような事態というのは、そんなにはないのではないか、ということなのだ。
この「そんなこと」というのは、何も遊びに行ったり、観光をしたり、ということを言っているのではない。自分のルーティンワーク、仕事をし、あるいは本を読み、生きるため・生活のために必要なことをこなしていく。もちろん、食事や休息も含めて。
端から見れば、もっとそんなことより、と思えるかもしれないが、そういうことまで犠牲にしなければならないような場面は、それほど多くはないと思うのである。
高校時代のことだ。
こんな話を教えてくれた先生がいた。福沢諭吉の「ペンは剣よりも強し」というのは、もともと彼の言葉ではなく、イギリスの戯曲に由来するものである、ということに続いて、大砲の砲撃が聞こえるさなかにそう言ったのは、ペンで剣をうち負かそう、という意味ではない、という話だった。
つまり、いまは「そんなことをしている場合ではないだろう」という気分になるような場合であっても、学問を続けていくこと。そうやって日々積み重ね、知性を培っていくことが、結局は剣の決着をしのぐことになるのだと。
それはその先生の独自の解釈だったのかもしれない。
だが、わたしはそちらの解釈の方がずっと好きだ。
思わず笑ってしまったのはこの見出し
「のんき高砂親方「私もツルツル」」
こういうのがスポーツ新聞のレトリックなのかもしれないのだが、この文章には非常に鮮明な意図がある。つまり、その人の言葉、公式なコメントではなく、不用意に洩らした言葉尻をとらえて、読み手をある方向に引っぱっていこうとする意図である。つまりその引っぱっていく先は、「そんなことをしている場合ではないだろう」である。
スポーツ新聞ばかりではない、新聞には「そんなことをしている場合ではないだろう」という結論に導こうとする記述に満ちている。
ある事件が起こった。そのとき関係者(責任者)Aは××をしていた。
「そんなことをしている場合ではないだろう」
そうしてAの責任を問う文章が続くわけだ。
新聞には投書欄というのもあって、そこでは実際にそうはっきり書いてあったりもする。
プロの書き手は「そんなことをしている場合ではないだろう」を読み手に見つけさせるために書かないが、一般人は、ついそう書いてしまう、というだけの違いだ。
それでも、あえて言ってしまえば、批判しようとする意図さえあれば、どんな行動をなんだって批判の対象になる。何をとらえても「そんなことをしている場合ではないだろう」と言えるのである。だからこれを書くのはものすごく簡単だ。
しかも書くと正しいことをしているような気がする。
だが、こういうのを見るたびに、わたしはなんだかな、と思うのである。
じゃ、高砂親方が温泉に行ったことが、あなたにどういう被害をもたらしたんですか?
中学生のころ読んだ星新一のショートショート(いまこう書きながら筒井康隆かもしれない、という気持ちがひしひしとしている)に、こういうのがあった。
誰かが感じている「公憤」を晴らしてくれる機関ができた。
日頃、社会的なさまざまな不正に我慢できないN氏は、そこへ出かけてさまざまな「公憤」を訴えた。細かいストーリーは忘れたのだが、その機関の職員は、その「公憤」が、実は私憤に過ぎないことをひとつずつ明らかにしていく。結局、N氏には「公憤」などなかった……。
その議論の細かいところを覚えていればもっと良かったのだが、ともかく中学生のわたしは、確かにわたしたちが正義感と呼んでいるものの大部分は、個人的なねたみとか、不満とか、そうしたものなのだな、としみじみ思ったことを覚えている。まだニーチェのいうルサンチマンという言葉も知らなかったころの話だ。
わたしたちが、自分が責任をとることのできる組織や範囲で不正が行われている場合、つまり、自分が何らかのかたちで当該者である場合は、不正は重大な問題である。それについて解決すべく努力しなければならない、なんてことはまったく書くまでもない、当たり前のことなのである。
だが、それを人に向けるときは、十分に注意が必要だ。
その人間が負わされている条件というのは、それぞれに応じてまったく異なるということだ。ある行動が良いか悪いかという判断も、その条件に応じて決まってくるもののはずなのである(この部分は昨日書いたことのコピペだ)。もっと簡単に言えば、人のことはわからない。
たとえ関係なくても、直接には被害はなくても、不正を許せない、と思う。
その気持ちのどこかに、「あいつら、いい思いをしやがって」という気持ちはないか?
「公憤」晴らし機関は、受け付けてくれるだろうか。
同時に思うのは、たとえ自分のことであっても「そんなことをしている場合ではないだろう」と言えるような事態というのは、そんなにはないのではないか、ということなのだ。
この「そんなこと」というのは、何も遊びに行ったり、観光をしたり、ということを言っているのではない。自分のルーティンワーク、仕事をし、あるいは本を読み、生きるため・生活のために必要なことをこなしていく。もちろん、食事や休息も含めて。
端から見れば、もっとそんなことより、と思えるかもしれないが、そういうことまで犠牲にしなければならないような場面は、それほど多くはないと思うのである。
高校時代のことだ。
こんな話を教えてくれた先生がいた。福沢諭吉の「ペンは剣よりも強し」というのは、もともと彼の言葉ではなく、イギリスの戯曲に由来するものである、ということに続いて、大砲の砲撃が聞こえるさなかにそう言ったのは、ペンで剣をうち負かそう、という意味ではない、という話だった。
つまり、いまは「そんなことをしている場合ではないだろう」という気分になるような場合であっても、学問を続けていくこと。そうやって日々積み重ね、知性を培っていくことが、結局は剣の決着をしのぐことになるのだと。
それはその先生の独自の解釈だったのかもしれない。
だが、わたしはそちらの解釈の方がずっと好きだ。