陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

記憶の話

2007-09-02 23:28:33 | weblog
人間の記憶というのは、すこぶるいい加減なものである、と、サイトに「鶏的思考的日常」というカテゴリーを作っているわたしが言うのも滑稽な話なのだが、ときどきそんな経験をすることがある。

学生のころ、一時期、何かあるとよく集まる友人たちがいた。そのなかに一組のカップルがいて、ふたりはとても仲が良かった。その時期のボーイフレンドガールフレンドというのは、なかなか長続きはしないものだが、そのふたりはずっと続き、やがて結婚したのだ。

いまではそのころの友人とみんなで一緒に集まるようなこともなくなったけれど、最近、ちょっとしたことからそのふたりとまた関係ができて、ときどき会うようになった。仲の良さは相変わらずで、休みのたびにあちこち旅行するふたりから、ときどきおみやげにお茶だのお菓子だのをもらった。どこにも行かないわたしは、お返しもなかなかできずに、もらってばかりで心苦しい思いをしたほどだ。

ところがそのふたりがうまくいかなくなってしまった。わたしもしばらくは、彼女の方から何度となくメールをもらって、ずいぶん彼の話を聞いた。わたしはずっと我慢していた。それに堪えていた。楽しそうなふりをしていた。それをつくろうのに疲れてしまった……。

楽しそうに見えた彼女がそんなにつらい思いをしていたと聞いて、わたしがずいぶんうかつだということもあるのだろうけれど、人間というのはわからないものだな、と思った。
だが、それよりなにより驚いたのは、彼女のなかで、すべてが「悪い思い出」になってしまっていることだった。わたしも共通の出来事でも、それがまったくいまの彼女には異なる出来事として記憶されてしまっている、というか、記憶がまったくちがう物語にかわってしまっているのである。同じ登場人物、同じ出来事が、まったく別のストーリーになってしまったのだ。ちょうど、継母にいじめられたシンデレラのストーリーが、何もできなかった継子に家事をしつけた親身な後妻の物語になっているように。
あのときはああだった。
このときはこうだった。
すべてが彼の冷たさを示す物語にしかなっていないのだった。

何かが起こったとする。
いままでのすべてが、ちがった方向から光が当たる。すると、まったくちがう物語が浮かびあがってくる。そこで記憶は上書きされてしまうのだ。

けれども、それを聞きながら、なんともいえない気持ちになったのも確かだ。
わたしは彼女からさまざまな彼の、これまで知らなかった側面の話を聞いたのだが、それで彼のイメージがまったく変わるようなことはなかった。それは、彼女から聞いた情報が、時間をかけてできあがったイメージをくつがえすまではいかなかったというだけの話だ。
それでもあのときの彼女はとても楽しそうだった。そんなふりをしていたばかりでは、やはり、なかったと思うのだ。その記憶まで、上書きされてしまったとするのは、やはり彼女にとって不幸だろう。

彼女の記憶にまた新しい上書きがされることがあればいいと思う。時間がすぎ、楽しかった記憶が楽しかったものとして、また、浮かびあがってくるといい。